オペ
手袋もマスクも帽子も手術衣もない。手元を照らしてくれるライトも、麻酔も、状態を管理維持する機材もない。事前の検査も、まともな消毒すらもできない上、使う道具は普通の裁縫針と糸と糸切りバサミとナイフ。ベテランとはいえ、さすがにこんなの初めてだ。
おまけにここでは無資格だから、緊急事態とはいえ何らかの罪状は付くかもしれない。まあその程度は些事だな。のちに報道されるだろうビックリネタが一つ増えた程度のことだ。
しかし悪条件ばかりのようだが、それを上回るほどのポジティブな要素が実はある。それを希望に、なんとしてもクロードを救わなければならない。
クロードに必死で声をかけ続けるアルフォンス君を見ながら、決意を新たにする。
「――――」
ふと、僕の精神の癒えない傷を負っている部分が、隙をついては死にゆく弟の幻影を見せてこようとする。
が、その都度悪いイメージを叩き潰して冷静さを取り戻す。
訓練で、本番で、何百、何千とやってきた作業だ。あの頃の自分とは違うのだという自信が、僕を支える土台となっている。
僕とクロードの準備は、ほぼ同時にできた。
大人達で囲んで、クロードの全身を押さえつける。今は意識がないようだが、麻酔がないため、いつ痛みに暴れるかも分からない。
特に処置を施す左足は一切動かないように、アルフォンス君が腰側、ヴィクトールが膝側と、若者二人で僕を挟む形になる位置取りをしている。この事態を引き起こした当事者のジュリアンも、弱腰ながら僕の向かい側に立って、しがみ付く勢いで必死に抑え込んでいた。
双子達は離れたソファーで、付き添いのイネスと無事を祈って待っている。
始める前に一度、クロードの顔の横に立って様子を間近で観察してみる。ちょうど、朦朧としているクロードの瞼が薄く開いた。
焦点の定まらない目で僕を見て、掠れる声で呟いた。
「――マ、リ……オン……」
「大丈夫だよ、クロード。必ず助けるからね」
意識が混濁した状態で、僕をマリオンと認識したクロードに合わせて、安心させるように微笑んで見せた。
「始めます。皆さん、よろしくお願いします」
そして定位置に着き、緊急オペに取り掛かった。
「――――――――」
いざ開始してみると、すぐに想定外のハードルが僕の前にそびえ立っていたことに初めて気が付いた。
――ちょっと待て。なんてことだ。いくらなんでもこれはないだろう。
手を休めたりはしないが、思わず天を仰ぎたくなる。
隣のアルフォンス君が、無言ながらも目を見張ったさまが、見ていなくても想像できる。
……この体は、この手は――信じられないほど、不器用だった。
そうだ。よく考えたら、箸もまともに使えなかったじゃないか。
とにかく頭でイメージした通りに指が動かない。
慣れているはずの作業だけに、余計以前との差が際立って感じられてしまう。
もういっそ、僕の脳内を完全にトレースしてくれるクマ君の正確無比なロボットハンドに丸投げしてしまった方がいいんじゃないかと真剣に考えかけたくらいだ。いやしかしいくら何でもぶっつけ本番でそれは怖い。
やはり一番信用すべきは自分の長年の経験だろう。
そう自分を信じて作業を続けるが、たったの数針が、果てしなく遠く感じる。使い慣れない真っ直ぐな縫い針と、濡れてへなへなとへばり付いてくる木綿糸が、ただでさえ思い通りに動いてくれないのに、それを上回る一番の敵は自分のぶきっちょ。想定からずれる結果を、その都度修正していかなければいけない。
ああ、まったくなんてどんくさい指なんだ。力加減の調節機能の目盛りが1と5と10しか付いてないんじゃないか? 段取りは分かっているのに、狙った場所にピタリと針の先が当たらない。アタリを付けては、なんか怪しくてやっぱり直前でやり直す、なんてことをもう何回やったか。そしてなんだこの不格好すぎる結び目は。ゆとりを持たせすぎた。やり直しだ。
あまりのまだるっこしさに思わず苛立ちかける感情を、意識して常にフラットに持っていく。
