月
イネスのゲームの後、僕とアルフォンス君は再び調査作業に戻った。
この屋敷のどこかで待ち受けるラスボスとの対決に関しては、最終日になるのか、任意で始められるのかは、軍曹の肖像にも記されていなかったので、僕にも分からない。
可能なら、リストに下手に新しい名前が載るような事態が起こる前に、一日でも早くさっさと片を付けてしまいたい。
おそらく奴さえ殺せれば、そこでこのバカ騒ぎは終了となると思うのだが、何とか短縮する方法はないものだろうか――と考えつつも、できることは特にないので、決められた作業を惰性のごとく続けているところだ。アルフォンス君が。
丸二日の調査で館内はすでに一通り回り終わっており、今は再びガーデンルームへと来ている。「時間経過の観察」という、ある程度時間のかかる調査のために。
ここは時間経過が外の世界に準じているため、朝日や夕日や夜空も堪能することができるのだ。風も吹くし、未確認だが、世間が雨なら同様に天候もそのまま反映される可能性が高いと推測されている。
昨日は日中で青空しか見ていないかったため、今度は日没の時間帯での調査に取り組んでいた。
今の季節は日が落ちるのが早いので、夕食前だが既にすっかり夜の風景が再現されている。僕的には、夕暮れから星空になるまでの景色を、桜並木をのんびり散策しながら堪能していただけなので、なかなかの息抜きにもなった。
日中に来た時にはあまり意識しなかったが、夜景だと前の世界との違いがはっきりと分かる。星座以上に、特に月の差が大きい。
こちらの世界だと、衛星が土星や木星並みにあるのだ。そのためかアルグランジュ人は、月に対してあまり特別感や思い入れがない。先月など僕の部屋の窓から、大中小と三つの月が同時に見えた。しかも紫がかったちょっと不気味な月だ。
このガーデンルームの空には、僕がずっと日本で見てきたのと同じ青白く輝く満月が、満開の桜の隙間から唯一無二の存在感を放って浮かんでいる。
月だけは向こうの方が圧倒的に美しかったなと、たった半年前のことなのに、もう懐かしさすら覚えながら見上げる。
大体のチェック項目を埋め終わって、僕の隣に戻ってきたアルフォンス君も、感嘆したように話しかけてきた。
「月が綺麗ですね」
「――――――そうですね」
うっかり夏目漱石の例のやつを思い出してしまったせいで、変な間が空いてしまった。アルフォンス君が知っているわけがないのだから、普通に言葉通りの意味だ。僕が長年日本で見ていた月は確かにきれいだ。天体に特段の関心でも持っていない限りは、“そうですね”と相槌を打つくらいしか答えようがない。
そういえば、確かこの元ネタは、英語教師だった夏目漱石が、「I love you」の和訳を「我、君を愛す」とした学生に対して、「日本人はそんな直接的には言わない。月が綺麗ですねとでもしておきなさい」と言ったとかなんとかいう話だったと思うが、学生に指導する機会も多かった僕としては、教育者としてそれはどうなんだと正直苦言を呈したいエピソードだ。正確な内容が要求されるアカデミックな場であまりにもポエムが過ぎる。
そもそも言葉とは相手に正確に意図が伝わってこそ意味があるのだ。本来の意味を差し置いて、裏の意図を読めという前提がまずおかしい。『自分だけが分かっていればいい』とか『言わなくても分かるだろう』といった明治男の悪い部分が出ている。
仮に『月が綺麗ですね』と言われたとして、『この人は私を愛している!』と解釈するような人がいたら、むしろその人物はメンタルに深刻な問題を抱えていると言わざるを得ない。『いいお天気ですね』とか『気持ちのいい風ですね』なんてほぼ定型文の他愛ない挨拶にもいちいち愛を感じ取って、日常の生活をまともに送ることすら危ういだろう。『虹がかかっていますよ』なんてもはやプロポーズだ。狂気をはらんだ未来しか想像できない。
大体このエピソードもちょっとこじゃれた感じで扱われてはいるが、一般人が真に受けて真似でもしようものなら確実に大ヤケドするに違いない。普通の教師が教壇でやったら、テストで点が取れないでたらめを教えるなと生徒保護者はもちろん上司同僚同業関係からもバッシングを受け、現代なら下手したらネットに出回って炎上までしかねない。家族になどバレたら、もうホントやめてあの時はどうかしてたんですと恥ずか死ぬ。そして何年経っても「あの先生は~wwww」と生徒達に語り継がれ、飲み会や同窓会などの度に蒸し返されたりと、生涯にわたる黒歴史となるのだ。実際夏目漱石のこのエピソードなど百年経っても語り継がれているじゃないか。なんかいい感じに受け止められているのは漱石だからなのであって、一般人ではまずそうはいかないはずだ。老婆心ながら、そんな勘違いの被害者を出さないためにも、「ただし文豪に限る」とか注意書きでもつけておいてあげた方がいいのではないだろうか。
ついどうでもいい方向に走り出した思考は、不意に向かい合って立ったアルフォンス君に手を取られたことで、現実に戻される。
「――アルフォンス君?」
「思い違いじゃありませんよ。あなたが最初に考えた方が、正解です」
僕に顔を近付けて、囁くように告げてきた。
一瞬言葉の意味が分からず、よく反芻してからはっとする。
アルフォンス君の言葉に対して、僕が最初に考えたのは……。
