ココア
ともかく今は掃除だ。床に広がる液体とグラスを見てから、クマ君へと視線を移す。
すると、クマ君は指示を受ける前から、落ちたグラスを片付け始めていた。
どういうことだろう? 前回と何が違うのか。まさかあの一回で学習したというくらいなら、もともと前回もできていたはず。
なぜ今回は自発的に行動を選択できたのか首を捻るが、僕にそんなことが分かるわけがないので答えは諦めて、アルフォンス君に視線を戻した。
「アルフォンス君。また、飲み物を落としましたよ。今度は何なんですか?」
「……いえ、コーキさんのことだから、知らずに言ってるのは分かりますが、それ、絶対外で言わないでください」
どうやら僕はおかしな発言をしてしまったらしい。
確か日本語の『カツオ』は、イタリア語では放送禁止用語になるとか、日本語では誉め言葉の『キレイ』が、タイ語だと正反対のブサイクという意味になると聞いたことがあったが、その類だろうか。日本でなら賛辞に使える『ハートフル』など、英語圏では「有害」とか「苦痛を与える」の意味になり、「彼はハートフルな人物だ」などと言おうものなら、どんな鬼畜なのかと思われるところだ。
変にピッタリはまる同音異義語とは厄介なもので、長いこと勘違いしたまま大人になってから、え、そういう意味だったの、と知って恥ずかしい思いをすることが多々ある。
かつて職場にいた技師の川崎君が『灯台下暗し』の意味を「上ばかり見ている上昇志向の強い東大の本倉氏が、足元のことを疎かにした結果転落してしまった故事」だと思っていた事実が発覚した時には、居合わせた職員一同が震撼したものだ。なまじ微妙に意味も似通っているだけに余計質が悪く、普通に使っていながら“よくぞその年まで”と感心したくなるほどいい年齢になるまで、周りも本人も気付かなかった例だ。
かくいう僕も、十二月になるとあちこちで聞こえ出す『諸人こぞりて』の「主は、主は来ませり」の部分を、雄山氏の如き古風な美食家が珍しく飲んだ炭酸に「シュワシュワきませり」といかめしく論評している光景をずっと思い浮かべていた。コーラスのサビで「シュワシュワ」の連呼を聞くたびに、そんなに高らかに歌い上げるような内容ではないだろうと首を捻るしかなく、せっかくの壮麗な讃美歌がそれでいいのかと心配になったのは、後で思えば余計なお世話だった。
アルフォンス君の反応を見るに、きっとそういうまったく別の解釈になってしまう表現なのだろう。
「『ココア』に、何か変な意味でも?」
何とか思い出そうとするが、出てきそうで出てこない。いつもならすぐに万能さんで調べるのに。しかし日常でよく聞く、そんなにおかしな意味の単語ではなかったような気がするのだが。
「いえ、まあ、それ一言なら“人”という意味で普通に使うんですけど」
「ああ、そうそう! 人でした。ど忘れしてしまいました」
似た発音だと、逆に紛らわしい。これから僕は『ココア』と聞いたら、飲み物ではなく、人間を思い浮かべなくてはいけないのだ。
「で、結局何が問題なんですか?」
「普通の若い女性なら知らなくても当たり前の、慣用的なスラングなんですけどね……」
「なるほど。要は下ネタ的なものですか」
「なんで“人”が出なくて“下ネタ”はすらっと出てくるんですか」
「『男子中学生』あるあるですね。向こうの世界でいうところの、思春期真っ盛りの男子学生のことです。僕も五十年前は『男子中学生』をやっていた時期があったのです」
「なんか想像できないんですけど。ちゃんと溶け込めてたんですか? 男同士のノリに参加できてました?」
「女子の友人の方が多かったのは否定しません」
「それはそれで羨ましいんですけど」
「で、どういう意味なんです?」
話を逸らそうと誘導している気配を感じたので、一気に元に引き戻す。
「う、だからですねえ……」
観念したアルフォンス君が、渋々と説明する。
なんだか無邪気な子供に性教育方面の疑問を投げかけられた親のような空気感を感じるのだが。僕は遥かに年上の元医師なのに。
「“ココア”は「人」、ですから、そのまま「人が欲しい」という意味になりまして……特にそれを直接異性に言うと、性的な誘惑の意味に転じてしまうわけです」
「ほうほう、なるほど。人が欲しいで、そういう慣用的な使われ方をするんですか」
それは面白いと、思わず感心する。これは普通の辞書ではなかなか調べられない言い回しだろう。いい勉強になった。
「すると僕は今、君をベッドにお誘いしてしまったわけですね?」
「――すいません。その姿で、あまり言ってほしくは……」
何とも表現のし難い表情で、アルフォンス君が額を押さえる。
「とにかく今は若い女性の姿ですから、気を付けてください」
「年配男性の姿で言っても、それはそれで問題があると思いますが」
それはそうと、身体が義姉だからとか、中身が男性だからなどが理由なら、誘惑されて困惑するのはごもっともと納得できる。
しかし美少女が理由だった場合は、苦言を呈しておかなければならない。
「念のため再度忠告しておきますが、僕のことを好きにならないでくださいね? もしそうなられても、君の気持ちには応えられませんからね?」
「わ、分かってます! でも、もうそれ以上は……思ったより、突き刺さるんですよ……」
アルフォンス君が、情けない表情で呻くように答える。
どうしたものか。これは、少々問題なのではないだろうか?
僕が考えている以上に、彼は僕の姿に惑わされているようだ。
なにしろ今の僕は「パジャマの美少女」らしいから。
しかしこればかりは、僕にもどうしようもないのだが。
せめて「ジャージの美少女」とかなら、少しは威力が落ちるのだろうか。いやしかし、それはそれでまた別の需要が発生しそうだ。
何とも難しいところだ。