第九話
ある日、竜宮に冬が訪れていた。庭の木々も真白に装いを変え、雪の重みで枝をしならせている。
「陛下! 雪です。初めて見ました!」
「姫。あまり走らないように。雪は雨より滑る」
襟や縁に毛皮のあしらわれた外套に身を包み雪を楽しむアルヴィアを竜王が穏やかに見守る。
容姿に似通ったところはないが、仲の良い兄妹のようなのどやかさだった。
「向こうに水気の多い雪と少ない雪を分けておいたから。ほら、おいで」
「何でもできますのね、陛下」
今日の雪は、雪が見たいと言ったアルヴィアのために竜王が法術で降らせたものだ。
(今まで法術をこのように使ったことはないが、まあよかろう)
慣れ親しんだ庭園を目を輝かせて駆ける番を見ることができたのが竜王にとって何よりの喜びだった。
「雪玉や兎を作りたいときは水気の多い雪をお使い。粉雪では水をかけないと固まらない」
「先程庭に出る前にミズチが教えてくれました。かまくらを作ったこともあるそうです」
「ああ。そういえば昔、北の方に連れて行ってやったな。覚えていたか」
番との会話を楽しみながら、アルヴィアの小さな手のひらに法術をかけていく竜王。黄金の光が雪白の庭に灯る。
「……うん、よし。これで霜焼けにならぬから、遊ぼうか」
宮内の一室。暖炉の焚かれた部屋で側近の三人は身を寄せ合い、遠見の術で竜王と未来の妃の様子を窺っていた。
「明日は宮に雪を降らすと仰るから、何が始まるかと思えば……」
番の望むままに理を変えるような法術を行使する様は以前の機構染みた竜王のあり方からは想像もつかぬ事だった。
幸いすでに冬の入りであったため、上空の雲を弄る程度で済んだが、番の言葉次第では夏にも同じことをやりかねない。
「よいではないか。北方に姫をお連れするよりよっぽど安全であるぞ」
術者であるタウメが印を組み、術を保ちながらミズチの呆れを含んだ言葉に応じる。法術の中でも空間に関する術がタウメの得意とすることだった。
「私は嬉しいですよ。あの子がやっと愚かになってきて」
非礼極まりないシラハナの言葉をタウメもミズチも咎めはしない。彼女はそれが許される立場にある。
「竜も亜人も人も恋で愚かになる」
今回のことをシラハナはアルヴィアによる試しだと解釈していた。
アルヴィアの望みを叶え続ける竜王はどこまで愚かな願いを許すのか。
その考えそのものが、少女の竜王に対する執着への芽生えとも自覚せずに。
数多いる皇族の一人にすぎなかったアルヴィアから、竜王の妃たるこの世に二人といない存在へと変質していく。
命持つ限り変化からは逃れられない。その幸不幸を判断できるものはこの世界には存在しない。
「そろそろ薬なしで姫と会話しましょう」
書類から目も上げず、ミズチは淡々と言い放った。
「仲が良いのは結構ですが、流石に飲み過ぎです」
竜王がアルヴィアと会話する前に服用している薬は人界であれば材料を持つことすら罪に問われるものだ。
回復の早い竜ですら”薬を抜く”という課程を挟まなければならぬほどだった。
「今までこの薬で死んだ竜はいない」
他国への祝いの文を認めながら竜王は答える。大陸中の国や都市、名家に宛てたそれらは書いてもきりが無いものである。
「ここまでこの薬を飲み続けた竜もいないんですよ」
竜王とアルヴィアの出会いは夏。季節が巡り春が訪れ薬を飲み続けて一年近くが経っている。
臣下が精悍な顔立ちをゆがめながら憂苦する様を竜王は申し訳なさそうに眺めていた。
茶化せるような話題でも無かったので竜王は筆を硯に置き、臣下に向き直った。
「だがあの子はまだ幼い。このような欲など向けるべきではない」
竜王が番と出会い芽生えた物の中には肉欲も存在した。ほんの僅かな、萌芽としか言えぬ小さなものだが竜王は己を律することを心がけていた。
「幼いと言っても人間はすぐ育ちますよ。それこそ瞬きの間に我らを置いて」
竜域にも人間は存在する。人界から時折、亜人や地脈を究める学者や故郷を追われたものが移り住んでくることがあるためだ。彼らがこの地に根付き、所帯を持ち、生を全うする様子をミズチ達は幾度も見てきた。
