第八話
「姫! よくぞこられました。ハルも休日にあいすまぬな」
タウメに招かれ、アルヴィアとハルが訪れたのは城内のタウメの私室だった。
妃の侍女に与えられる部屋としてはいささか小さく、その部屋の中に色とりどりのクッションや織布が所狭しと規則性もなく敷かれているので更に手狭さを感じさせる部屋だった。
「どこになりともおかけください。――ハル、確かこの若草色の綿詰めを気に入っておったな」
タウメから差し出されたクッションを鳶色の羽で抱きしめるハルの様子は見た目相応の幼さがあった。
「タウメとハルは、姉妹分といった感じでしょうか。以前から付き合いが?」
タウメが竜宮に勤めだしたのはアルヴィアが来てからだ。宮仕えを共にした結果、友情が芽生えたという線は薄い。
「ご推察の通り、ハルは妾の住む森の近くで生まれまして。我が一族が後見を務めておりまする」
タウメは竜域に住まう亜人たちの中でも有力な一族の生まれであり、姫君のごとく傅かれてきた存在でもある。
本人は誰かに仕える職を得ることを望んでいたので竜王からの申し出は渡りに船であった。
「ご存知の通り寡黙ですが良い仕事をしますので、妾の側付として考えられていたのです。しかしミズチめが目通りの使者として丁度良いと百年前に竜宮に連れて行きまして……ハルが望んだので竜王に仕えてもらっております」
傍から見ても不服の表情を滲ませるタウメにハルは持参した干菓子を姉分の口に運んだ。途端、相好が崩れ花びらのように丸い眉が八の字を描く。
「美味であるな! ばば様からの荷に入っておった干菓子か?」
タウメの問いにハルが頷く。常より表情の乏しいハルではあるが、珍しく微笑んでいる。
「姫も甘い物はお好きでしたね。ささ、こちら木の実の砂糖漬けです」
差し出されたのは実に素朴な甘味で、酸味の強いズノの実に砂糖をまぶし、重しを載せていくらか置いただけのものだった。
「作ってみました!」
タウメは灰色の瞳を輝かせ、豊かな胸を存分に張り、口の両端を上げどこか得意げだった。
「ズノの中でも熟れて酸味が抜けた物を山から採りました。ハル、世話になったのう」
傾国傾城の妖婦のごとき美貌を持ちながらタウメの心に具わるのは純真たる心だった。
「では、遠慮なく」
ひとつ、笑みを落としアルヴィアは赤く熟れた木の実を串に刺し口にした。
自分の作ったものを食されて落ち着かないのか、タウメの耳はせわしなく動いている。
アルヴィアの祖国の洗練された菓子とは比べものにもならなかったが、それ以上にタウメの心入れがアルヴィアの胸をくすぐった。
「とても美味しいです」
アルヴィアの言葉に落ち着き無く揺れていた金毛の耳が歓喜の感情を以て動き出す。灰色の瞳も薄く涙が張り、緊張から解き放たれたようだった。
「喜んでいただけて妾も光栄であります。ハル! お主も食べるが良いぞ」
ハルはタウメからの言葉に小さく頷きながら茶の用意をした。手指などは存在しないが、法術で茶器を器用に浮かせる様子は危なげが無く、いくらもしないうちに香り高い銘茶が用意された。
食べ物を出していることもあり、毛並みの良い六つ尾を揺らさぬよう努めている様子だったが尾の先が無意識に揺れクッションを撫でていた。
(愛らしさとは、年齢に相関しないのね)
初めて会ったときから、タウメはアルヴィアの憧れだ。可憐さと美しさ、茶目っ気まで兼ね備えた先達はアルヴィアの美意識を大いに刺激し、励みとなっている。
「それで姫。以前気になるとおっしゃっていた妾の幼少のころの写真です。ばば様に送ってもらった写真帳をば、どうぞ」
差し出された帳面には金の耳をぴんと立てた幼いタウメの写真が収められていた。
「写真に関しては妾のじじ様が作った術でして。この通り実験がてら写真がのこっておりまする」