「――なんですか。君は思考を読む魔法でも持ってるんですか。なんで僕の考えが分かってるようなことを言うんです。それこそ思い違いですよ」
「思い違いじゃありませんよ。あなたに関しては」
反発する僕に、アルフォンス君はやっぱり引くことなく、揺るがない視線を真っすぐ僕に向ける。
「ちなみに、ナツメ・ソーセキ流の『あなたを愛している』です。違いました?」
「…………」
正解だが、なんだか負けた気がするので正直に答えたくない。悪あがきで、話を逸らす。
「なんで君が夏目漱石を知ってるんです」
「さっき調べました。あなたがずっと暮らしていた国の表現で、伝えたかったので。たくさんあった中で、あれが一番しっくりきました」
――アルフォンス君がまめすぎる。そして君もポエムを評価してしまう側だったか。
僕の記憶から吸い上げられた膨大な作品のうち、出版されているのは僕が監修したものに限られるが、その他の膨大なデータの全ては、異世界の貴重な学術資料として国のしかるべき機関に蓄積されていて、どういう星で、生物や植生の在り方、気候や自然かなんて大きなものから、人類の歴史や文化、技術、言語などまで、様々な分野が自動で分析、研究され、まとめ続けられている。日本語辞書がわずか数か月でそれなりの形になったのもそのおかげだ。
僕と密接に関わる立場にあるアルフォンス君は、今回の遺産相続における職責のどさくさに紛れて、それらのデータにアクセスする権限をもぎ取ってきていたのだろう。英語だけでなく、どう考えても使う当てのないはずの日本語データまで、自分の端末に入れてきてしまうとは。
職権乱用が過ぎる気がするが、困ったことに彼は僕に関してはブレーキが利かないところがあるから。
そしてわざわざそんな情報まで、それもつい先ほど調べてきたと。
つまり今、それだけ本気で口説きにかかっているということだ。これまでのように軽くはぐらかせるレベルではないほどに。
「僕を口説くのは、無事に外に出てからにするはずじゃなかったんですか? なんでそんなに急にグイグイ来るんです」
もやもやしてはいた思いをとうとう、思わず直接ぶつけてしまった。知りたくはあったが、あえて訊くのも藪蛇になりそうで、なんとなくやりすごしてきてしまった疑問を。
アルフォンス君は真面目な顔で、しれっと答える。
「予定が変わりました。あまり、悠長にしている時間はないのかな、と思ったので。……だってコーキさん、無事に外の世界に生還したら、俺から離れていくつもりでしょう?」
確信を持ったその問いに、僕は動揺を隠し通せた自信がないままで問い返す。
「――なぜ、そう思うのですか?」
「――分かりませんか?」
「…………」
質問に質問で返されるが、その意味ありげな視線は、はっきりと答えを物語っていた。
――認めたくはないが、気が付かないふりはもうできない。
彼は、僕の秘密にたどり着いてしまったのだ。
オーディオルーム以降からの行動の変化は、そのためだ。
僕がずっと吐き続けてきた嘘の、裏の意図を正しく読み始めている。
ずっと張り詰めていた気力が足元から崩れそうになるのを、必死で繋ぎ止める。
再び新しい命を得てから、こんなに心が不安定になったのは初めてだった。
自覚しながら、どうすればいいのか分からない。ずっと目的を果たすことだけを強く自分に課してきたのに。
ゴールはもう目の前なのに、僕は失敗してしまったのか。
言葉もなく、もはや動揺も隠さない僕を、アルフォンス君は包み込むように抱きしめた。
「俺を、頼ってください。心の部分でも。十五年前の無力な自分が悔しくて、いつ何があってもいいように、努力だけはしてきたつもりです。あなたの目にどう見えていても、今の俺は、もう守るべき子供じゃありません。守る側なんです。どんな時でも、俺は必ず、あなたに応えます」
言い聞かせるように穏やかな、けれど毅然とした宣言を聞きながら、僕はその胸に顔を埋める。
そんなことは分かり切っている。僕の秘密を知ってすら、怒るでも軽蔑するでも邪魔するでもなく、見守ることを選んでくれるのだから。
踏みとどまれと、自分に言い聞かせる。
僕の薄暗い決意も振り払えなかった妄執も、この温かさと安心感に消し去られてしまいそうで、逆に怖い。
許されるならずっとこうしていられてたらいいなと、思わないわけがない。
ずっと一人で生きてきた。すっかり力強く成長してくれた弟に、愛されて守られて穏やかに生きていけるなら、なんと幸せなことだろう。
しかし、これから本物の人殺しとなる予定の僕の後ろ暗い人生に、彼を付き合わせるわけにはいかない。大事な人だからこそ。
手を汚すのも、重い荷物を背負うのも、自分一人でいいと決めたのだから。
僕はようやく返事をする。
「本当の決着は、外の世界に出て、落ち着いてからにしましょう」
僕を抱きしめたまま、アルフォンス君も答える。
「そうですね。まず優先すべきはそれです。――でも、これだけは心に止めておいてください。この先どんな結末になっても、俺はあなたを諦めません」
耳元に降ってくる深い決意の言葉が、真っ直ぐに僕に突き刺さる。言いようのないほどの嬉しさもあり、それ以上に胸が痛くもある。
やはり、洗脳の魔法が、必要だ。僕から解放してあげるために。
心の中で固く決意して、今だけは弟の温もりを惜しむように全身で感じた。
目の前に迫る不穏な未来には、目を背けて。