残された家族
資料室で五時間も粘ってしまった。
本来の要件より、私用の調べ物の方がメインになる勢いだ。
しかしおかげで、大分情報の整理はできた。
職員の皆さんにもお礼と挨拶をして、チェンジリング局を後にする。
すでに夕方に近い時間帯だ。ふと空腹に気が付いた。没頭しすぎて、昼食を食べていなかった。
もうすぐ夕食だから、それまで我慢しよう。
それよりも、せっかく外に出たのだから、ついでに買い出しをしておきたい。新生活とはいろいろと入用になるものだ。
前の生活では忙しさもあって、ネットでの買い物ばかりになってしまったが、本来の僕はぶらぶらしながらゆっくり選ぶ方が好きなのだ。
今は時間だけはある。久しぶりの買い物を楽しもう。
差し当たってすぐに必要となる服飾雑貨を中心に買い揃えていく。
服は、一応女性ものだが、以前着ていたシンプルで着やすいシャツやスラックスに近いデザインのものを数点選んだ。
街を歩いていると、明確に視線を感じることが数回あった。ナンパ男性の時と違って、声はかけられないが、ちらちらとされ、ひそひそもされる。
やはりこの顔だろう。ほとんどの人は気にも留めていないが、気付く人は気付くようだ。
もっとも、名前を聞けば誰でも知っているような超有名な犯罪者であっても、意外と顔まで覚えている一般人は少ないものだ。いい気分はしないが別に害があるわけではないから、スルーでいいだろう。
しかしこれもいい機会だと、朝に感じた問題点を解消しておこうと思い立った。
本日の外出の最後の活動として、ある施設に入って、ちょっとした用事をすませた。
* * * *
「アルフォンス君。ただいま帰りました」
手荷物を抱えてタクシーから降り、灯りのついた自宅に帰る。
数十年ぶりに、誰かの待つ我が家へのただいま――そんな些細なことに、ささやかな幸福感を覚えながら、リビングのアルフォンス君に声をかけた。
「おかえりなさい、コーキさ……」
振り向いたアルフォンス君の表情が、僕を見てぽかんとなった。
なんだか既視感漂う反応だ。今朝も、おはようの挨拶の時にこんな風だった。
しかし今回は僕にも心当たりがある。はっきり言って意図的にやった。
「か、髪が……」
「邪魔なので切ってきました」
「し、しかも、色……」
「水色の反対色の、赤です」
あっさりと答える。
洗うのにも日常生活にも、背中までの長髪は邪魔だった。よく以前のマリオンはこんな髪形を平気でしていたものだ。
さすがに幸喜時代のようなオールバックにまではしないが、女性として不自然ではない程度のショートカットにしてしまった。これですっきりだ。
その上、深紅に染めてしまった。人生で初めての染髪に、ちょっと浮かれているかもしれない。日本人時代だったら引くところだが、蛍光色の髪色まであるこの世界ならごくごく普通なので抵抗感もない。
仕上がりをじっくり眺めたが、なかなか似合っていると思う。
予想通り、アルフォンス君はあからさまにがっくりと肩を落としていたが、これでマリオンのイメージからはぐんと遠ざかったことだろう。世間的にはちょっとした変装にもなるし、いいことずくめだ。
「いつまでも過去を振り返るものではありませんよ。前を見ましょう」
あえてさばさばとした口調で、落ち込む青年を励ます。
「はあ~、コーキさんが無頓着すぎるんですよ」
アルフォンス君も諦めた口調でぼやいた。
それから、少し沈んだ表情で続ける。
「今日は暇だったんで、一日中チェンジリング現象について調べてました」
彼も僕と似たようなことをしていたようだ。
チェンジリングという存在自体は誰でも知っていても、具体的にどんなものか詳細に知っているわけではないのだろう。僕もテレビでよく見る有名人など、名前と顔は知っているのに何をやっている人なのかまったく分からないことなどしょちゅうあったものだ。――少し違うだろうか? まあいい。
クマ君にお茶を頼んで、僕もゆったりとソファーに腰を下ろし、向かい合って話を聞く。
アルフォンス君は浮かない顔のままだ。
「一応親戚に一人いたとはいえ、会ったこともなかったし、世界のどこかでごくまれに起こる他人事って程度のもので、今まであまり関心なかったんですよね」
「そんなものですよ」
自らの身に降りかかるまでは、僕だってそうだった。
だからこそ、軍曹の孤独とは計り知れないものがあったわけだが。彼がアメリカという国で生まれ育った男性だったと、本当の意味で理解できるのすら、この広い世界で僕一人だけなのだ。
「俺、チェンジリング現象って、死んだ直後の体に異世界からの魂が入り込む現象なんだと思ってました。世間では普通、そう思われてるんです。でも詳しく調べたら、死んだ体同士での精神の交換が起こっているって説もあって……」
「ああ……」
彼の憂いの理由が分かった。
「異世界にある僕の体で、マリオンさんが生き返っているのではないかと、思ったわけですね?」
「生きていてほしい……でも、正直複雑です」
それはそうだ。目覚めたら突然六十五歳の男性になっていて、だけど命があっただけでもよかったねとはならないだろう。
「僕はその点については、考えるのはやめましたよ」
早々に結論を突きつける。
「どんなに考えても、永遠に答えの出ない不毛な疑問です。できるのはただ、大切な人の幸せを願うことのみ。それだけです」
当事者の僕でなければ、言えない言葉だ。だからこそ、はっきりと諭すのだ。
「残された家族が、自分のことで苦しむ姿を、誰も喜ぶわけがない。それだけは確かな事実です。君は、君のために生きてください」
真っ直ぐに見据えて言う僕に、アルフォンス君は少し迷いながら、口を開く。
「コーキさんは、あちらの世界に残してきた人は、本当に一人も……?」
気遣いながらも、昨日中途半端なまま終わった話題の続きを問いかけてきた。
「いませんよ。ずっと昔に、両親と弟を喪って、住む場所も遠く離れてしまって……引き取ってくれた祖父母が亡くなってからは、ずっと一人です。僕は、過去を振り返りすぎて、新しい場所で、新しい大切な人を作れなかった。だからこそ、若い君に言うんです。君の人生は、まだこれからなのだから」
自分ができなかったことを、人に偉そうに言うのは不本意だ。
しかし、やはり経験した者にしか言えない言葉の重みというものはあるのだ。
マリオンもきっとそう願っているなんてセリフなど、他人である身ではとても伝えられない。
ただ僕は、目の前の青年が立ち直って強く生きていくことを、心の底から願っているし、応援したい。
アルフォンス君はおもむろに、ふっとかすかに笑うような息を漏らした。
「コーキさんの人生も、まだまだこれからじゃないですか。今は実質、俺より若いんですから」
「ははは、確かにそうですね。やりたいことも、ちゃんとあるんです。今度こそ、突き進みますよ」
「内緒の目標というやつですか」
「その通りです」
「人に言えないようなことなんですか?」
からかうような口調に、僕もとぼけて返す。
「それも内緒です」
顔を見合わせて、二人で軽く笑う。
もうその笑みに、先程の憂いは消えていた。
「本当に、おかしな気分です。あなたは、昨日会ったばかりの人のはずなのに……」
「今はそれで救われるなら、錯覚するのもいいと思いますよ」
僕も一貫性がないなと、内心苦笑しながら受け入れる。白黒つけるばかりが解決策ではない。
ゆらゆらと揺れながらでも、少しずつ浮き上がっていければいい。




