小説家(ただしエセ)
チェンジリングのクルス・コーキとなって早五か月。
アルグランジュでの快適な暮らしにも、アルフォンス君との同居生活にもすっかり慣れた。
その間に念願の推理小説を、心おきなく世に送り出していた。
もちろん日本語の言語登録もばっちりだ。これまで読んだどんな本も、あっという間にアルグランジュ語で出力できるようになった。
現時点で、アルグランジュに誕生した新ジャンル、クルス・コーキ作の推理小説は、飛ぶように売れている。
実際には僕の作など一作たりとも存在しないわけだが。
もともとただでさえ本体の悪名での悪目立ちに加え、バラバラ殺人事件の真相を暴いたため更に名を馳せてしまったことも話題を集めた一因だ。不本意だが、販売戦略上は成功と言えるのだろう。
かつて愛読していた推理小説は、こちらでは日本でいうところのまさにファンタジー小説扱いとなっている。事件捜査に推理がいらない世界で、犯人のトリックや駆け引きなどが逆に現実感離れしているという意味で、ほぼ異世界の物語に等しい。
進んだ技術も魔法もなく、ひたすら事実と証拠、因果関係から論理的に推理と検証を重ねて結果へと到達する過程が、これまでになかったものとして受け入れられたようだ。
更には、本来忌避すべき殺人という犯罪を、バラエティー豊かな手法でこれでもかと突き詰めて娯楽にする文化自体が、非常に斬新なものと感じるらしい。
おかげさまで僕も準自宅警備員から晴れて脱却し、なかなかえぐい勢いで稼がせてもらっている。
生みの苦しみを味わった本来の作者達には申し訳ないほどだ。
今あるネタが尽きたら、漫画に手を出すのもいいかもしれない。
僕の読書の守備範囲には、もちろん推理漫画だって含まれている。腐女子のカリスマとなった先輩チェンジリングのケルットゥリさんのおかげで、漫画的な表現方法もすでに世間に広く浸透しているのできっとウケるだろう。
いやしかし、いつも己の推理をじっちゃんの名にかけてしまう少年探偵を出す前に、じっちゃんの方の活躍を世に送り出す必要がある。先月発表した『犬神家の一族』はなかなかの反響だったが、次は何にしようか。
しかしあの少年も未成年だからまだ許容できたが、自身の推理を身内の権威の名の下に発信するのは正直感心しない。発言は自分の責任の下で行うものだが、きちんとした大人にはなれたのだろうか? シリーズが多すぎて、さすがに僕も最新のものまでは追い切れずに後回しにしていたので、二度と読めないとなると気になるところだ。
一方で双璧を成すもう一人の少年探偵についても、こちら版に改編する機会があったら、児童労働の点も含めて気を付ける必要があるだろう。こちらの法制度的に、子供を事件現場でうろつかせる理由付けが極めて困難だ。保護者の責任が徹底追及されてしまう。
それに、こちらにも興信所の類の職種はあるが、しっかりとした免許制なので、小学校低学年の年齢ではそこも難しいのだ。子供が遊びで「○○ライダー」や「○○柱」を名乗るように、自称探偵の設定で行くしかなさそうだ。いや、オリジナルの方も実質はそうだったか? 事務所を構えていたのは、迷探偵の方だったはずだ。
とはいえ、興信所で一番多い依頼内容は浮気調査だと聞いたことがあるが、普通良識のある大人は、たとえどんな天才であろうが、浮気調査など子供には頼まない。それを言ったら、殺人捜査など更に以ての外だが。
いや、そもそも根本的な問題として、DNAでの本人照合がその場で瞬時にできてしまうため、どれだけ外見を変えても身分詐称自体が不可能だった。ファッション感覚で整形できる技術のある国だけに、その辺の管理は厳格なのだ。
なんということだろうか。設定の前提が総崩れだ。やはりこちらで向こうの漫画を再構成するには、クリアすべきハードルが多すぎる。
