第2話
レナートとルーチェが本当の夫婦でないことを、乳母モニカに絶対に悟られてはいけない。
緊張と恐怖に震えながら、昼食の時間を迎えた。
食堂のテーブルには柔らかそうなパンや、豚肉のトマト煮込み、キャベツとリンゴのサラダなど、おいしそうな料理が並んでいる。ふわりと漂ってくる香りに思わずうっとり。
ルーチェはレナートのすぐ隣の席に座り、目を輝かせて料理を見つめた。そんなルーチェに気付いて、レナートがふっと笑みをこぼす。
「食べようか。お腹すいたでしょ、ルーチェちゃん」
「……はい!」
和やかな食事の時間が始まると思ったその時、レナートとルーチェを見守っていたモニカがにこにこ笑顔で爆弾発言を放ってきた。
「あら、レナート坊ちゃん。求愛給餌はなさいませんの?」
「ぶふっ!」
危ない。柔らかく煮込まれたトマトが口から元気よく飛び出すところだった。
隣にいるレナートもなにやらゲホゲホと咳き込んでいる。
求愛給餌とは求愛行動のひとつで、男性が想いを寄せる女性に食べ物を与えることをいう。ずっと昔に鳥系の獣人が始めたことらしいのだけど、今では獣人全体に広がっていて、求愛行動といえばこれというほど有名なものになっている。
つまり、求愛給餌をするというのは「好きだ」「愛してる」と言っているようなものなのだ。
レナートとルーチェが揃って爆弾発言を放ったモニカへと目をやると、彼女もまたこちらを見ていた。
やっぱり、目力が、すごい。
レナートは深く息を吐くと、すっと顔を上げ、やけに爽やかな笑顔を浮かべた。優雅な手つきでサラダの中に入っているリンゴをフォークにさすと、ルーチェの口元へと持ってくる。
「ルーチェちゃん、口を開けて? ほら、あーん」
彼は今、捨て身の覚悟で求愛給餌に挑んでいる。その証拠に彼の手はわずかに震えている。
ここはルーチェも覚悟を決めなくてはいけないだろう。
演技、演技。これは演技。
ごくりと喉を鳴らし、おそるおそる口を開ける。
レナートの手によってリンゴが口の中に入れられた。なんかもう恥ずかしすぎて味なんかわからないんじゃないかと心配になったけれど、シャクと口の中で音が鳴った瞬間、リンゴの甘酸っぱさとハーブの爽やかな風味を感じてルーチェはぱあっと顔を輝かせる。
レナートはルーチェの明るい表情に気付いたとたん、黒いしっぽをぴんと立てた。
「ルーチェちゃん、これも食べてみる? おいしいよ」
なにが彼の琴線に触れたのかは謎だけど、レナートはすすんでルーチェに食べ物を与えはじめた。ルーチェもモニカが見ている以上断ることもできないので、大人しく食べさせてもらう。
(うわあ……なんか、本当に仲良し夫婦になったみたい……)
レナートがまた楽しそうにルーチェの口に食べ物を運んでくる。
うん、これはこれで、なんだか楽しくなってきた。
ルーチェはもうためらうことなく、満面の笑みで口を開けた。
*
昼食後、レナートはモニカに「仕事があるから」と告げ、ルーチェを連れて書斎に引きこもった。
モニカの目から解放された二人は、同時にほっと息を吐く。
「それにしても、モニカさんは本当にレナート様が結婚するのを望んでいたんですね。仲良し夫婦っぽいところを見せると、すごく嬉しそうな顔をしてくれますし」
「うん……僕が縁談を断られてばかりいるのを、モニカはよく知っているからね」
「え? 縁談を断られる……?」
「黒猫は不吉って言われるんだよ。僕は早くに両親をなくしてるし、それも印象がよくないって」
書き物机の上にある書類を手に取りつつ、レナートは少し曇った表情を見せる。
けれどすぐに気を取り直したように、ソファに座るルーチェに向かって微笑んできた。
「僕の妻のふりをするのさえ嫌だっていう女性も多かったよ。だから、ルーチェちゃんが今回のことを引き受けてくれた時、本当に嬉しかった。一日限定だけど、こうやって結婚した気分を味わえるのもすごく嬉しい。……これも全部ルーチェちゃんのおかげだね。ありがとう」
優しくて温かなその声音に、ルーチェの胸が小さくぎゅっと締めつけられた。
