動機
寝支度も終わり、僕はクマ君を連れてベッドへと向かう。
「ちょっと待ってください。寝る時までそれ、連れて行く気ですか?」
アルフォンス君が唖然として確認してくる。
子供達のように怯えてこそいないが、監視役兼処刑人のテディベアが就寝時までべったりなのはさすがに抵抗があるらしい。
「まったくアルフォンス君まで何を言ってるんですか。うちにいる子とまったく同じ型のクマ君なのに、随分薄情なことを言いますね」
「型は同じでも、まったく別の個体ですよ。うちのには、そんな物騒なプログラムなんてありません。っていうか、自宅だったらそこまでテディベア連れ歩いてないじゃないですか」
アルフォンス君は不満そうに反論する。
おっと、不審を持たれるのは避けたい。もちろん言わないでいる理由がある。
僕としてはもはや彼がいない方が余程不安が大きいので、機動城にいる間は片時も傍から離す予定はない。
クマ君には、実は非常に重要な役割が他にもあるのだが、それは僕だけが知っていればいいことだ。
「クマ君には一晩中見張りをお願いするんですよ。同じ部屋にいて危険なのは、クマ君よりも君の方ですからね」
「もうホントにそれ、やめてくれます!? そこまで警戒されると逆に傷つくんですけど!」
「ニホンには男はオオカミだから気を付けるようにと言ういにしえの有名な警告があるのです」
「オオカミってなんですか?」
「ケダモノです」
「俺どれだけ信用ないんですかっ!?」
僕は事実の代わりに冗談で煙に巻いて、アルフォンス君を閉口させた隙に、取り付く島もなくさっさと寝る態勢に入った。当然クマ君は枕元に待機だ。
「ではおやすみなさい。明日もあるのですから、君も仕事はほどほどに」
挨拶をしながら僕のいる側の照明を落とし、ブレスレットでスクリーンを張った。ベッドの周りが一瞬で衝立のように覆われて、お互いの視線が遮られる。光学モニターを空中に出せるくらいだから、単純な目隠しくらい万能さんにはお手の物だ。
設定次第では防音も可能だが、気配や異変を察知しやすいようにそちらの機能はオフにしておく。
「――おやすみなさい……」
諦めたような溜め息混じりの返事が、一言だけ返ってきた。
アルフォンス君が仕事を再開させた気配を待って、早速僕も自分の作業へと入る。
この数時間、異常に忙しない中での情報収集と考察になったが、これでようやく人目を気にせず、落ち着いて本日のおさらいに集中できる。
ベッドに仰向けになったまま、目の前にモニターを開く。眠くなるまでベッドで読書は昔からよくやったが、手ぶらですむので非常に快適だ。
まずは軍曹の肖像とも言える手記の全文を、見逃しや勘違いがないようにじっくりと熟読する。
読みやすい文字での英文に直された文書には、アルグランジュに残されたどんな資料にも記されていなかった軍曹の秘密――彼の経験や心情が、赤裸々に綴られている。
軍曹は、前の世界でアメリカ人として生きていた時、男性であったことは、こちらの世界では一切公表していない。
けれどチェンジリング前、アメリカ人だった時にも、彼はそこで別の大きな秘密を抱えていた。
その秘密こそが、チェンジリング先となった八歳の少女との決定的な共通点なのだろうと、彼自身は振り返って考察している。
肉体こそ、年齢も性別もまったく違っていたが、その精神性が非常にシンクロしているせいだと。
結論から言えば、ジェイソン・ヒギンズは女性の心を持っていたということだ。
海外のびっくりニュースなどでたまに、ゴリゴリの退役軍人が性別適合手術を受けて女性になったネタを見たりすることがあるが、彼もその種の人間だった。
しかしジェイソンの誕生は第二次世界大戦の頃。LGBTなんて言葉すらなかった。社会的、宗教的にも許されず、迫害されることも当たり前で、時には命にすら関わる時代だった。
ただでさえ上流階級の生まれで、なまじ生まれついての優秀さもあって、両親の期待も大きく、重かった。
カミングアウトなどすれば、確実に人生が終わってしまうことは明白だった。
だから自分の中の女性らしさを叩き壊すために、あえて男の中の男の姿を追い求め、本人の志向とは正反対の軍隊に身を投じる選択をした。
自分らしく生きることを諦めた、自暴自棄の人生だったと言える。
そんな男が、自分を誰も知らない異世界で、八歳の少女から、女性としての人生をやり直せることになったのだ。
それは、どれほどの喜びだっただろうか。
正しい情報も得られない時代、なぜ自分だけ他の人と違うのか、誰にも相談できず、幼い頃から違和感と孤独に苛まれていたという。
可愛い服を着てお人形遊びをする女の子を、羨望のまなざしで見ることもあったかもしれない。
自分も女の子だったら――そんな幼い頃からの夢想が、現実となった。
もう自分を誤魔化す必要もない。新天地での地位も保証され、異次元とも言えるチェンジリングチートをも手にした。まさに絵に描いたように理想的な異世界転生像だ。
実際最初の二十年ほどは世間への露出も多く、人生を自由気ままに謳歌している。
まさに望むもの全てが手に入る人生だ。
けれど、一つだけ変わらないことがあった。秘密を抱えた人生だけは、そのままに……。
アルグランジュでは、トランスジェンダーや同性愛にも差別や偏見がない。仮に今の僕が女性と結婚しても、普通に祝福され、役所で婚姻も受理される社会だ。
でありながら、軍曹が決して過去の自分について語らなかった理由は、手記でも触れられていない。
物心ついた時から、心の性別のままに生きることが許されない場所で、自分の本当の姿を知られることに怯えて生きてきたトラウマのようなものがあったのかもしれない。
だからこそ、偽りのない本名を使い続けることにこだわったのだろうか? あるいは、唯一捨てずに残ったものが名前だけだったから?
どんなに矛盾でも、苦しんできた本人にしか分からないことなのだろう。
そしてそんな中で、出会いがあった。のちに結婚することになるエミール・ヴェルヌとの。
全てをさらけ出し、受け入れてくれる存在が、彼にとってかけがえのない希望となった。
自分を偽る必要のない相手――それは僕自身、幸喜時代から、そして今なお渇望し、諦めてもいるものだ。
だからこそ、実体験のように重くのしかかる。そのたった一人と出会い、心を通じ合わせたことの価値は、どれほどのものだったのか。
そして、失った絶望も。
状況は違っても、同じチェンジリングの孤独を知る僕には、嫌と言うほどに分かってしまうのだ。
それが軍曹が、このバカげて壮大な茶番を仕組んだ、動機の全てだ。
まったく無関係な僕達にとっては甚だ迷惑な話だ。
こんな意味不明な遺産相続選定会を催した軍曹を恨むのは当然なのに――。
彼を理解してもいる自分にこそ、むしろイラついてしまう。
彼の目的において、一族を巻き込むことは最も有効な手段。同じ立場なら僕でも迷わずそうするだろう。
もし今、あれほど焦がれてようやく得たたった一人の家族を、誰かの悪意で失ったとしたら。