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第十二話

 宮の者が寝静まり、鶏鳴の気配すら感じられる中、王は忍んで己の番の宮に向かっていた。

 薬は年月をかけて量を減らし、二度目の狂乱から四年経った今では服用せずに逢瀬を行っている。

 宮の廊下に飾られた桔梗の花は昼の内に愛でられたのだろう。竜王は番の気配を一際強く感じた。


(おれは触れることすらままならんというのに、何故)


 普段は番の前では見せぬ狭量も心内であれば憚る必要もない。

 花にすら悋気しながら僅かに残った理性で竜王は自答した。


(恋とは、なんだろうな)


 竜王は恋が分からない。己を浮き立たせ、常ならぬ様に駆り立てる衝動こそ恐らく恋と呼ばれるものだということは理解している。

 竜王は永い時を生きてきた。天を翔け、時に野に下り様々な生活を目の当たりにし、竜域を治めてきた。

 それでも竜王に心は、恋は縁遠いものだった。亜人に請われるままに竜域を治め、人間に請われるままに結界を張り人界との境を定めた。

 そこに竜王の意思はなく、理に沿う願いであると判断しただけのことだった。

 機構のように生きることこそが竜王の安寧だった。

 だがあの日番に出会い、竜は心を与えられた。頓着していなかった己の容貌や振る舞い、性格を見つめ直していく日々は大気のように生きていた男に輪郭を持たせるものだった。

 音も無く竜は夜闇を歩く。いくらもせぬ内に馴染みの扉が見えてきた。

 アルヴィアの部屋の扉はこの棟で唯一、青藍の色をしている。青は竜王を表す色であり、竜宮でこの色が用いられるのは竜王やその妃にまつわる場所に限られている。


(宮を建てた時は、この部屋を使うことになるとは考えていなかった)


 竜や亜人は番を持つものがいるがその仕組みは未だ解明されていない。ただ、説明が付かぬ運命を持つ者たちを”番”と便宜上呼称しているのだ。


(自分自身に番がいるとは思ってもみなかった)


 番に出会えるかは運としか言い様がなかった。生まれて百年も経たずに巡り会うものもいれば、会うこと無く命を終えるものもいる。全ての竜や亜人に番が存在するのかを確かめる術がこの世には無かった。

 部屋に入ればアルヴィアが夜着にも着替えず部屋の奥の長椅子に座り竜王を待ち構えていた。

 竜王が扉近くの燭台に火を灯せば互いの輪郭がうっすらと照らされる。


「楽になさってください。私はここから動きませんので」


 袖口の布で形の良い唇を隠したアルヴィアが微笑む。

 物言いは不遜だったが、竜王は異議を唱えることはなかった。

 事実この部屋に入ってから身を竦め、アルヴィアの一挙一動に気を乱していたのは竜王だった。


「今日は、どんな日だった」


 一日の様子を尋ねるのは夜の逢瀬が始まってから半ばお決まりになっていた。他国の王とは異なり政務に追われることは無いが、亜人のために大陸中の国に親書や祝いの文を認めることを竜王は己に課していた。


「いつもと変わらず。セイケイ様をお見送りした後に一眠りして、シラハナとタウメとお茶をしました。午後からはミズチ様の授業を受けました。そろそろ竜域の勉強が始まりそうです」