ルーチェもしろくま獣人であるがゆえに「野蛮」とか「獰猛」とか言われて、異性に相手にしてもらえないことが多い。何の苦労もせずに愛されるうさぎ獣人やりす獣人の女の子たちがうらやましくてたまらないと、何度も何度も思ってきた。
(レナート様もわたしも、動物のイメージで振り回されてきたんだ……)
きっと辛い思いをたくさんしてきただろうに、それでも優しく笑うレナート。
彼の力に少しでもなってあげたいという思いがわきあがる。
「レナート様。何かしてほしいことがあったら遠慮なく言ってくださいね。……ほら、今日のわたしはレナート様の妻、ですから!」
ルーチェがぐっと拳を握ってそう言うと、レナートは一瞬目を丸くした。
でも次の瞬間には、嬉しそうにくしゃりと笑ってくれたのだった。
*
夕食の時も、当然のようにレナートは求愛給餌をしてくれた。
ルーチェもレナートに食べさせてもらうことにすっかり慣れて、モニカとの会話もずいぶん弾んだ。
レナートが幼かった頃の可愛らしいエピソード。
モニカのワイルドな田舎暮らしの話。
楽しい話題にルーチェもいっぱい笑った。
二十時。
とうとうモニカが屋敷をあとにする時がやってきた。
星空の下、夜の庭園を歩きながら、モニカはレナートとルーチェに語りかけてくる。
「レナート坊ちゃんのそばにルーチェ様みたいな方がいてくださるとわかって、本当に安心しましたわ。ルーチェ様、これからもレナート坊ちゃんのことをよろしくお願いしますね。……そして、レナート坊ちゃん。あなたはルーチェ様に愛想を尽かされないように頑張ること!」
モニカの目力は、やっぱり、すごい。
レナートとルーチェは揃ってこくこくとうなずいてみせた。
モニカはその様子を見て微笑み、別れの挨拶を述べると、くるりと背を向けて去っていく。
「……行っちゃいましたね」
「うん」
モニカの後ろ姿が見えなくなり、ほんの少ししんみりとした空気になる。
けれど、その空気を吹き飛ばすようにレナートが明るい声を出した。
「ルーチェちゃん、今日は本当にありがとう。助かったよ。お礼に今度何かおいしいものでもごちそうするね。食べたいものとかある?」
「え? ……あ、じゃあおいしいケーキとか?」
「あはは、わかった。ケーキがおいしいお店を探しておくね。一緒に食べに行こう」
ひんやりとした春の夜風が、レナートとルーチェの髪を揺らす。
庭園の木々がさわさわと葉をこする音を立てた。
「……ルーチェちゃん」
レナートの手が、ルーチェのヘアアクセサリーへと伸ばされる。
黒猫のヘアアクセサリー。レナートの恋人がつけるはずのもの。
ルーチェははっとして、慌ててヘアアクセサリーを外そうとした。
けれど、その手がレナートに止められる。
思わず身を固くすると、レナートの黒いしっぽがルーチェの体にしゅるんと巻きついてきた。
「レナート、様……?」
巻きついているしっぽがくすぐったい。
レナートを見上げると、彼は紅い瞳を細めてルーチェを見つめていた。
ヘアアクセサリーに触れていたはずの彼の手が、ルーチェの頬にそっと添えられる。
レナートの顔が近付いてきて、星空が見えなくなった。
唇に柔らかい吐息がかかる。
あ、触れる……と思った、その時。
横から地を這うような低い声が飛んできた。
「何やってんだよ、二人とも」
レナートとルーチェは瞬時に離れ、声が聞こえてきた方向を同時に見る。
そこには腕を組み、据わった目でこちらを見ている兄がいた。
「レナート、なんで俺の妹に手を出そうとしてるわけ? 俺はそういうの許可した覚えはないんだけど」
「……あ、これは、その、流れ? というか」
「はあ?」
夜の庭園、淡い明かりに照らされた兄の顔が恐い。しろくま獣人らしい大きな体で威圧してくるその姿には、妹のルーチェでさえも震えあがってしまう。
兄はどかどかと大きな足音を立てて近付いてくると、ルーチェを抱き寄せてレナートから遠ざけた。
「お前、ルーチェには妻のふりをさせるだけって言ってたよな? 手を出すことはないって。その言葉を信じてたから、お前をルーチェに会わせたっていうのに」
兄は基本朗らかで、めったに怒ったりはしない。けれど、怒る時は本気で怒る。
今の兄の怒りは本気のものだと察したルーチェは冷や汗をかいた。