第十話
「しくじった」
竜王は幼い番を相手に振る舞いには細心の注意を払ってきた。権高にならぬよう、逃げ道を塞いでしまわぬように心がけてきた。
「目が合った途端に口から血を出すなど、無様極まりない」
「まず普通の人間は吐血しませんけどね」
茶を啜りながらミズチが答える。竜王のために淹れた茶だったが、本人が掛布に包まって出てこないので冷める前にと飲み出した。
「お前、他人事だと思いおって……」
「実際他人事ですので」
ミズチとしては主の恋の成就に興味はない。協力しない理由もないので止めはしないが。
「他人の意見としては、正直少女趣味を疑ってはいますが」
「言葉を選べよ、貴様」
奥歯を噛みしめ眉根を寄せ呼吸を整える竜王を見据え、ミズチは言葉を続けた。
「兄のような立場に甘んじて、男として見られなくなったらそれこそお終いですよ」
「ぐ……」
興味はないが、六百年仕えた主である。差し出がましくはあるが、助力くらいはする。
「こちらから言わせれば何も始まっていないんです。薬無しに目も合わせられなければ、言葉すら交わせない。ならやや子はどうなるんですか」
「ッーーー!」
明け透けに過ぎるミズチの言葉に竜王は毛を逆立てた。
「お、お前なんてことを。あの子はまだ十歳だぞ!」
「年齢で考えないでください。姫が八十まで生きると仮定したら残りは七十年。御子をもうけられる期間は体の負担も考慮すれば四半世紀にも満たない」
ミズチも最近になって気付いたことだが、竜王は番のことになると現実を直視することを避ける。
「この場合陛下が子供がほしいかどうかは関係がありません。祖国にいれば手に入るはずだったものを我らは取り上げたのです」
勿論子供を求めない女性もおりますから、姫との話し合いが必要です。
そう続けられたミズチの言葉を受けながら竜王は頭を抱えた。
「……帝国の悪竜伝説も笑えぬな」
六代前の皇帝が国内での竜王人気を危惧し、皇族に伝わっていた話を簡略化し民に広めたのが悪竜のお伽話である。
宝物に執着し番を攫ってでも得ようとする竜の本能が存分に伝わる恣意的な童話だ。
「今更ですよ。帝国の亜人忌避もあって竜域との交流は十年に一度の目通りだけ。遂にはろくな親交も無いのに姫君を略取。獣の振る舞いとしか言い様がない」
会話を続けながら、ミズチは竜王が打ち沈んでいることを感じた。
(しかし、こうまで変わるか)
アルヴィアに出会うその直前まで、竜王に感情と言えるようなものは無かった。
気が遠くなるほどの来し方から欲に呑まれること無く存在してきた竜は最早生き物より神に近しい有り様を保っていた。
その機構じみた在り方に興味を引かれ、半ば押しかけるように補佐役に収まったのが六百年前。ミズチが百二十歳の頃だ。
そろそろ上向きになる言葉をかけるか。とミズチが考えていた時、転移の術で竜王の自室にシラハナが降り立った。
「下世話な話はそのくらいにしておきなさいな」
竜王と臣を諫める姿は見目にそぐわぬ風格を持ち合わせ、一層に彼女の妖花の佇まいを際立たせていた。
「姫君はタウメに任せているので大丈夫でしょう。今日はこのまま一緒にお休みになるそうです」
「ああ。助かるよ」
竜王とシラハナの付き合いは長い。大地がまだ煮えたぎっていた頃。国すら無く霊長も定まらぬ頃より添ってきた。
最も当時のシラハナは今よりも大層奔放で落ち着いてきたのはこの数千年の話ではあるが。
「姫から未来を奪ったのは確かに陛下です。しかし、選んだのは姫ご自身であることをゆめお忘れ無きように」
「ですが、シラハナ様」
「それこそ思い上がらぬように。心こそは何者にも縛られぬ最後の砦。わたくしはそう心得ております」
朱色の瞳が二人の男を見据える。反論は許さぬと念を押すかのようだった。
「……畢竟、人の心など人でなしの我らが解せるはずも無くといったところか?」
「化け物の限界です。人の真似事をして、心を推し量ろうと所詮は真似事でしかない」
シラハナはある時から竜という生き物に期待することを止めた。番に出会い心を得ても、それは虚構に過ぎない。好かれようと努力をしても一皮剥けば欲の化け物が顔を出す。猿真似と嘘に塗れた仮初めの心で、人の胸の内など見通せるはずも無い。それがシラハナの持論だ。
「さあ。今夜は仕事も手に付かないでしょうから、寝入ってしまいましょう。――ミズチ、灯りを落としてちょうだい」
シラハナの言葉に従い、ミズチが部屋の灯りを落とした。
一礼の後、竜王の居室を辞した二人は部屋の前で別れた。
寝静まった宮内をシラハナは灯りも持たずに進んでいく。朱色の瞳は暗闇を見通し、シラハナの道行きを助けた。
(竜こそは、この世で最も醜き獣。仮初めの心で番を捕らえて永遠を奪う)
けれども、あの青き竜ならば、己の信条を打ち壊してくれるのでは無いか。
