第十八話
あの子が竜王として君臨しはじめた頃、気まぐれに人界に降りたことがきっかけでした。
ひとりの男を見つけました。二十歳にもならぬような年若い男でした。竜はひと目見た瞬間から、その男が欲しくて欲しくてたまらなくなりました。男によく似た子供も隣に居ましたが、興味がわかなかったので目もくれませんでした。
我慢など知らぬ強欲な竜は男の衣を咥え、竜域に攫いました。
誰も訪れぬ岩屋に男をつなぎ止めました。最初の内は鎖を壊して逃げようとしたので、竜気を浴びせて自由を奪いました。意味のある言葉を喋れなくなりましたが、喃語のようでとても愛らしかったのを覚えています。いつしか男は抵抗を止めました。
人の世話などしたことがありませんでしたが、術で思考を読んで必要なものを揃えました。
満ち足りた生活でした。目が覚めれば愛おしい命がすぐ傍にいる幸福をはじめて知りました。
男は時折夢うつつに呟くことがありました。
シラハナ、シラハナ。
まじないでしょうか。竜には分かりません。
ある日男に尋ねました。
ほしいものはなあに?
頭読みの術はこのごろ使っていなかったので、直接尋ねてみました。
竜気を緩めてやれば、男は口を開きました。
子供に、あわせてほしい。
血の気が引きました。竜は忘れることができない生き物です。今まで気にも留めていませんでしたが、男を攫ったときに傍にいた子供。あれはきっと男の子供だったのです。
ああ、ならばシラハナは、お前の妻の名前か。
竜は生まれて初めて涙を流しました。泣きながら、男を元いた場所に返しました。
竜域に戻った竜は愚かな自分を戒めるため、力を封じ、名をシラハナと改めました。
「お話はこれでお終い」
絵草紙を閉じるかのように、燭台の火が消えるように。
「安心なさってください、姫。恋など全て愚かしく幸福なものなのですから」
シラハナは笑う。熟れきった鬼灯色の瞳を細めて笑う。
幸福の残滓は今もまだ彼女の目を赤々と照らしていた。
番狂いの白竜をアルヴィアは静かに見つめる。彼女こそがコスティアの指導者だった男の妻だとアルヴィアは確信した。
祭りの由来を口にしようとしたが、止めた。シラハナはあの祭りが己のために開かれているなど微塵も思っていない。男と女が些細な行き違いで別れてしまったことを、数千年が経った今更になって伝えたところで救われるものはなかった。
転生はこの世にはない。
正しくは天地開闢より生きる竜王ですら目にしたことがない、お伽話の中でしか存在できない奇跡だ。
自らが光り輝きながら、かつての幸福の影法師を追うことしかできなくなった真珠色の女を救う手立てをアルヴィアは持ち合わせていなかった。
ある夜の逢瀬。アルヴィアはおもむろに切り出した。
「セイケイ様。私、おそらくあなたが思うより早く死にますよ」
番から浴びせられた言葉に竜王は己の身が強張るのを感じた。
「あと八十年も生きれば良い方です。健康でいれる期間はもっと少ない。今この瞬間、心臓が止まって死ぬかもしれない」
人がすぐ死ぬことは竜王も重々承知していた。それこそ瞬きの間に生まれ死ぬその姿を流星のようだと思ったこともあった。
だが今確かめるべきはその事実では無い。
「死にたいのか」
希死念慮とすら取られかねない言葉だった。慎重に問う竜王とは対照的にアルヴィアは興味薄く続けた。
「そんな気はありませんが、覚悟もなく死なれたらさすがに気の毒かという配慮です」
竜王には番の心が読めなかった。分かりきっている事実を何故今更になって突きつけるのか。どうして己を不安にさせる言い回しを選ぶのか。何を望んでいるのか。
近頃のアルヴィアが不安定であることは竜王も感じていた。
心身の成長の過渡期ゆえの揺らぎとして見守っていたが易き考えであったことを後悔した。
番の苦しみに寄り添うことの能わなかった己を情けなく思いながら竜王は答える。
「おれは君がいつ死んでも心が千々に裂かれる心地だろうよ」
竜の心は変わらない。愛すると定めたのならばその身が滅ぶまで愛することしかできない。
心変わりができるほどの器用さを彼らは持ち合わせていない。
「久遠の先も君の面影を求め続ける。大仰の口説き文句ではない、ただの事実だ」
竜王の言葉を受けアルヴィアは笑う。月明かりに照らされた白皙の美貌は感情を読ませなかった。
