第3話
「ベルナルド兄様、わたしなら大丈夫。手なんて出されてないよ。レナート様は何も悪いことなんてしてない!」
「ルーチェは黙ってろ。なあ、レナート。お前はルーチェのことが好きなわけ? 結婚したいとか考えてんの?」
兄の畳みかける問いに、レナートが躊躇する表情を見せた。
「その気もないのに手を出そうとするなんて最低だな。もういい、ルーチェには二度と関わらせないから」
「待って、僕は」
「今日のことは忘れろ。ルーチェのことも二度と思い出すな。……ああ、こういうのもいらない」
ルーチェの髪から黒猫のヘアアクセサリーが外された。兄はそれをレナートに押しつける。
「帰るぞ、ルーチェ」
兄は強い口調で言って、ルーチェの手を引いて歩きだす。
嫌だと抵抗しようとしても、兄は手を離してくれない。ルーチェは涙目になりながらレナートを振り返る。
にじんだ視界に映った、黒猫獣人の彼の姿。
それはすぐに遠くなり、見えなくなってしまった。
*
兄に連れられて、ルーチェはしろくま子爵家に帰ってきた。
自室のベッドに寝転んで、ただひたすらにぐるぐると考え込む。
レナートは今頃どうしているだろうか。
(レナート様、怒ってないかな。悲しんでないかな。ベルナルド兄様の言う通り、今日のこと忘れちゃうのかな……)
そっと自分の髪に手をやる。
もうそこに黒猫のヘアアクセサリーはない。
(たった一日、一緒にいただけだもの。すぐに忘れちゃうよね)
鼻の奥がツンとする。
真夜中の静寂。
耳によみがえるのは、レナートの優しい声。
もうあの声を聞くことはできない。
会うことも許されない。
……でも、それでも、会いたい。
ルーチェは涙をこらえ、布団を頭からかぶった。
*
翌朝。
ルーチェは兄ときちんと話をしようと決意した。
このまま何もせず、あの一日を忘れることなんてルーチェにはできないから。
兄を探して屋敷の中を歩き回っていると、応接室から話し声が聞こえてきた。その話し声が兄のものだと気づき、ルーチェは勢いよく応接室の扉を開ける。
「ベルナルド兄様、ちょっとお話が……って、え?」
ルーチェは兄の向こうにいる人影を見て、はっと息を呑む。
黒髪に紅い瞳の黒猫獣人の青年が、そこにいた。
「レナート様……?」
「ルーチェちゃん!」
ルーチェの姿を認めたとたん、レナートのしっぽがぴんと立った。
レナートに対峙するように向かい合っていた兄が、不機嫌そうな顔で口を開く。
「レナートがどうしてもルーチェに伝えたいことがあるって言ってるけど。どうする、ルーチェ?」
「え、あ、聞きます! 聞きたいです!」
ここで少しでもためらったら、また兄の手によって引き離されるかもしれない。
ルーチェが急いでレナートのそばに駆け寄ると、レナートも同じことを考えたのか、ルーチェの手をさっと握ってきた。
そして彼は、紅い瞳に真剣な光を宿して告げる。
「ルーチェちゃんに関わるなって言われたけど、そんなの無理だ。だって、僕はルーチェちゃんのことが好きだから」
突然の告白。
握る手に力がこめられ、ルーチェの体にしゅるんとレナートの黒いしっぽが巻きついてくる。
「ルーチェちゃん。僕には君しかいないんだ。僕の……本物の、可愛い妻になってください」
一瞬、息が止まる。
胸の奥がぶわりと熱くなる。
ルーチェはこくこくと何度もうなずいた。
「はい! わたしもレナート様のことが大好きです。わたしを、本当の妻にしてください!」
「ルーチェちゃん……!」
レナートはくしゃりと笑って、ルーチェを優しく抱きしめてくれる。彼の腕の中は温かくて、なんだかレモンみたいな爽やかな香りがした。
離れたくなくて、レナートの服をぎゅっと掴んで彼の胸に顔をうずめる。
(ベルナルド兄様が何と言おうと、わたしはやっぱりレナート様と一緒にいたい……!)
