目標
服を着てから出直すと、すでにテーブルには朝食の用意がされていた。
席について、二人で差し向かいの食事を始めながら、さっきの件の話題になる。
「コーキさん。昨日の今日で、男性気分がすぐには抜けないのは理解できますが、さっきみたいなことは本当に気を付けてくださいよ。外では特にです。戸籍上の年齢は成人でも、外見は少女なんですから、不注意で事件に巻き込まれる元にもなりかねませんからね?」
アルフォンス君が、警察官視点らしい忠告をしてくる。
「もちろんです」
男性だった時だって、さすがに外ではきちんとしている。そうは思うが、そこは素直に頷いておいた。確かにさっきのは僕の落ち度だから甘んじて受け入れよう。
しかしそれとは別に、たかが姉の下着姿くらいで不自然に焦りすぎではないかとも疑問に思ってしまう。
「僕としては、正直それほど驚かれるとは思いませんでした。逆に驚いてしまいましたよ」
「いちいちやることがマリオンと同じなんですよ、もうっ……別人だと分かってるのに……」
やけくそのようにぼやく。
そうか。その点でもうっかりしていたのか。
僕はまた、彼の中でのマリオン像と合致してしまう行為をやらかしてしまっていたわけだ。
ここはお約束のきめ台詞の出番だ。
「今回は僕にも反省点があるようですが、マリオンさんではありませんよ?」
「分かってます! でも、風呂上がりに裸足で歩いてくるとこまでそっくりで……」
「前にいたニホンでは、割と普通のことなんですが」
スマートハウスとロボによって完璧な掃除がなされているので、自宅のフローリング気分で当たり前のようにやってしまった。
「とにかくマリオンは、家の中では平気で下着でうろつくタイプだったんです。当時は俺も子供だったので特に気にしてはいませんでしたが、今はやめてください、本当に!」
切実に頼み込まれ、そこでようやくなるほどと合点がいった。
子供の頃はどうということもなかった姉の下着姿も、十五年のブランクの上で、二十代の青年になった今では、目の毒となってしまったということか。しかもよくよく考えてみたら、見かけだけは女子高生相当の年齢のままなのだ。
もしかして僕は、中身の正体を打ち明けた後ですら、年下の少女のように見えているのだろうか。これは、事実としては認識しつつも、実感が追い付いていなかった。
僕から見れば、彼こそ年下の若造もいいところだというのに。やっと研修医になったかどうかという年齢のひよっこなのに。
「以後気を付けますよ」
しかし僕はルールはしっかりと守る方だ。今後は若者の精神を乱さないように、本質的な年長者として注意を払ってあげなければ。同じ失敗はもうしない。
「それにしてもコーキさんは、急に性別が変わってしまって、戸惑いはないんですか?」
僕のマイペースぶりに、アルフォンス君が呆れる。
その点に関しては、別にさほどの混乱はない。
「なに、しょせんは同じ二足歩行の人類です。そう大きな差はありませんよ」
「そ、そうですか……」
「医師でしたから、身体的な面でも知らずに困るようなことは特にないでしょう」
「へえ、医者だったんですか?」
アルフォンス君は、そこで僕の職業の方に食いついた。
「ええ。小児科医を定年まで続けましたよ」
「復職するつもりはないんですか?」
「さすがに、こちらでは無理だと思いますよ?」
昨日観光しながらこちらの現代医学を改めて調べてみたが、やはりこのレベルの高い科学力を誇る世界に、僕が積み重ねてきた医学知識でチートできる余地などはなかった。
チェンジリングという異世界転移者たちによって、無双され尽くした後の世界には、草の根一本残っていないありさまだ。
食事はおいしいし、科学技術も高い。便利な道具など出され尽くしているし、大体の作業をロボが片付けてくれる。
