第十九話
明くる朝、竜王はアルヴィアを執務室に呼びよせた。
「セイケイ様。お呼びですか」
アルヴィアが問う。五年の内に竜気を浴び続けたため、薄桃から紫に変わった髪に朝日が差し、黎明の色を作り出していた。
普段であればアルヴィアが寝入っている時間帯だ。そのためもあり、アルヴィアも平素の装束に比して簡易なものを召している。
アルヴィアに一人掛けの椅子を勧めた竜王は幾ばくかの逡巡後にひとつ言葉を落とした。
「ただ、そこにいてくれ」
手の内に収めていられると思っていた己の傲慢を竜王は省みた。奇跡は砂のように、夢幻のごとくこぼれ落ちると相場が決まっている。
(貪婪な蜥蜴になろうと構わない。どうか、このひとを、僅かでも永くこの世に留めていたい)
再来、転生を目にしたものはいない。生は一度きりであるからこそ価値を高め命を無二のものとする。
その道理が今の竜王にとっての毒だった。
ただでさえ儚い己の番が心を乱し、均衡を失おうとしている今、男にできることは無かった。
二世の契りを約束されぬ身の上では、愛する女の終生を心に刻むほか無かった。
宮の裏手。日当たりも悪く風の強いこの場所はアルヴィアとハルの息抜きの場所だった。
竜宮を勤めで留守にすることの多いハルだが、近頃のアルヴィアの浮雲のような不安定さを感じていたらしくミズチとの授業の後に連れてこられていた。
黄緑色の瞳を団栗のように丸く見開き、アルヴィアの群青色の瞳を覗き続けている。
「別に脅しつけたくて寿命の話をしたわけじゃないの」
言葉を待つハルに黙っているわけにもいかず、アルヴィアは口を開いた。
「ただ、思いもよらぬ別れは私たちが想像するよりも、心に洞を作るものだから」
心の醜さを悟られぬように、けれども全てが虚偽に塗れていれば悟られる。そう考えたアルヴィアはかつての純粋だった自分を演じた。
アルヴィアは九つの時に竜域に訪れて以来、故郷の帝国に戻ったことはない。
幼かった皇女にとって帝城は檻でしかなく、竜域へと向かう旅で初めて外に出た。
「一月で戻る予定だったから、部屋はそのまま。見送りの式典もお兄様はいらしてなかったわ。手紙だってあなた、受け取っていないでしょう」
亜人に対する忌避の強い帝国に法術で手紙を届けることはあまりにかの国の感情を逆なでする。そのため、直接出向くしか荷を交換する手段はない。
五つ上のアルヴィアの兄、アルヴハイムは第五皇子にあたり、派閥争いに参入できる後ろ盾もないので武で身を立てんと十二の頃には騎士の誓いを立てていた。
そんな多忙な兄なので出立前に簡単な挨拶を済ましたのみで別れてきてしまった。
「……」
黄緑の瞳がアルヴィアを見つめる。風に揺れる薄桃の髪はかつてアルヴィアが持っていた物だった。
「恨んでいるわけではないわ。セイケイ様は私を帰そうとしたのに我が儘を通して残ったのは私よ。でも、最近よく考えるの。突然私を亡くせばあの方はどうなってしまうのか」
亜人は長命な者が多い。六百歳を超えるタウメですら竜域では若者とみなされる。
「永遠を生きるあなたたちの中で、私だけに終わりが訪れる」
亜人とて寿命はある。だが、彼らに死が訪れるのは久遠の果て。
アルヴィアはどうしても彼らとともには生きていけない。
「その道理を、私たちはどうしても忘れる。今日と同じ明日が、未来が続くと錯覚し日々を浪費する」
耳障りの良いきれい事を諳んじるアルヴィアに淀みは無い。
「穏やかな終わりが訪れるかもしれない。毟り取られるよな傷が残るかもしれない。その日が来るまで分かりようのないこと」
道理を語れば齟齬は発生しない。帝国にいた頃、アルヴィアは兄から教わった。
「私を失ったあの人が立ち尽くしていても、その涙を拭えない。どんなに手を尽くしてもその未来に帰結する」
ここで涙を零せばハルは抱きしめてくれる。後は追求してくることはない。そんな打算を持ったアルヴィアが空涙を流そうとすれば、ハルはその頬に飛色の羽を添え群青の瞳を見据えた。かち合った瞳は太陽を受けた橄欖石の色を持っている。
「そこまで、考えて」
告げるつもりの無かった言葉だった。己の醜さに蓋をしようとしていたアルヴィアは、友人にその中身を曝け出したくは無かった。
「矮小な私は思ってしまう」
一度溢れ出てしまえば堪えることはできなかった。