帝国が成り立つ前、現在の帝都はある一人の男が拓いた。
男は早くに両親を失ったが、兄とともに荒野で同じ民族と共に家畜を連れ、平和に暮らしていた。
しかしある日、男がまだ幼い子供だった時分西方から飛来した化生に兄を攫われたのだ。
子供は恐怖に震駭しながら成長し、兄の攫われた西へひたすら歩いた。
元より荒れ野で暮らす民。食料などに困ることもなく、男は竜域に辿り着いた。
そこで見たのは混沌と呼ぶに相応しい有様だった。
文明を持たぬ亜人が思うままに飲み食らい。ただびとには扱えぬ怪しげな術で水や火を操り。戯れで振り回した拳で地を割って。化生と人の姿を行き来たり。
命からがらに逃げ出し、東へと引き返した男は仲間の元に戻ることもなかった。
そしてある時悟った。あの化生から逃れることは出来ぬのだと。
だとしても男は抗わずにいられなかった。石を切り出し積み上げて、壁を作った。西より来たる人ならざる者に心を許してはならぬよう出会う人々に言い聞かせた。
いつかあの化け物共は顎を開き我らを呑む。
賢くあれ。疑い深くあれ。矜持を持て。種としての尊厳を忘れるな。
人界の守護者として君臨せよ。それこそが我らの誇りである。
夢を見ていた。帝国にいた頃乳母にせがんだお伽話だ。帝国の亜人蔑視の源流ともいえる話は帝馴染みのもので、アルヴィアの兄、アルヴハイムも時間ができればアルヴィアに読み聞かせてくれた。
「……」
寝ている内に無意識に握りしめていた掛布から指を解き、アルヴィアは半身を起こした。
真白のリネンは朝の光を受けつややかに輝いている。アルヴィアにはその光すらうっとうしく、光源の南の丸窓を睨んだが、どうすることもできなかった。
(どうせなら兄さまの夢を見せてくれればいいのに)
手紙こそ送っているが帝国からの返事はない。国交は断絶しており、帝国から手紙を届ける術はアルヴィアにも思いつかないので次の目通りまで手紙が来ない可能性も視野に入れていた。
(お元気かしら)
五つ上のアルヴハイムは今年で十九になる。背はもっと伸びただろうか。野心の無さは無事周囲に理解してもらえただろうか。もしかしたら奥様を迎えられたかもしれない。
そんな栓無き事を考えていても時間は刻一刻と過ぎ去っていく。寝覚めたまま寝台にいるのは居心地が悪く、心を塞がせた。
アルヴィアは朝が嫌いだ。
セイケイとの宵闇の中での穏やかな逢瀬を塗りつぶす忙しなさ、己の愚かさが目映い光に照らされる錯覚に陥らせる白日。それらがアルヴィアを苛立たせるのだ。
常であれば昼まで起きることはないが、今日は珍しく目が覚めてしまい再び寝付くことも出来ない。
(着替えを……)
泥濘に浸かっていたかのように重い身体を引きずり、アルヴィアは扉一枚隔てた衣装部屋に移った。
(若苗色の衣は一昨日着た。この衣を着るとセイケイ様が花菖蒲のようだと褒めてくださる)
一枚、一枚衣を捲り、アルヴィアは今日着る衣を吟味する。一心に衣と向き合っていれば自然とアルヴィアの頭は冴えてくる。
アルヴィアは自室に竜王以外を入れることはない。竜王に願われたわけでも、周囲に勧められたわけでもない。
ただ己が無意識に引いた境界線であることをアルヴィアは自覚していた。
(このような姿、誰にも見せたくはない)
常の見せかけである明るい振る舞いは、アルヴィアにとっての鎧だ。幼き頃の己をかたどり、今の醜い性根を覆い隠すため、気付けば纏っていた大切な殻。その鎧すら最近は剥がれ落ちてきているが。
瞬くような短き間しか生きられぬというのに人間は、アルヴィアは変わってしまう。
無垢であったはずの心、眼差し、魂が変質していく。斜に構え、欲を孕み、愛する者を弄ぶ。
(どうして、美しいままであれないのだろう)
先日、アルヴィアは己の寿命の話題を持ち出して竜王を揺さぶった。そのせいか竜王は逢瀬の度にアルヴィアをもの言いたげな目で見つめている。
醜くとも無垢なる少女の振る舞いをしていれば保てる平穏をアルヴィアは壊そうとしてしまう。
見てくれだけを美しく装っても心の内の泥は溢れ続ける。
(美しさに固執する自分の心こそが最も醜いというのに)
正しさを理解する聡さを愚かしさが上回る。ままならぬ心こそがアルヴィアが人であることの証左だった。