泥遊びでもしたのか服や髪、顔にまで汚れたままの小さきタウメが手を伸ばしてくる様子、薄掛けを腹にぐっすりと寝入った姿。少し年かさの白髪の少年に抱きついている写真などが帳面に貼り付けられている。
「この頁くらいになるともう少し育ちまするな。二百年前の……ハルが生まれたころの写真がこちらです!」
妹分の写真を嬉々としてアルヴィアに見せる様子はとても齢六百を超える亜人には見えないほどだった。
伝わってくる感情を受けながらアルヴィアは常々疑問に思っていたことを問うた。
「ねえタウメ。私は番というものが分からないのだけれど、教えてくれないかしら」
アルヴィアの問いにタウメは眉を下げ答える。
「申し訳ありませぬが、役立てそうにありませぬ。妾は番を持たぬ身故」
「けれどいずれは出会うこともあるのではなくって?」
亜人の寿命は一般的に三千年。タウメはその内の二割ほどしか生きていない。
力の強い亜人であれば比例して寿命は延びるので幾千年の猶予が妖狐にはあった。
「そのような可能性も、万に一つはありましょうが、妾はその運命を欲しませぬ」
恋の話をタウメは好む。綺羅星の輝き、病のような熱、残渣のごとき執着。ひとつとして同じものは無き感情。
己とかけ離れているからこそタウメはそれらを好んでいた。
「姫と竜王陛下の恋を妾は応援しております。ですが、妾は運命づけられた伴侶を欲しておりません」
不変、永久、常磐の心。タウメが真に愛するものは己の魂。肉の器が朽ち果てようとそれは些末なこと。
一度きりの生ならば完全たる己を貫く。それがタウメの信条だった。
「自らの全てを擲つ恋。愛するもののために努力を重ねるその様は美しく得難いもの。亜人として生まれ、番のことを思う日々もかつてはありましたが、その上で妾は心に決めました」
金色の狐は笑みを描く。恋に憧れ番に焦がれた果て。五百年前の決意を今も彼女は忘れていない。
「道程を決めるのは妾自身。こればかりは何者にも邪魔はさせませぬ」
一般の従者であれば主人に追従し賛美するものだ。だがタウメは生まれつきの貴人である。自己の確立に必要な時間、自問のための哲学、惜しみなく注がれる愛。それら全てが狐を形作った。
「不遜でしょうか」
「いいえ。生きる上で重んじるものは人それぞれ。そこに尊卑は存在しません」
理想を教育されたアルヴィアの中で思想の甲乙、絶対の規範は無い。現実を知る前に竜宮という箱庭に移された彼女は他者を尊重することを第一とする。
「私も、帝国で生きていれば陛下に出会うことは無かったはずです。ですが、あり得たかもしれない己の道を否定することは悲しいことですから」
群青の瞳は遠い故郷を、選ばなかった未来を思う。だがアルヴィアは己の選択を悔いたことは無い。
「私が陛下と未来を共にする決意を固めたようにあなたも己が生き方を定めた。それだけの話です」
瞼を伏せ茶器に口を付ける様子は幼いながらも教会の聖像のような趣すらある。彼女もまた貴き生まれのものだった。
「結局我らに必要なのは、己が心のままに生きれる自由なのやもしれませぬな。……よいか、ハル。お主も半端な男になど捕まるでないぞ。執着をこそ愛と勘違いせぬように」
話の矛先が突然向いたためかハルは黄緑色の瞳を丸くして驚いた。
「良いと思った殿方を見初めたなら、まずは妾か姫に知らせるのだぞ。お主はまだ若い。焦ることはないのだからな」
「!?、!!?」
動揺のためか茶器が揺れる。法術は使うものの心にも左右される。
「タウメ、ハルが混乱していますのでその辺りで勘弁なさってください。ハル、お茶のおかわりをいただける?」
アルヴィアからの言葉で調子を取り戻したのか茶器は安定した軌道をえがきだす。いつの間にか新しい茶菓子も用意されていた。
「では、これまでタウメが出会った夫婦の話をしていただけますか? 年上の旦那さまの喜ばせ方を一緒に考えてください」
茶会は続く。花笑みを携えて、乙女たちのささやきは大気に解け、心ゆくまで彼女たちは語らいを楽しんだ。