まあ推理小説の一番のネックは、このアルグランジュでは、殺人事件等も推理なしでほぼ解決してしまうせいで、リアルの事件では探偵の出番が皆無だということに尽きる。だからこそ架空のファンタジー扱いなのだが。
科学技術がこちら基準で見ればないに等しいような世界観という意味では、時代小説としての側面もあるといえる。日本の現代人から見たら、江戸時代辺りを舞台にした捕り物小説に近い感覚かもしれない。
ともかく推理小説ジャンルとはそういう性質のものだとして、世に浸透しはじめているところだ。いずれ触発されたこちらの作家が後追いで同種のものを書いてくれるようになれば、僕も再び新作が楽しめるようになると期待している。
その他にも、ジャンルを問わなければ映画やドラマ、アニメなどの映像方向などもストックがあるので、一生分の生活費は、仮に遊んで暮らしていても安泰だろう。僕も金持ちチェンジリングの仲間入りだ。
更に、小説だけでなく、並行して売り出しているクラッシック音楽の方の販売も順調で、あちこちで流れるようになってきている。
もともとの希望通り、自宅でもその日の気分で自由に鑑賞できるようになった。
「そういえば、コーキさんの出す音楽って、あまり歌の入ったものはないですよね。あちらではあまり盛んじゃなかったんですか?」
すっかり習慣化した食後のティータイムで、アルフォンス君に訊かれた。
「いえ、僕があまり歌詞のある曲を好まなかっただけですよ。進んで鑑賞したのはせいぜい、外国語なので聞き流せるオペラくらいでしょうか」
もちろん世間で流行っている歌なども聴くことはあるのだが、僕の性格上、つい余計なことが気になってしまって、純粋に楽曲に浸れないのだ。
一例を挙げるなら、“大人に支配されるな”と、一糸乱れぬダンスで高らかに歌い上げる少女達。あの見事なパフォーマンスを身に着けるまで、一体どれほど大人に支配されてきたのだろうかと、彼女達の苦労をつい偲んでしまう。「もっと挑むように反抗的な目つきで!」等々の大人の演技指導を、きっと素直に忠実に守っているに違いない。
まあ、ろくに人生経験も積んでいないような若者が、むやみやたらとポジティブに励まそうとする応援ソングなどは、子供受けもいいし微笑ましいとも思えるのだが、厄介なのが演歌のジャンルだ。あの類は僕にはどうにも受け付け難い。
あの非合理的かつ非生産的な世界観とでもいうのか。私苦しいの、耐えてるの、えらいでしょと。俺は歯を食いしばってやせ我慢してるぜ、それが漢の生き様なんだと。必死で不幸をアピールしてくるような後ろ向きの圧迫感がどうにも僕の性に合わない。まるでサラリーマンの不健康自慢を彷彿とさせるようだ。
現状に問題があると認識しているなら改善の努力をするべきだ。命がけで理不尽な病魔と一日一日を闘っている子供がいるのに、自立したいい大人が何を甘ったれた言い訳を重ねているのだ。
たとえば、受け取ってもらう当てのないセーターを編んでいるなどといううじうじと不毛な嘆き節。せめて前向きに完成品をバザーなりメルカリにでも出したらどうかねと、ほんの短いセンテンスにもどうにも情緒のない感想がいちいち湧いて出てしまう。これは揚げ足取りというのだろうか? 僕が即物的な人間であること自体はまったく否定するものではないのだが。
ともかく不幸な現状をまったく変える意思のない、むしろ逆方向に爆走する頑迷さが引っかかって、どうにも落ち着いて鑑賞できないのだ。これはもしかしたら、認めたくはないが同族嫌悪というものも含まれているのだろうか?
なので歌に関しては、特に自発的に聞きたいとも思えなかった。
「僕の性格に合わないんでしょうねえ」
「ああ~、なんか、分かる気がします」
考え込んでから一言でまとめた僕を見て、アルフォンス君が苦笑いで納得した。
「――――」
まったく君に僕の何が分かるのだ、この若造め――と思ったのは、やはり負け惜しみだろうか。