助言
美少女と言えば、少々苦い経験を思い出す。
僕の元の職場では、難病を抱えた子供との出会いがある。叶わぬ夢と薄々知りながら、子供たちが将来の目標を語る場面も時折あった。
「元気になったら、先生みたいなお医者さんになるよ!」「パラリンピックで金メダルを取るんだ!」「IT社長のお嫁さんになるの!」――どんな現実離れした大望や野望であっても「素晴らしい夢だね。応援してるよ」と答えたものだ。
しかし元気君に、「俺、病気を治して『転生したら超絶チート! でも追放されたので魔国でハーレム作ってゆったりスローライフ送ります』のセイヤみたいに、美少女ハーレムを作るんだ!」と無邪気に宣言された時の僕の心境は何と言い表せばよいものか。
もちろんいつものように笑顔で賛同はした。「大きな夢だね。叶うといいね」と。だが僕の良心が「素晴らしい」と評するのを全力で拒否してしまったのは否めない。あんなに応援する気の伴わない「応援してるよ」を口にしたのは初めてだ。医師として未熟だったと言わざるを得ない。とはいえ、教育的には望ましくはなかったのだろうが、明日をも知れない子供の夢を頭ごなしに否定できるものではない。
しかも、嬉しい誤算が起こり、元気君は生存率10パーセント以下の病を見事に克服したのだ。
そして数年後、検査に来院するたびに、業務中の若い看護師を口説くナンパ野郎へと残念な成長を遂げてしまっていた。いや、看護師ならまだいい。よくないが。
困ったのは、来院中の高校生以下の少女に声をかけ、保護者からの苦情が殺到したことだ。どうもかつて抱いた大きな夢に向かって邁進している最中のようだった。
年長者として、せめて美少女は諦めて美女に妥協しておきなさいくらいは忠告しておくべきだったのだろうか。 普通に考えればそちらの方が遥かにハードルは高い気がするが、趣味趣向は人それぞれだからな。もし彼が青少年保護育成条例に違反してしまった場合、やはり道義的に僕にも責任の一端はあるのだろうか?
あの時、大人としてしっかり窘めるべきだったのか。それとも応援したからこそ、強い希望と目標を支えに奇跡の回復をしてくれたのか。僕は今でも正解が分からない。
それからはただ、容疑者として彼の名前をニュースで見たり、修羅場の末に救急車で搬送された彼と対面する日が来ないようにと願うばかりだった。もう二度と会う日はないのだろうが、彼が道を踏み外さず無事に生きていてくれることを遠くから祈っていよう。
「俺のことはともかく……」
また僕がうっかり思考の沼にはまってしまった隙に、アルフォンス君は咳払いをして話題を変えた。
「ちょっと、真面目な話になりますが……」
そう前置きして、真剣な顔つきで僕を真正面から見据えた。
「コーキさんは俺のことをまだ若いからと言いますが、今はコーキさんも同じような条件です。むしろ、ゼロから始めるという点では、俺より不利です。たとえチェンジリングの圧倒的な優遇措置があったとしても」
「――そうですね」
そこは素直に同意しておく。確かに生活面では困らないが、彼が言いたいのはそういうことではないのだろう。
「前の人生では孤独だったと言っていましたが、この先も同じように、一人で生きていくつもりですか?」
「それは、僕を口説いていますか? ココアが欲しいんですか?」
「この際俺のことは関係ありません」
好ましくない空気になる懸念から、意図的に茶化した僕に、アルフォンス君は珍しくぴしゃりと否定した。
「……まあ、考慮に入れていただけたらとは思いますが……いやっ、だからそんなことは関係なく!」
せっかく真面目に進めていたのに、なぜそこで本音が入るのか。やはりこれが若さというものだろうか。少々残念に思う僕をよそに、気を取り直して話を続ける。
「コーキさんはこれから、どうしたってマリオンの体で女性として生きていくわけです。とはいえ……それに縛られる必要はないんです。マリオンの姿が変わってしまうのは辛いですが、性別適合手術という手段があるし、アルグランジュは同性婚だって認められている国です。コーキさんの心の性別の在り方がどちらでも、コーキさんらしくいられる選択肢はいくらでもあります。自分は特別だからと、無理に一人で生きていく必要はないんですよ」
冗談ではぐらかそうとしたのに、アルフォンス君は本当に真剣に僕の将来について考えていてくれていた。
ここは大人として反省しなければ。
「出会ったばかりの日に、不安定だった俺を、コーキさんが放っておけずに見守ってくれていたのは理解しています。でも俺も、いつまでも甘えているわけにはいかない。俺だって、あなたの助けになりたいです。この世界で、あなたにはちゃんと幸せになってほしい」
その真摯な訴えに、胸に抑えがたい何かが湧き上がってくる。
「――君には十分、助けられていますよ?」
別に見返りを求めて一緒にいるわけではない。むしろ、僕の都合もあっての同居だった。
なのに、そんなことを考えてくれていたというだけで、僕には過分なほどだ。
「君がいてくれたおかげで、今僕は、このサプライズの人生をとても楽しく過ごせているんです」
これはまぎれもなく本心だ。
この暖かな家で、家族と穏やかに暮らす幸せを再び味わえるなんて、思ってもいなかった。
彼は、もう戻らないマリオンではなく、今、目の前にいる僕自身の幸せを願ってくれている。
そのためなら、自身の願いや憂いを押し殺してでも。
その気持ちが、僕にとってどれだけ嬉しいことか。
しかしアルフォンス君は、僕の本心からの言葉に納得せず、首を横に振る。
「俺ばかり支えられて、何の役にも立ててません。――あなたも、何もかもが変わってしまったばかりで、まだ落ち着いて考えられないかもしれません。ですが、この先の人生が長いことは、心の隅に置いておくべきです。いずれは今の人生を受け入れて、この世界での新しい将来をちゃんと考えられるように。もしあなたが自分の本当の道と、ともにいるべき人を見つけてここを出て行きたいと望む日が来たら、俺のことは気にしないで、あなたの幸福を追ってください」
心ならずも、といった様子がありありの表情で、それでも真っ直ぐに僕のための助言をする。
「――――」
なんだろうか。今、僕の胸を占める感情は。
自身の痛みを強い意志で抑え込んで、語りかけてくるアルフォンス君を見ていると――永遠に小さなままだった記憶の中の弟が、いつの間にかこんなにも立派に成長して、人の幸せを願う男になっていたのかと、心を動かされた。
思わず自嘲気味に、内心で否定した。
――僕が不安定になってどうする。
何が現実で、何が錯覚か、区別がつかなくなってしまいそうだ。
僕には、やらなければならないことがある。揺らいでいる場合ではないのに。
しかし受け止めることはできなくとも、彼のその気持ちだけは、しっかりと心に響いていた。
だから、僕の行く末を真剣に案じてくれるアルフォンス君に、少しだけ本音を答えよう。