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二人で

「昔みたいにキスしてもいいですか?」


 唐突にアルが言う。いや、プロポーズをされたわけだから、むしろ自然な流れなのか。


 こちらの文化では、家族間のハグやキスは日常的なものだ。マリオンではないからと言い張って、ずっと他人の距離を保ってきた引け目もあって、「いいですよ」と深く考えもせず答えた途端、アルの唇が重ねられる。

 

 結論から言うと、昔よくした家族のキスじゃなかった。


 それはもう、軽く請け合った僕が不覚にも焦ってしまうほどに。もう弟ではないという主張がはっきりと込められていた。


 そのくせ、名残惜しそうにようやく離れた後に、「だめでしたか?」と、またなんだか昔を思い出させる表情で甘えて見せてくる。


「――作戦を変えてきましたね?」


 今までは若造と侮られないよう背伸びして見せる部分があったのに、今は都合のいいところだけ甘えん坊の弟の顔を出してきている。昔と違うのは、意図的にやっていることだ。


 僕の第一声に、アルがニヤリと笑って見せる。


「あなたには、この方が効くでしょう?」

「…………」


 実は、効果絶大だ。僕は昔から、甘えるアルには弱かったのだから。対等に張り合われれば断れるのに、おねだりだと撥ね付けにくくなってしまうのはなぜだろう。


「――ああ、僕の可愛い弟が、ズルイ大人になってしまいました」


 負け惜しみの愚痴が口から漏れる。


「そうですよ。変わったのはあなただけじゃない。何度でも言いますが、俺ももうあなたを守れるだけの大人になりましたから。だから、これからは一人で突き進まないで、なんでも俺に頼ってください」


 抱きしめられながら耳元で優しく囁かれる。

 もう、この言葉を拒絶しなくてもいいのだと思ったら、誰にも頼ってはいけないとずっと抑えつけてきたマリオンとしての気持ちが、急激に僕の中で解き放たれていく気がした。


 胸の中を占めるのは、もう何十年も味わったことのない混じりけのない喜び。

 これから先も、ずっとともに生きていけるのだ。偽らない自分で。


「俺もどんどん甘えていきますから」


 策士になった弟の冗談まじりの予告で、何だが気分まで昔に戻る。

 でも彼の言う通り、昔とは違う関係性を築いてもいて、それを嬉しく思っている自分が確かにいる。


「では、早速約束を守らないといけませんね。この足で、そのまま結婚の手続きをしに行きますか?」


 思い立ったが吉日と、早速提案する。さすがにアルが目を丸くした。歓喜の中にも、半信半疑で問う。


「いいんですか?」

「どうせするなら、もたもた引き延ばしても仕方ないでしょう」


 至って真面目にそう考えている僕に、アルは軽く噴き出す。


「せっかちは相変わらずですね」


 自分がせっかちなのは分かっているが、やはり性急すぎただろうかと考え直して、はたとネックに気が付く。


「ああ、でも今日は葬儀の日だし、記念日としてどうなんですかね? 日を改めた方がいいでしょうか?」

「いえ、別に俺は気にしませんよ。ここを決着の場に選んだのは、家族に見守っていてほしかったからですから。むしろ今日でいいのかもしれません。いや、絶対今すぐ結婚しましょう。もう撤回は駄目ですからね」


 予期せず目の前に転がり落ちてきたチャンスをふいにしてはたまらないと、アルは迷わず乗っかることにしたようだ。僕をぎゅっと抱きしめて、前言通り早速のおねだりだ。こんな可愛い反応を見せられて、取り消せるわけがない。


 けれど、僕にとっては可愛くても、すでに大人の男でもあった彼は続ける。


「結婚したからって、『どうせするなら、もたもた引き延ばしても仕方ないでしょう』、なんて無粋なことは言いませんけど、俺が『“ココア”が欲しい』と思ってるのは、あなただけですから」


 少女だったマリオンの頃には知らなったスラングで、グイグイ迫ってくる。結婚まで決めた以上、もはや遠慮や躊躇いは皆無だ。


「――――考慮に、入れておきましょう」


 もったいぶっているわけではないのだが、遥か昔に置いてきた乙女の部分が急激に顔を出してきたように感じるのは、きっと気のせいではないだろう。


「もしかして、照れてますか?」


 僕を抱きしめたまま、アルが至近距離から探るように顔を覗き込んでくる。


「そうかもしれません。前にも言いましたが、僕は男性に抱きしめられたことなどなかったのですよ」

「ちょっと、なんで今それを言うんですか。せっかくしばらくは我慢しようかと思ってたのに。分かりました。もっとどんどん来いってことですね。喜んで」

「なんでそうなるんですか」

「分からないならそれでいいです。どんなに変わっても偽っても、あなたの中身はずっとマリオンのままだったってことですから」


 嬉しそうに畳みかけるアルに押され気味になりながら、でもこの笑顔が続くなら、なんでも答えてあげたいなと思っていた。


「では、行きましょうか」

「はい」


 僕達は微笑み合いがなら、昔のようにどちらからともなく自然と手を繋いで歩き出した。


 歩きながら、アルがくすりと笑う。


「これでうるさかったクロードを黙らせられそうです。『どうだ、コーキさんと結婚したぞ』、って言ってやります。このひと月、あのお節介からはしつこくつつかれていたもので」