そんな世迷い事を嘘つきで夢見がちのシラハナは我知らず願っていた。
「驚かれましたか、姫」
謁見の間での狂乱を除き、今まで竜王はアルヴィアに対し節度を持って接してきた。
一瞬の邂逅ではあったが、あの時竜王がアルヴィアに向けたのは紛れもない欲である。
「薬を止めるのは早すぎたかもしれませぬ。これでは仲を深めることもままなりませんな」
眉間に皺を寄せるタウメ。
(番というものを話では聞いておったが、ここまでか)
タウメから見れば頑是無くも愛らしい、幼い姫君だ。初潮こそ迎えられたが、成熟するまであと数年はかかるという見立てである。
その姫君を相手に、竜王は間違いなく欲情していた。
子供を相手に昂ぶる性情を持つ者がいることはタウメも理解していたが竜王はそのような性質を持ち合わせる男では無かった。
(心なき竜すらつくりかえるか)
タウメは生まれのために幼少より竜王に拝謁する機会は多く、わがままを叶えてもらった記憶がある。しかしそれはタウメ自身が望んだことのみで竜王が自ずからタウメを喜ばせようと動いたことは無い。
他者を慈しもうと特別の親愛を見せることは無い。それが竜王だった。
だがそれらはアルヴィアにとって与り知らぬこと。この数年初めて出会ったときのような狂乱を垣間見せてこなかっただけにその衝撃をタウメは推し量れなかった。
側に控えるタウメの視線を受けながらアルヴィアは静かに口を開いた。
「薬は、陛下の身体に良くないと聞きました。ですので、常服は今日限りにしましょう」
「姫……」
アルヴィアは落ち着き払っていた。凪いだ表情のまま、胸の内を明かしていく。
「驚きはしましたが、陛下の心があの日から変わっていないのだと実感し、安心しました」
その言葉にタウメは己を恥じた。見目が幼くとも彼女は一国の姫君。無垢の少女でいられた時などほんのわずかだ。
「……私には、陛下の仰る運命が分かりません。私を気に入られても、その気持ちが永遠に続くのかすら信じられない愚かものです」
人に運命は感じられない。亜人や竜が番だと言い張っても理解ができず、彼らの気持ちを拒んだことで不幸が起きることもままある。結びつきの永続性、番に対する献身。これらを受け入れることができず起こる悲劇は枚挙に暇が無い。
「既に陛下の気持ちには私にはなく、身ひとつでここに残ると言った私を哀れんで置いてくれているのではないかと悩みました」
妹のように慈しまれた日々はアルヴィアの竜王への親愛を育てるとともに彼女を不安にさせた。
竜王陛下は自分を恋する相手として不適格と見做してしまったのでは無いか。そんな考えがアルヴィアを苛んでいた。
「先日も雪を降らせてほしい、なんて稚児のような我が儘を言いました。……その日の晩は己が恥ずかしくなりました」
アルヴィアは生まれてから不自由を感じたことはない。身分による特権で教育が施され、芸術に親しみ、平凡な皇女として生きてきた。道理をわきまえ、あまやかされた商家の一粒種のような振る舞いをせぬように己を律してきたはずだった。
だというのに、アルヴィアは竜王に身勝手な望みを口にした。
「愚かでは無いつもりでしたが、所詮はつもりでした。私は、ただの童と変わりがありません」
群青の瞳を伏せながらアルヴィアは語り続ける。このまま部屋に帰すのも不安になったタウメは己の部屋にアルヴィアを転移させた。
「今日はもう眠りましょうぞ。夜に考え事をしても答えは出ぬと相場が決まっておるのです」
天蓋付きの寝台に横たえられれば、たちまちに眠気がアルヴィアを包む。
「……ねえ、タウメ」
「どうされましたか、姫」
掛布がアルヴィアの肩にまで引き上げられる。部屋の灯りも絞られ、輪郭も薄らとした中、アルヴィアはタウメに望みを口にした。
「薬を突然止めて、陛下とお話しできなくなるのは悲しいので、少しずつ……少しずつ……」
「ええ、ええ。心得ておりますよ。妾めが話を通しておきますからね」
慈母のようなタウメの笑顔に安心を得たアルヴィアは穏やかな眠りに落ちていく。いくら大人びた内面を持っていようとまだ十歳の子供だ。
姫君の息づかいで深い眠りに入ったことを察したタウメはひとつ、言葉を落とした。
「泣きませぬね、姫」
タウメがアルヴィアと変わらぬ身の丈だった頃は森を駆け回り転んでは泣き、気に入らぬことがあれば泣き、何が無くても泣いていた。
元より淑やかで大人びた風情の姫君ではあったが、本音を告げようと涙一つ流せぬ少女がタウメには労しかった。
「妾の勝手な願いではありますが、どうか心のままにお過ごしくださいませ」
どうか健やかに。どうかその心が誰かに手折られること無きように。
至心のキツネは一心に願いを込めた。
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