ルーチェが心の中でそう叫んだ、その時。
それまで静かにしていた兄が「ぶふっ!」と突然吹き出した。
「……ベルナルド兄様?」
「いや、悪い悪い。あまりにも俺の思い通りに事が運んで、面白くてつい」
急に態度が変わった兄に、レナートとルーチェは揃ってきょとんとしてしまう。
兄はからからと明るく笑いながら語りはじめた。
「レナートとルーチェ、二人が結婚したらいいのになあって、ずっと思ってたんだよ。だから上手くいって本当によかった」
「え? でもベルナルド兄様、昨夜は……」
「ああ、あれな。あれはしろくま子爵家に伝わる『恋のおまじない』をやっただけ。まあ、おまじないといっても、ちゃんと心理学に基づいていて効果が期待できるやつだけどな。『シロクマ効果』っていうのを利用してるんだよ」
シロクマ効果というのは心理学の言葉で、あることについて考えてはいけないと思えば思うほど、かえってそのことを考えてしまう現象のことをいう。
シロクマのリバウンド効果、皮肉なリバウンド効果、皮肉過程理論とも呼ばれている。
つまり、「忘れないで」と言われるよりも「二度と思い出すな」と言われる方が強く記憶に残りやすい、ということ。
兄はレナートにルーチェのことを忘れさせたくはなかった。だから、あえてあんな言い方をしたのだ。
「まあ、それでもレナートが行動を起こすのに一ヶ月くらいはかかると思ってた。それなのに……まさか次の日には行動するなんて。しかも会ってすぐ求婚とか。もう、どんだけルーチェのことが好きなんだよ。くくっ、あまりのスピードに笑いが止まらない」
「ちょっとベルナルド兄様! もし本当にレナート様に忘れられちゃってたらどうするつもりだったの!」
「ん? レナートがルーチェを忘れるわけがないだろ。昨夜、レナートのしっぽの動きを見たし、それくらいは簡単にわかる」
「しっぽ?」
視線を下げると、ルーチェの体に巻きついた黒いしっぽが見えた。
兄は笑い声まじりで教えてくれる。
「レナートみたいな猫の獣人は、好きな相手にしっぽを巻きつけるものなんだよ」
ぱっと顔を上げてレナートを見ると、レナートは顔を赤くしてうなずいた。
ああ、本当なんだ。
そう思ったら、ルーチェの顔もぶわっと熱くなってくる。
真っ赤になって見つめ合うレナートとルーチェに、兄がまた盛大に吹き出した。
「まあ、あとは二人仲良くやってくれ。レナート、ルーチェのことよろしくな」
兄はひらりと軽く片手を振ると、応接室から出て行く。
レナートとルーチェはしばらくぽかんとした後、改めてぎこちなくお互いを見た。
「まさか僕のしっぽで気持ちがバレバレになってたなんて……さすがにそこは盲点だった。これ、たぶんモニカにもいろいろ気づかれてるよね。安心させてあげたかったのに、逆にがっかりさせたかも」
「大丈夫ですよ、きっと」
あの目力のすごい彼女のことだ。レナートとルーチェがこうなることまで見抜いていたのではないだろうか。
だって、彼女がルーチェを見る目はずっと温かかった。
ルーチェが言うと、レナートも笑ってうなずいてくれた。
「……あ、そうだ。ルーチェちゃんに、これを」
レナートがポケットから黒猫のヘアアクセサリーを取り出した。
それは昨夜、兄に外されてしまったもの。レナートはそれをもう一度、ルーチェの髪につけてくれる。
「うん、やっぱりよく似合ってる。すごく可愛い」
窓から差し込む柔らかな春の日差し。
レナートの紅い瞳が優しく細められて、二人の視線が絡む。
彼の手がヘアアクセサリーからルーチェの頬へと滑っていく。
とくん、と胸が鳴った。
耳の奥がじんとする。
頬がすごく熱い。
恥ずかしくてうつむきそうになったけれど、頬に添えられた彼の手はそれを許してくれなかった。
彼はルーチェの顔を少し上向かせると、そのまま唇を重ねてくる。
唇から伝わる彼の体温。
甘い熱。
「……っ!」
触れていたのは一瞬だけだったのに、どうしよう、ドキドキが止まらない。
レナートの黒いしっぽがルーチェの体を撫でるように巻きついてくる。
そうして、彼はルーチェの白いくま耳に口を寄せ、甘い声で囁いた。
「これからは演技じゃない本物の求愛行動をいっぱいするからね。大好きだよ、ルーチェちゃん」
このお話はこれで完結です。
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