 そのやりとりがありありと目に浮かんで、僕もくすくすと笑ってしまった。僕もほんの少し前、同様につつかれたばかりだ。

 それから、念のために確認をしておく。


「彼もまず間違いなく、僕が誰であるかに気が付いていますよ?」

「でしょうね。必要ならその記憶を消すこともできますが……多分、あいつには必要ありません」


 大した問題でもなさそうに、対処は必要ないとアルは言い切る。


「そうですか。君がそう言うなら、そうなんでしょう」


 僕もそれ以上は追及しなかった。この十五年の間もずっと親しく付き合い続けてきたアルの判断を信じるだけだ。誰も信じられない僕が、唯一信じるアルを。


 なんだか、長い人生を振り返って不思議な思いがする。


 不本意なまま生涯を終える運命だと諦めていたのに、こんな穏やかな瞬間が訪れていることが、いまだに現実なのかと信じ切れない。

 これからも僕のクルスコーキとして続いていく偽りの人生は変わらない。

 でも、最愛の弟――いや、パートナーにだけは、これからは本当の自分でいていいのだ。それだけは信じられる。


「本当はね、ずっと叶わない夢を見ていたんですよ」


 歩きながら、ぽつりぽつりと、胸に秘めてきた思いを口にする。


「あの日の出来事が全部ただの悪夢で、目を覚ました僕は、家族と暮らすただの十七歳の女の子だったらと」


 そして毎朝異世界で一人、来栖幸喜の体で目覚めるたびに、虚しさを感じていた。

 それが、こんなに幸せな日が、自分に来るなんて。


 繋いでいる手にぎゅっと力を込められて、僕は隣のアルを見上げる。

 青い目が、僕を優しく見つめていた。


「ずっと一人で、よく頑張りましたね。起こった出来事は変えられなくとも、十八歳からの女の子の人生の続きなら、今すぐ始められますよ」

「――――」


 言われてみて、目から鱗が落ちる思いだった。


 ああ、そうだ。その通りだった。

 ずっと来栖幸喜を演じてきたせいでどこか他人事のように遠くに棚上げされていた望み通りの将来が、急に現実のものとして実感を持ち始めてきた。


 復讐も事件の解明も、全て終わった。アルに正体がバレる心配も、もうしなくていい。チェンジリングのクルス・コーキという別人の人生にはなるけれど、普通の女性として理想通りの自分を新しく初めても、何の問題もない。戸籍上は三十二歳だが、そんなことは些事に過ぎない。むしろ行動に制限の付かない大人の方が都合がいい。


 そう考えると、これからの展望もなく抜け殻のようだった昨日までが嘘のように、この先が楽しみになってきた。


「そうですね。ずっと、憧れていた女の子らしいオシャレも、またしてみたいと思ってたんです。諦めていた、あの頃やりたかったことも全部」

「ええ。なんでもあなたの好きなように。全力であなたの日常を守りますから」

「頼りにしています」


 二人で視線を合わせて、笑い合う。


 もう先の見えない道を一人で歩いていかなくていい。こうして隣で並んで歩いてくれる僕の唯一がいるから。


 孤独の記憶が、初めて報われた気がした。

 誰にも本当の自分を語れなかった異世界で、僕がどれだけ寂しかったか。どれだけ頑張ったか。どれだけ悔しかったか。

 あの長く苦しんだ時間は、いつか来るこの幸せに至るためのピースだったような気さえしてくる。


「ああ、もう一つだけ、おねだりがありました」


 アルが、ふと思い出したように言って、足を止める。おねだりと言いながら思いの外、その目は真剣だった。


「昔のように、アルと呼んでほしい」


 見上げているのは僕なのに、上目遣いの幻が見えるようだ。思わずふふふと笑ってしまう。


「それくらいは問題ないでしょう。これから僕達は、家族になるのだから。ねえ、アル?」


 やはり僕はアルのおねだりには弱いようだと、目の前の弾けるような笑みを見つめながら、幸福を噛みしめた。

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