第七話
その日は珍しく、アルヴィアとシラハナが二人きりになる時間があった。
「シラハナは竜について詳しいですか」
その問いにシラハナは朱色の瞳を丸くし、真白の頬に手のひらを添えた。アルヴィアは知る由もなかったが、シラハナは竜域の中で最も竜について詳しい人物だった。
「姫は勘が鋭いのかもしれませんね。それとも天運かしら」
実際アルヴィアは十年に一度の目通りに期せずして選ばれていた。
年頃の近い皇子、皇女、公爵家の子息なども帝国にはいたが、選ばれたのはアルヴィアだった。
姫の願いにこたえるべく、シラハナは語りだす。
「初めて見た竜が竜王なので誤解しているかもしれませんが、竜は本来欲深き生き物です」
貪欲で嫉妬深く、足ることを知らず、ねぐらに金銀財宝をしまい込む。番が見つかれば相手の都合を推し量ることも無く攫い、手放すことは無い。
「ですが、竜王陛下は……」
「ええ。あの方はそのような欲を持っていません」
竜宮は竜王の住まいでもあるが、宮としての体裁を保つだけの美術品や祭具が飾られているのみだ。竜王個人が持つ財宝も少なく、あるのは各国の王から贈られたもので彼の王が求めた物はない。
「共に生まれた姉竜すら欲を持つ竜だったというのに、彼だけはそのようなしがらみから解き放たれていた。だからこそ、竜域を制定できたのかもしれません」
亜人の住まう場所を守護することは、本来何の得にもならない。
彼らはそれぞれが強大で支配するには難しく、支配したとて利が無い。そもそも亜人を支配できるまでに猛きものは寄り合う必要が無い。
「では何故、陛下は竜域を治めるようになったのですか」
アルヴィアの問いにシラハナは明瞭に答えた。
「亜人達に請われ、それが理に沿うと判断したからです」
竜王が立つより前、亜人達は考えた。
人智を超えた力を持つ亜人が人界に散らばり暮らせば、力を持たぬ人は怯え疑心に苛まれて武器を取る。亜人は人の持つ文化や芸術を愛しているが、対立が深まり戦が起きればそれらが焼かれたなら失われたものを取り戻すことは難しいのではないか。下した結論は実に単純なものだった。
両者が相容れないのであれば、暮らす場所を分かつべきだ。
世界の果ての荒野の先には人が踏み入れたことの無い処女地が存在していた。そこに亜人を集め、亜人も逆らえぬ統治者を立ててしまえばいい。
「白羽の矢が立ったのが今上竜王陛下、その人です」
当時の竜王は、財宝を貯め込むための住処を持たず天を翔け、気まぐれに人界に下りては人々の暮らしをつぶさに観察する奇妙な竜として名が知られていた。
「他の竜に請うわけにはいきませんでした。そうすれば、たちまちに亜人そのものが滅びていたでしょう」
竜は人のような我欲を持ちながら振るう力は自然そのものに近い。時に意思を持つ禍とさえ形容される彼らの怒りを買えば当人だけでなく一族、縁者にまで累が及ぶ。
「いくら陛下が変わり者とされていても、あまりに無謀だったのでは?」
「ええ、その通りです。ですが、竜王は彼らの前に現れ提案を受け入れました」
竜を捕まえることなど、土台無理な話なのだ。それでもかつて竜域が成立したのは、かの竜が救いを求める彼らの前に降り立ったからだ。
「どうしてでしょう。陛下には何の利もなかったのに」
アルヴィアの思わずといった調子で漏れた疑問にシラハナは笑った。
「シラハナ?」
「ふふ、ごめんなさい。でも姫と竜王陛下はとても似ているなと感心したのですよ」
アルヴィアが竜王に申し出た言葉はミズチ伝にシラハナとタウメの耳に入れられていた。
その名の通り、シラハナは花のような笑みを湛え、姫にささやいた。
「きっとただ、目の前の人が困っていたから。そんな理由であなたたちは手を差し出したのでしょうね」
心と呼べるようなものが存在しなかった張り子の竜と皇女としてあれかしと望まれ生きてきた少女。
彼らの根底にある清らなものはシラハナが持ちえぬものだった。
「そんな些細なことが、この先の永き時を運命づける」
数奇な運命を辿ることになるであろう少女をシラハナは穏やかに眺めていた。
願わくば己とあの男が辿れなかった道を選び取ってはくれまいか。