いや、焦る必要はない。
血管の吻合なんてさんざんやって来たじゃないか。なにより肝心の出血はマリオンの魔法で抑えながら行える。
オペ前に想定した悪条件に加えて、更にとんだ難敵まで隠れていたものだが、それでも勝算は決して低いわけではないのだ。
時間はかかりそうだが、予定通りにはやれるはずだ。
なにしろアルグランジュで行うこのオペには、日本時代とはまったく違ったコンセプトで臨めるという大きな利点がある。
それは、現状最大の問題点である出血の対処だけにオールインできる点。
器具の煮沸消毒やら装備やら何やらに時間を浪費するよりも、スピード重視でさっさとオペに取り掛かったのはそのためだ。
日本でだったら、感染症、合併症や後遺症、傷の引きつれなど予後の状態、他の部位を傷付けるミスなど、細心の注意を払ってきていた部分を、今はまとめて度外視しても許される状況なのだ。
何故なら、外の世界に出るまで、ただ命を繋ぐことさえできればいいのだから。
僕はできると判断したので縫合に踏み切ったが、処置できる人と状況がなければ、最悪ただ足の付け根をきつく縛り上げるだけでも、外に出られるまでの時間くらいは何とかなるはずだ。それでたとえ壊死して足を失ったとしても、アルグランジュなら、完全に元通りに再生できてしまう。こう言っては何だが『失敗しちゃったゴメンね(テヘペロ)』をやってもシャレになるのだ。一時的な苦痛はあっても、人生を左右させるほどの重大事にはならない。
術後、患者の体内にガーゼを置き忘れてたなんて話を聞くと、本当に他人事じゃなく震えあがったものだが、ここでは生きている限り簡単にやり直せる。患者とその家族の人生を背負って些細なミスも許されないオペに挑んできた以前のプレッシャーを思えば、こんなに気楽なことはない。
医師としてはあるまじき考えなのだろうが、どうせ今の僕は無資格の素人だ。緊急事態なんだから、とにかく生きてさえいればいい、後のことまでは知らんという方針で、他の重要な注意点をほとんど二の次にして突き進める。あとで多少の罪に問われたとしても、気ままな自由業だし、資産もうなぎ上りに増える予定だから、まあ問題ないだろう。
だから、今は最低限、出血を止めるという喫緊の課題だけに集中して作業に専念する。
ゆっくり、正確に、丁寧に。僕から見れば縫合を習いたての学生にも劣る出来だが、命を繋ぐ上での最低限の仕上がりにはなっている。
一針一針、慎重に進めていって……。
「――終わりました」
想定の三倍は時間がかかったが、最後の一針の糸にはさみを入れ、長い息とともに肩の荷を下ろした。
こっそりとクロードにかけていた魔法を解除して、脈や呼吸、状態を確認する。意識はないものの、特に気になるような急変は見られなかった。
張り詰めていた神経がようやく緩む。
「コーキさん、ありがとうございます」
感極まった様子のアルフォン君が、血だらけの僕にその場で抱き付いた。かすかに震えている。口ではなんだかんだ言っていても、彼にとって数少ない大事な身内。目の前で失わせずにすんで、僕も安堵に脱力する。
気を抜いたせいか、不意に涙が溢れてきた。ずっと押さえつけていた感情が、急にコントロールを失ってしまったかのように。
脳裏には、やはり死にゆく弟の姿がちらつくが、これまでのようなただ苦しいだけのやりきれない絶望感とは、なんだか少し違う気がする。
「コーキさん……?」
泣いている僕に気が付いて、アルフォンス君が少し戸惑う。
僕は、静かに眠るクロードを見つめる。
「どうやら彼も、僕にとっては、ほんの少しくらいは弟の範疇に入っていたのかもしれませんね」
あの頃の自分のままだったら、この場で何もできなかった。
二度と取り戻せなくとも、悔いを抱えてがむしゃらにしてきた努力は無駄ではなかった。
無力を嘆くしかなかった時のコドモの僕が、少しだけ慰められた気がした。