桜
「わあ、すごい! おばあちゃんの話の通りだ!」
「きれいっ! コーキさん、もっと向こうに行ってもいい?」
突然現れた幻想的な世界に大興奮の双子に話しかけられ、現実に引き戻される。
「ええ、かまいませんよ」
承諾するや否や、二人は川沿いの並木道を真っすぐに走り出した。
その姿は、数十メートルほど進んだところで、トリックアートでも見ているかのようにまったく遠ざからなくなった。
双子の背中を、アルフォンス君と二人で見守りながら、改めてこの空間の不思議さを認識する。
彼らの足元だけ、ルームランナーにでもなったかのようだ。元気に走っているのにその場から動かない。二人は面白がって、ふざけ合いながら更に足を進め、距離の変わらない僕達に何度も振り向いては大きく手を振っている。
僕も手を振り返しながら、これなら見失うこともないだろうと、安堵する。
「この花に、何か思い入れでも?」
普段あまり動じない僕の反応からか、アルフォンス君が問いかけてきた。
「――ええ、弟との思い出が……」
僕は引き続き細心の注意を払いながら、自分の発言の自己採点を脳内で続ける。「ええ」肯定、よし。「弟との思い出が……」事実、よし。いや、「ええ」よりもはっきりと「はい」の方が安全か?
語尾を濁して明言や詳細を避けることも意識していこう。さっきの場合は質問に対する回答だから明確なイエス・ノーが必須だが、一人語りなら文脈次第で「~思いでが……」の後に続く言葉が「ある」になるか「ない」になるかの解釈を、オーディエンスに委ねて誘導できる。たとえ事実とは反対の意味で受け取られようとも、口にしていなければ嘘を言ったことにはならないのだ。
「これはサクラと言って、ニホンで古くから愛されてきた花なんです。きっとジェイソン氏にとっても、思い出深い景色なのでしょうね」
さりげなさを装いながら、慎重かつ積極的に言葉を重ねていく。
「最も」と決めつけるのは危険だから、曖昧に「古くから」にした。「愛されてきた」は主観が強く危険な気がする。「親しまれてきた」の方がより無難だろうか。
後半部分は推測が過ぎるかもしれない。こんな景色を再現するくらいだから当然思い入れはあるはずだが、断定はできない。ああ、語尾を「~なのでしょうか?」と疑問や感想風にすればいいのか。
とにかく思いつく限りのパターンを試して、慣らすことが重要だ。
まったく、厳密な事実だけでの発言がここまで神経を使うものだとは、実際にやってみないとなかなか分からないものだな。
「アルフォンス君にとっても、そのようですね」
脳内で添削作業を続けつつも、僕の思い出について触れられる前に、先に問いかける。その表情を見れば、彼の考えていることが手に取るように分かる気がした。
きっと僕も同じ表情をしているから。
「――まるで、時間が停まってしまったようだと、思っていました。この景色も、あなたも」
彼はどこか懐かしそうな、けれどわずかに切なそうに僕を見て笑う。見返す僕も、泣けてきそうなほどに。
「子供の頃、マリオンにプロポーズした話をクロードに暴露されましたけどね……あれは、ここでのことです」
「そういう気持ちになるのも分かりますよ。これだけ美しく幻想的な空間です」
僕は笑ったりなどせず、素直に共感を返す。
十歳の少年が、大好きなお姉さんに一生懸命告白した在りし日の姿が、ありありと目に浮かぶ。
逆に、アルフォンス君の方が苦笑していた。
「子供なりに本気で言ったのですが、今思えばマリオンを困らせていたんでしょうね」
「どうして? そう、言われましたか?」
「いえ、大人になってもその気持ちが変わらなかったらねと、笑ってかわされました」
模範解答に、僕は微笑んで頷く。
「ふふふ、常套句ですが真理です。マリオンさんは嬉しく思いこそすれ、困ってなどいませんよ。少年がいつか気が付く日が来ると、ちゃんと分かっていたんですよ」
僕の言葉の意味を、アルフォンス君は正しく理解した。
「そうですね。多分あのままお互いに何事もなく仲のいい家族のまま成長していたら、マリオンの思惑通り、あの頃の俺の想いは姉に対する愛情なのだと、自然に理解する日は来たんでしょうね」
しかしそれはただの想像だ。もう、確かめようのない、あったかもしれなかった一つの未来。
そこから目を逸らすように、アルフォンス君は目を伏せる。
「でも、マリオンは俺の前からいなくなってしまった。そして十五年後の今、七歳年上だったはずの姉が、逆に七歳年下の姿になって、俺の前に再び現れました。……しかもあの頃とほとんど変わらない姿で、なのに中身は別人で……」
「君が、僕の前に現れたんですよ。あの公園で。僕は君の情報を得て、この先関わるべきかどうか、検討しているところでした」
公園での再会は、アルフォンス君が警察の情報網を使って僕を探し出したから果たされたものだ。
そのおかげで勢いのままに同居が決まり、今、こんな風にどこか歪で中途半端な関係性が出来上がってしまっている。そして僕としては、困ってはいるが、喜びの方が勝っているのも事実だ。
「だったら、処刑場からすぐに動いたおかげで、あなたを捕まえられたわけだ。俺は、マリオンに会うことしか考えてませんでしたから……」
そう言って、アルフォンス君は少し寂し気に僕を見る。
「俺がそんな風だから、コーキさんは俺を絶対に愛称では呼んでくれないんでしょうか。俺の中にいるマリオンと、これ以上混同させないために」
「――そうですね。否定しません」
そう。僕はどんなに親しくなっても、アルと呼ぶことは決してなかった。彼にそう望まれても頑なに受け入れなかった。最初からはっきりと決めて、意図的にそうしている。マリオンのように、彼を愛称では呼ばないと。
その他にもいろいろと気を付けていたことはあったが、彼にはそれもすべて無意味だったようだ。
アルフォンス君は真剣な表情で続ける。
「正直混乱はしていましたが、この半年、ずっとあなたの傍にいて、はっきり自覚しました。少なくとも俺はもう、あなたを姉としては見ていません」
ああ、ついに弟が反抗期に――なんて感慨に耽る状況ではないか。「お前なんて姉じゃねえ」と言うのとはニュアンスが違う。
もう完全に告白の方だ。
十五年前と同じ状況にあって、その頃との気持ちの比較がはっきりとできてしまったのかもしれない。
むしろ完全に吹っ切れたように気負いのない目だ。
「過去のマリオンさんの幻影に引っ張られてはいないと、言い切れますか?」
僕は何とか抵抗をしてみるが、彼はもう明確に揺らがない意志を持っていた。
「時折似た部分を見るたびに、あなたとマリオンの区別がつかなくなってしまう瞬間は、確かにあります。少し天然で、口が達者で、行動力があって、大真面目なのにどこかズレてて、たまに変に子供っぽいところもあって……そして、俺にとても優しかった。重ねていると言われたら、違うとは言えません。でも、大きく違っている部分だって、同じくらい多くて、あなたが誰なのか、時々分からなくなります。でも、そんなことはもうどうでもいい。マリオンと混同しているとか、マリオンではないとか論じるのは無意味です。全部をひっくるめて、俺が今見ているのは、目の前のあなた自身なんです。――これは、大人になって心変わりしたことになるんでしょうか?」
率直な言葉を紡ぐアルフォンス君は、どこまでも真っ直ぐに僕を見て、はっきりと突き付けた。
「過去を見てるのは、コーキさんの方です」と。
僕は内心で、諦念の溜め息を吐いた。完全にお手上げだ。