シラハナは身勝手にそう思った。
「食の好みを教えてほしい。苦手なものでもいい」
唐突な問いだったが動揺するような質問でも無かったのでアルヴィアは簡潔に答えた。
「今まで食事に対してこだわりがなかったので、明確に好きと言えるものが思い当たりません」
内陸に位置し大河からも離れた帝都は食文化の発展が乏しく、国民そのものが美食に対しての意識が薄い。
食事に対して貪欲であることは卑しいともされるので貴族、皇族であるほど粗食を心がけることが多い。
「ですが、先日いただいた透明なスープは体が温まりました」
「羹か。おれもあれを飲むと心が落ち着くな。日々の食事で他に気に入ったものがあれば、おれ相手でなくてもいい。伝えてくれ」
番の好みを知ることができた喜びで男は表情を和らげたが、聞くべきことを思い出し真剣な表情を作った。
「それで君、甘いものは食べれるか」
「はい。故郷でも食しておりました」
その返事に安堵したのか、竜王は肩の緊張を解き、続けた。
「君が馴染んでいる甘味とはいささか勝手が違うが、どうか食べてくれないか」
竜王が差し出したのは丸みをおびた粘土細工のようなかたまりだった。
懐紙ごと菓子を受け取ったアルヴィアは手のひらに乗せ、観察した。
淡い黄色を基調に、薄桃の模様が所々に散っており、愛らしい印象を受けた。
「豆を蒸かして砂糖を入れて、食紅を入れて成形したものだ」
実際には、遠い昔に書き付けて長らく放っていた図案の発掘、豆の選別、へらによる成形など工程は複雑な物だったが、竜王にとっては番が気に入るかが全てだったので説明は省略された。
「恥ずかしいことにおれが作れる料理はこれくらいだ。品目はこれから増やしていくので、今日はこれで勘弁してくれないか」
「陛下がお作りになられたのですか?」
目の前の竜王と手のひらの繊細な菓子が結びつかず、アルヴィアは竜王を見つめた。
「昔、タウメにせがまれてな」
請われれば施すのが竜王が持ち合わせる性情だ。そこに彼自身の感情が差し挟まれる余地は無い。
「小さい頃のタウメですか?」
「ああ。あれが今の君よりも小さい頃、人界で見た菓子が忘れられぬと泣くのでな。作ってやった」
幼かったタウメはよく泣き、よく笑う忙しい子供だった。ある程度大きくなっても感情の起伏が激しいことは変わらず一族が手を焼き、竜王が面倒を見るため竜宮に預けられることもしばしばあった。
「君ほどの背丈になった時も落ち着きがなくってな。小言を言いながらミズチが面倒を見ていた」
新たに物を作り出すのでは無く、模倣であれば竜や亜人も行うことができる。職人を観察し、手付きを真似て、同じ材料を揃えれば再現は苦では無い。
最も竜であるにもかかわらず他人の願いを請け合う竜は彼のみではあったが。
「随分と小さくて愛らしい菓子ですね」
「花や生き物、季節を模すのが特徴なのだそうだ。家庭で作るというよりは催し物の際に食べるようなもの、らしい」
最初にせがまれたのがタウメがまだ頑是無き童であった頃なので由来についても曖昧になっていた。元より過程より結果を重視してきたのがアルヴィアに出会うまで竜王だったのでそれも仕方の無いことだった。
「最初、青い菓子を作ろうとしたのだが。食欲がわかぬとミズチに止められてな」
青は竜王とアルヴィアの色だ。竜王は髪に、アルヴィアは瞳に色味は違えど青色を抱いているためである。
「青いお菓子、見てみたい気がしますが舌まで青く染まりそうですね」
「確かにそうだな。青い豆などないから、食べられる花で色付けすることになるからな」
竜王の言葉にアルヴィアは目を丸くした。
「花も食べられるのですか」
「種類は少ないが、あるよ。元を正せば草だしな」
群青の瞳を輝かせるアルヴィアに竜王は眩しさを感じた。
(ああ、愛らしいな)
竜王にとってアルヴィアはまさしく光だ。しるべとなり己のかたちを浮き上がらせ、どうしようもなく焦がれてしまう唯一。
「陛下?」
「なんでもないよ」
どうか穏やかでいてほしい。泣くことも嘆くことも心荒げること無くすこやかに生きてほしい。
竜王は番の安寧を願う。生きとし生けるものが変わりゆくことを理解しながら、叶わぬ願いを彼は抱いた。