 かつては一国の皇女だったアルヴィアは竜宮でも相応の教育を受けている。歴史、哲学、文学、数学、理学と分野は多岐に渡る。

 そのおかげで公務をこなす必要が無くなったアルヴィアも無聊を感じることはなかった。


「……勉強するようなこと、竜域にあったか?」


「確かに国が興った滅びたなどはありませんが、成り立ちを知ることは大事ですから」


 竜王が竜域を治めだして以降、大きな戦乱も無く長命故に代替わりも無い。その点では竜域は世界一平和な場所である。

 いくらかの歓談を経て竜王は本題を切り出した。


「今日は、君に触れてみようと思う」


 部屋に用意してあった冷茶を口にし、己を鎮めながら竜王は切り出した。


「セイケイ様、ご無理は……」


 竜王がアルヴィアに薬無しで触れようとしたことは幾度となくあったが、これまで成功した試しはない。


「待ってくれ、今日は考えてきた。柔らかい肌や髪を触ろうとするからおかしくなるんだ」


「ですが、人の身体にそこまで固い場所は……」


 鱗や角を持つ亜人ならともかくアルヴィアは人間だ。

 固い部位となれば骨や歯だが、人間に骨が露出した箇所などはない。そうなれば必然、口腔内に指を入れることになる。アルヴィアはこれまで竜王が彼の基準で過度な接触を行うと血を吐く様子を思い出していた。


「爪だ。この部位ならある程度の固さが保証されている」




 部屋の奥のアルヴィアに竜王が少しずつ距離を詰める。一歩ごとに息を整え、徐々に徐々に近付いていく。

 時折口の端から血がこぼれるが、二人ともこの数年で慣れ、気に留めることも無くなった。


「先に仰ってくださいましたら、爪紅も取ってきましたのに」


 身だしなみの一環としてアルヴィアは爪を染めている。炊事を行うことも無い身分のため、その指はいつでも美しく整えられていた。


「詳しくないが、取るときも爪は傷むのだろう。不自由を強いているんだ。せめて好きなように着飾ってほしい」


 竜王の言にアルヴィアは静かに目を伏せた。


(強いられたなど、一度も感じてはいないのに)


 愛を請うと竜王はかつて言ったが、今日こんにちまで竜域に留まり愛を受けているのはアルヴィアの意思だ。


(陛下の中では、私はあの日の純粋な姫のまま)


 既に目通りから五年の月日が経っていた。人の心は同じままではいられない。そのことをアルヴィアは日々感じていた。


「君は爪すら愛らしいな」


 小さな貝のような大きさのアルヴィアの爪をまじまじと眺めながら真剣に品評する竜王があまりにもおかしく、アルヴィアは吹き出した。


「かたち自体は他の方とそう変わりはありませんよ」


「分かってはいるのだが、どうにも君を前にするとおかしくなる」


 暗闇の中で金色の瞳孔は定まること無く動き続ける。


「……うん。ありがとう」


「満足されましたか?」


「いや。あまりに撫でさすっていると削れてきそうで怖くなった」


「陛下の肌がやすりでも無い限り、大丈夫ですよ」


 時々心がささくれ立つこともあるが、アルヴィアも夜毎の逢瀬は竜王とゆっくり語らえるこの時間を好いていた。


(朝など来なければ良いのに)


 眠りを必要としない竜とは異なりアルヴィアの身体は休息を求める。

 竜王を引き留めたとて一刻も経てばたちまち眠りについてしまうだろう己の身体がアルヴィアには憎たらしかった。

 燭台の火がゆらめく。蝋燭が燃え切れば逢瀬の終わりの合図だ。


「もう少し、長い蝋燭にしませんか」


 不満がもれる番の愛らしい小作りの唇を竜王は穏やかな気持ちで眺めていた。


「これ以上は次の日に差し障りがある。最も、日付自体は既に変わっているけれどね」


 竜王との逢瀬は誰も彼もが寝静まった未明に行われている。

 アルヴィアは夜が好きだ。竜王を想起させる深い藍色の闇も、愚かしく育った己を照らす陽光が存在しない静謐な時間。それらがアルヴィアの心を慰めてくれる。


「セイケイ様。あとほんの少し、月が窓から見えなくなるまで側にいてくださいな」


 上弦の月は既に天上から巡り、丸窓の縁をかすめていた。


「君はおねだりがうまくなったね」


 月が沈むまで、朝が来るまでと言われたのなら竜王は断らざるを得なかった。しかし番が望んだのは、今まさに窓から消えようとしている月を見送るまでの僅かな時間だった。

 竜と番は寄り添いながら月を見た。青白く輝く玉輪は留まること無く朱塗りの窓辺を逃げおせた。


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