zwei
別れてからひとつの連絡も取っていなかった。もう会うはずのない二人だった。それでも出会えたのは、伝えたこともないバイト先に彼女が通り過ぎたからだ。
深夜帯の暇な時間、そうとはつゆ知らず、パソコンで発注がてら僕は先輩にこぼしていた。うかつにも別れ際の情けない自分と、彼女への想いと、そして何よりも感謝の思いを。
彼女の姿に気づいたのは、目の前にあったエスカレータで降りていく頃だった。今でもスローモーションで思い返すことができる。何かを訴えるように半身を返してこちらを見上ながら、下層へと消えていく彼女を。
あれから数年が経った。僕は故郷を発ち、居場所を東京に移した。
「こちらを。私からのサービスです」
バーテンダーが、すっとゴブレットのグラスをカウンターで滑らせた。しゅわしゅわと白い泡が黄金色の液体のてっぺんではじけている。
「ビール?」「シャンディ・ガフ風味です。少しアレンジしています」
口をつけると、ビールの苦味を絶妙にジンジャーエールが薄めていて、辛口の炭酸が喉を通っていく。それでいて、柑橘系の甘い香りが辛さを塗り替えていく。その三変化は、まるで香水のノートみたいだった。
「サヨナラのキスに変わるものがあってもいいと思いますよ」
「奇跡を起こせなくてもね」と微笑むバーテンダーに苦笑で応えると、不意にポケットが振動した。スマートフォンに届いたメッセージは久しく連絡を取り合っていない旧友からだった、
-久しぶり。明日の花火大会、今年で最後らしいで。行かへん?
添付された画像は地元では有名な花火大会の告知だった。大阪南部では言わずと知れた風物詩も今年で見納めらしい。それを見計らったかのタイミングで告げてくるんだから、一生に何度かぐらい勘違いしてもいいだろう。お膳立てが整ったんだと。
-今、東京おるんやけど、明日の昼からでも間に合う?
-場所取り地獄やからな。早朝に車出すからすぐ帰ってこい。誘いたい奴、誰かおる?
「誘えるなら」と前置きして、僕はひとりの名前を記した。すぐにOK!の返信が来たもんだから、拍子抜けもいいところだ。
「終電が奇跡の条件らしい」
残していたシャンディ・ガフを一気に飲み干す。なんてフルーティで後味の良いお酒だろう。それが奇跡でもラスト・キスになっても、この一杯が傍らにいてほしい。
「明日、お酒飲むと思うんだけど、これと似た缶ビールってないかな」
思案顔になったと思いきや、屈んで姿を消したバーテンダーはごそごそと漁る音を立てると、姿勢を正すなり、缶ビールをひとつ取り出してカウンターに置いた。
「ペールエールです。少し味は違いますけど、さっき作ったものはこれを参考にしています。研究用にキープしてたんですけど、持っていってください」
そう言うと、彼女はすっと伝票のボードを引いて後ろポケットに仕舞い込んだ。
「お会計、つけときます。また来てくれるでしょう」
「そのときはおかえりって言ってくれる?」
「ただいまって言ってくれたら、考えてあげます」
互いに笑みを送り合うと、鞄を持った僕は颯爽とバーを出て最終の新幹線に向けて走って行った。終電までは残り三十分。間に合うかじゃない。間に合わせてみせる。
結末への不安と、帰る場所を見つけた安心感。うごめく感情すべてを受け入れながら。