「立ち尽くして、そのまま死んでしまえば良いのに」
恋で死ぬ竜がいないことはシラハナが実証している。それでも少女は愛しい男に共に死んでほしかった。
「平気な顔をして生きていかないで。私のいない竜宮を瓦礫に帰して。胸を掻き毟って心臓を取り出して。星の終わりなど見に行かないで」
本当の願いは最後にこぼれ落ちた。
「私を、置いていかないで……」
置いていくのはアルヴィア自身だということを理解していても嘆きは消えない。
自らを掻き抱くアルヴィアを、ハルは翼を広げ包んだ。友人の心の内が衆目に晒されぬよう、祈ることしか彼女にはできなかった。
ハルと別れた後、アルヴィアは自室に戻ろうと宮の廊下を歩いていた。
(私、あの子の前では取り繕えないのかもしれない)
アルヴィアにとっては初めて出来た友人だった。竜王に見初められることなど想像していなかった五年前、共に荒野を越えたかけがえのない存在だ。
「妃殿下」
青藍の扉に手をかけようとしていたところ、亜人の青年が彼女を呼び止めた。
「どうかついてきてくださいませんか」
アルヴィアに近付くことが許されているのは竜王の側近であるミズチ、侍女のシラハナ、タウメ、友人であるハルのみである。
緊急の事態であればその限りを外れるが、そのようなことが起きれば竜王が真っ先にアルヴィアを保護する手筈になっている。
「ええ。構いませんよ」
不自然極まりない青年の誘いにアルヴィアは乗ることにした。
「では、こちらに」
青年の瞳にアルヴィアに対する悪意は無い。ただ、竜王への忠誠の光が灯っている。
その光こそが己を滅ぼしてくれることを、アルヴィアは期待した。
アルヴィアが連れてこられたのは古い石造りの岩屋だった。
(竜域にも牢があったのね)
竜域で罪を犯した者は最果ての島、ホロミラに放逐される。
竜王の加護の薄い島で使える法術は少なく、上空で絶えず渦巻く気流と渦潮で物理的に脱出することも難しい。
ミズチとの授業を思い出しながらアルヴィアは抵抗もなく、青年に連れていかれた。
「……あなたに恨みがあるわけではない。だが、あなたがいらしてから竜王陛下は……」
その先に続く言葉をアルヴィアは知っていた。
「完璧ではなくなったわね」
泰然と竜域を治め、機構のようですらあった竜王はもう存在しない。感情を持ち、番の一挙一動に心悩ませるようになった。
人身御供らしい慎ましく無垢な娘であれば穏やかにあれたのかもしれないが、それは仮定の話に過ぎなかった。アルヴィアには心があり、竜王もまた心を持った。
「喜ぶべきことなのかもしれない。だが、天翔る竜には終わりがないのだ」
人間のように、燃えるような感情で一生を燃やし尽くすことができない。
激情の後に残るのは炭のような永劫のみ。そのことを亜人の若者は危惧しているのだろう。
「自分には恋が分からない。だが、どんな思いも時が経てば薄れていく。それまであなたを閉じ込めればいい話だ」
恋知らぬ者の言葉だった。時が経てば、秘すれば、遠ざけてしまえば。それらの道理を無に帰す不条理をこの若者は知らなかった。
「百年……いや二百年もあれば……」
人の寿命も知らぬ青年はアルヴィアをどれほど幽閉するかの期間を決めかねているようだった。
己の足に鉄輪が嵌められるのをアルヴィアは黙って眺めていた。
使われる機会が少ないのか饐えた匂いがすることも無く、僅かな風すら感じられる。
隅にうち捨てられた布は歴史を感じさせる意匠だが、法術が用いられているのか薄暗い岩屋とは不釣り合いに新しかった。
(掛布かしら。品も良いものね)
真珠のような薄片を払い、敷物代わりに地面との間に挟み、人心地付く。温室育ちではあるが放胆な気質も持ち合わせるのがアルヴィアだった。
観察を続ける内にアルヴィアはあることに気付いた。
(そもそも牢屋の意図を持った場所では無いのかもしれない)
鉄輪こそ嵌められたが出口が遠いだけで扉や障壁と呼べるものは無い。法術の気配も無く、薄らと竜気の残滓が感じられるのみの岩屋は不思議とアルヴィアに落ち着きをもたらした。
「……朝夕に食料を届ける」
短い言葉を残し、亜人の青年は去った。灯りも無き岩屋でアルヴィアは目を伏せ、居住まいを正した。
頬を撫でる闇はアルヴィアにとって慣れ親しんだものだった。