せっかく魔法まであるのに、科学の方が便利で実用性も汎用性も高いから、利用価値が低くて活用の場がないくらいだ。大変な訓練をしてまで炎や風で攻撃魔法などかまさなくても、誰でも使えるレーザー銃などがあるのだ。土魔法などなくても空飛ぶ重機や透過装置があるし、上下水道完備で治水も万全の上、水などいくらでも合成できる世界で水魔法なども使いどころがない。
ともかく魔法で起こせるような現象は、大体科学でも再現できる。それも個人の資質によるところもなく、修行することもなく、誰にでも同じ作業が可能となる。少なくともアルグランジュでは、その方向性で国が発展している。
あのボーカロイド秘書のお茶入れマジックは、科学特化のこの国では特殊技能の数少ない見せ場だったのだろうか。やはり僕はもっと讃えてあげるべきだったか。楽しませてもらいましたよ。
そしてそんな世界では、当然医療のレベルも次元が違っている。
まったく、あれほど理不尽な病と闘った先日までの苦労は何だったのだろうかと、徒労感に襲われそうだ。
こちらの世界は、怪我も病気も、笑ってしまいそうなほどに価値が軽い。とりあえず即死でさえなければ大体治せると言ってもそう語弊はないだろう。
それこそ、視力が落ちたなら、目玉を変えればいいじゃない、をリアルで行く世界なのだ。眼鏡を作りに行く感覚で、日帰り手術をしてしまう。
それもかかりつけ医レベルが、眼球でも皮膚でも四肢でも内臓でも、不具合の生じた部位を、患者自身の細胞でクローン再生して、お手軽に付け替えられる。まさに夢の再生医療。この技術を持って帰ったらノーベル賞確実だ。
さすがに倫理的な問題で研究が禁止されているが、オリジナルの脳から記憶を完全コピーし、新しいクローン体の脳にダウンロードしての若返り、などというSFのようなことすら可能とされている。
ただ仮にそれをやった場合、法的には別人とされ、チェンジリングとは正反対に、前の体の持っていた権利の一切を失うそうだ。その記憶情報は、機械を通すことで、もはや人格ではなくただのプログラムと判断されてしまうからだとか。その辺りは、十数年前に成立したAI規制法との絡みもあるらしい。
考え事をしながらつい、かけてもいない眼鏡を上げようとして指が空振ってしまった。長年染みついた癖とは恐ろしい。
アルフォンス君が不思議そうに首を傾げる。
「変わった癖ですね。その鼻の上を触る癖」
「ああ、メガネの位置を直す癖がまだ抜けないんです」
「メガネって何ですか?」
「前に僕がいた世界で使っていた、低下した視力の補正器具ですよ」
「治療しなかったんですか?」
「そうそう簡単には治せないんです。この世界ほど医療が発達していなかったので。ですから再び医師をしようと思ったら、学生からやり直さなければならないでしょうねえ」
「それもいいじゃないですか。生活の心配はないんだし、何でも好きなようにしたらいいんですよ」
「ええ、もちろんそのつもりですよ?」
そこだけは、すでに方針が決まっている。
ただ、僕は医師よりも、やりたいことを見付けただけだ。
「もう次の目標が見つかったんですか?」
「そんなところです」
「なんですか?」
「内緒です」
興味本位のアルフォンス君の問いを、笑ってはぐらかした。
僕の目標はすでに決まっている。
十五年前の事件の真相を白日の下に晒すことだ。
もちろん目の前の同居人に教えるつもりはない。
彼が事件関係者だから、というだけではなく。
おそらく僕が、そんな目標を口にすれば、いい顔はされないだろう。
少なくとも僕が逆の立場だったなら、そんな無益なことにかかずり合うのはやめて、もっと建設的に自分の人生を一からやり直す努力に傾注するべきだと忠告するだろう。
君はマリオンではないのだから、と。
それでも、僕は決めたのだ。
神を信じない僕が初めて、悪魔なら信じてもいいと思っている。
僕はそのためにここにいるのだとすら、確信している。