プロローグ・続き
僕達の前に、血の海が広がっていた。
床の上にびしゃびしゃと赤い噴水が跳ね返る。その勢いも、見る間に衰え始めて――。
人殺しのクズでも、僕と同じ血の色なんだな、などと愚にもつかないことをふと思う。
レオンの正面には、惨劇を作り出した張本人らしからぬ物腰で、泰然とたたずむ騎士クマ君。
ああいう顔もポーカーフェイスというのだろうか? 憎たらしいくらいの可愛さだ。
息子の惨状に、堪らず嘔吐したベレニスの足元へと、すかさずドローン型のお掃除ロボットが、ふわりと駆け付ける。
やがて騎士クマ君は電動サーベルを、串刺しのままの心臓ごと転移で消し去り、悠然と現場から引き上げていく。
犯行の終わりを告げるように、不意に足元の拘束が解けた。
立ったまま絶命したレオンが、力なくどさりと床に崩れ落ちる。
我々の行動の自由も戻るが、誰もクマ君を追う者はない。ただ身を強張らせて見送るばかり。
騎士クマ君が退場しても、まだここには十二体の無敵のテディベア達がいる。
血だらけの人間が倒れる瞬間に、条件反射のように被害者の元へ駆け寄ろうとした僕は、アルフォンス君に後ろから抱き留められた。
「触らないでください。現場保存を」
感情を押し殺した声色で、制止された。
「アルフォンス君。僕は医師だったんですよ」
「コーキさん。今必要とされるのは、監察医です」
その一言に、踏み出そうとした足が止まる。
思い違いを自覚し、すっと、心が醒めていった。
そうだ。何をしているのだ。確かに僕の出る幕ではない。
やはり気付かないうちに、少々冷静さを欠いてしまっていたようだ。この期に及んで、僕らしくもない。
今の僕は、医師ではない。もう何の資格もないのだ。
もはや駆け寄る資格すらも。自分の意志でそれを選んだ。
命を奪う結末を許容した瞬間から、そんな資格はとっくに失っている。
「こんなとこ、来るんじゃなかったっ……」
悲鳴のようなキトリーの嘆きが聞こえる。双子達が、ヒステリックに泣く母親に駆け寄って飛びついた姿には、なんともやりきれない気分にさせられる。
しかしこれはまだ、一人目が終わったところに過ぎない。
「――ああっ……思い出したわ!」
イネスが、頭を抱えるようにして叫んだ。
「私、殺害の瞬間なんて、何も見てない! この部屋に来た時にはもうみんな倒れてて……そう、マリオンも血まみれで倒れてた! 呆然としてたら、いつの間にか傍にいたレオンに腕を掴まれて……あとは、覚えてないわ……ああ、なんてこと……」
レオンが死んだことで洗脳が完全に解けたのか、あれほど頑なに自信を持っていた目撃証言をその場で翻した。
クロードの方を見れば、何も言わないがひどく苦々し気に表情を歪めている。
きっと彼も、父親を殺された瞬間の光景を、今思い出したところなのだろう。
だがある意味一番気の毒なのは、バカ息子の評価を余すところなく受けていたヴィクトールかもしれない。
「あ、ああああっ……!!」
人目もはばからず床に崩れ落ち、悲鳴のような呻き声をあげている。
「お、おばあちゃんっ、俺……、そうだ、お母さんはっ……」
やはり彼は、自分の意思で現在の人格にたどり着いたわけではなかったようだ。
子供の頃から、レオンによって十数年間も洗脳を受け続けてきた二十四歳の青年の精神状態は、いきなりそれが解除された時、どうなってしまうのだろう。
「ヴィクトール!」
それに気が付いたベレニスは、激しい動揺を抱えたまま、それでもなお孫によろよろと歩み寄り、痛みを分かち合うように抱きしめた。
レオンは息子にまで、根深い傷跡を残していった。死んだ後までどこまでも罪深い。
多分、マリオンの脳に施された記憶の加工部分も、解けたはずだ。
ただ洗脳を受けた時、この体の主は僕ではなかったためか、イネスやヴィクトールのように何らかの劇的な変化は自覚はできていない。
だが再度記憶の映像化をすれば、おそらく加工なしの事実が記録されることだろう。マリオンによる一方的な惨殺シーンではなく、ラウルと殺し合っている様子が。
「クロード……」
無言でレオンの死体を見下ろす従兄に、アルフォンス君は躊躇いがちに声をかける。
「俺は、親父を殺した犯人に、質問をしただけだぜ。何か、罪になるか? 刑事さん」
皮肉気に笑って見せるが、僕の目には強がりに映った。
「――いや……」
アルフォンス君は、曖昧な否定に留める。複雑な心境のせいもあるだろうが、次を考えれば、あまり無責任な発言もできないというところだろう。
罪に問われないと明言してしまえば、今後、ルールを悪用しようと考える人間が出かねない。――僕のように。
実際、クロードはこのゲームを利用して追い詰め、結果的に父親の復讐を果たしたようなもの。みんなもそれは感じているはずだ。
しかしこれは、一体どんな罪になるのだろうか。
絶対に嘘が分かる状況下で、真相を知れるこのチャンスに、憎い犯人を思いやって口を閉ざしてなどいられるものではない。犯人に犯行の自供を求めることは罪ではない。
その結果命を失ったとしても、それは犯人自身の不誠実な解答ゆえの自滅だ。助かる術はあったのだから。
追い詰めた側の法的な責任を問うとすれば、未必の故意やら何やらはあるかもしれないが、そもそも正常な精神状態を保つのが難しいような、ある種の極限状況下でのこと。まして、特殊能力を持った殺人犯をそのまま解放した場合、逃げ場のない密室で身の安全が保障できない観点から、正当防衛の側面もある。
おそらく最終的には情状酌量も入って、これといった罪には問われないはずだ。
弁護士資格も持つアルフォンス君なら、もっと正確な解答が頭に描けているからこそ、あえてはっきりと返せないのだろう。
「おや?」
ふと異変に気が付いた僕の声に釣られ、数人の視線がある一点へと注目する。
室内全体が最悪の雰囲気の中、その最大の原因であるレオンの遺体が、予告もなくすっと消失した。
広範囲に広がっていた血の海も、床に放棄されていた肉片も、惨劇の名残など何一つ残すことなく。
レオンという存在の痕跡が、丸ごとなくなった。
今までも、こうやって遺体が回収されていたのだろうか。
見つけられなかった被害者(推定)達と同じ場所へと、この屋敷で死んだ者は呼び寄せられていく?
問題はどこへ、何のために、ということだが。
「――レオン……」
静まり返った中に、孫と支え合うベレニスの呆然とした声だけが虚しく響く。
一方のヴィクトールは、どこか憎しみを滲ませた目で、嵐が通り過ぎた空間を言葉もなく見据えていた。
洗脳が解けた状態で振り返った父親との十数年間が、彼にとってどのようなものだったのか、それだけでうかがえた。
第一ゲームからして、この後味の悪さか。
そして、ゲームの参加資格者リストには、まだ複数の名が連ねられている。
使い古された陳腐なモノローグで語るならば、今まさに惨劇の幕が、再び上がった――といったところだろうか。