「このまま薬を飲み続ければ、姫の玉の緒が絶える前にあなたの気が違えます。怖がらせたくは無いのでしょう」
竜王が服用する薬は脳に働くものだった。脳細胞を壊し、本能を鈍らせる。軽度であれば竜の抗病性もあり回復も容易だが常服となれば話が変わる。
「かつての凪いだ気性の頃ならともかく、今狂えばどうなるか見当も付きません」
感情が希薄で抑圧するような衝動も無かった以前とは異なり竜王はあの日、番に出会い心を得た。秘めた感情、隠した言葉、伸ばさなかった手。それら全てを堪えること無く曝け出してしまえば実に無様で竜そのものとしか言い様がない振る舞いをするであろう。
「陛下、決断を」
気が触れることは自意識の死と変わらない。選択の余地は無かった。
「唐突な話ではありますが、本日は薬を抜いた陛下と会っていただきます」
アルヴィアがいつものように竜王との交流に使用している一室に向かえば、既にミズチが待ち構えていた。
「普段はお二人のご様子を別室から窺っておりますが、万が一に備え我らが控えます」
昨夜の話し合いで突発的に決まったことであるため、アルヴィアへの連絡が遅くなったことをミズチは詫びた。
「自分は勢いで行動する部分がありまして。姫君への配慮が不足しましたこと、申し訳なく思います」
「考え無しの血筋ですのよ。親族のわたくしからもお詫びします」
シラハナもミズチの礼に合わせ頭を下げる。褐色の肌の青年と白皙の美貌を持つ童女が揃いの動作をする様子は人形劇を思わせた。
「あなた達、血のつながりがあったのですか?」
「……姫、この血族の話は教育によろしくないのでもう少し大きくなってからにしましょうぞ」
灰色の瞳を眇めたタウメが詳しい話を聞こうとしたアルヴィアを制する。二人の侍女の内、良識を担当しているのはタウメだった。
「はあい」
慕っているタウメからの窘めを受け、アルヴィアは好奇心からの質問を収めた。
甘えの入った飴玉を転がすような声はタウメへの親愛の証だった。
「そろそろ陛下を呼びますか。大事を取って百間先の廊下で待っていただいております」
「ミズチ、あなた陛下の臣なのよね?」
百間は帝国の縮尺に直せばおおよそ百八十メドルである。アルヴィアの記憶が正しければ竜王が待機しているのは竜宮の中でも人の行き来が多い回廊である。
「姫、諦めてください。陛下もミズチも人の目を気にしないという共通点がありますので」
「……改めてほしい。と言えば陛下は改めてしまいそうなので言及は控えます」
竜王の献身をアルヴィアは喜ばしく思っていなかった。誰かの在り方を歪めてしまう権利はアルヴィアにとって荷が勝つ代物だ。
その献身をこそ愛と受け止め、愛おしく思う性情の者がいるとは理解できてもアルヴィアには歪にしか思えなかった。
アルヴィアは己の感情の名付けを先送りにしながら、心への見識を深めている最中だった。
「陛下をお呼びいただいてもよろしいでしょうか」
「かしこまりました。では失礼して」
ミズチがひとつ、息を吸い喉を震わす。常の艶混じりの弦楽器のような低音とはかけ離れた鈴音が竜宮に響く。
音が鳴って数瞬を置いた時にはアルヴィアの眼前に竜王が現れた。
普段の通り言葉を交わそうとアルヴィアが口を開くが、叶うことは無かった。
目が合った途端、金眼の中心の瞳孔が細まり、常の穏やかさが消え、衣装からのぞく首筋、口許を押さえる手の甲すら赤く染まっていく。
「陛下?」
常ならぬ竜王の様子にアルヴィアが恐る恐る呼びかける。
その声がとどめとなったのか、口の両端から血が伝いだす。
「陛下!?」
番から目線を外すこともできず、最早湯気を出さんばかりに全身を赤くした竜王と戸惑うアルヴィアに側近達が近寄る。
「姫、失礼いたします」
その言葉と共にタウメが法術でアルヴィアを別の部屋に転移させた。
「やはりこうなりましたか」
間髪入れずシラハナとミズチが竜王を囲むように結界を張る。他害の防止ではなく、その場に残るアルヴィアの痕跡をこれ以上感じさせぬためだ。
竜はうずくまる。空を知らぬ蜥蜴のように地を這った。
正気を取り戻したころには、顔は青ざめ口許の血の赤さがいやに目立っていた。