第1話
ぽかぽかと温かな春の日差しが心地よい、ある晴れた日のこと。
しろくま獣人の子爵令嬢ルーチェは、子爵家の応接室で、こてんと首をかしげていた。
「この方とわたしが、仲良し夫婦のふりを……?」
しろくま獣人の青年がその問いにうなずく。この青年はルーチェの兄ベルナルド。彼は自分が座っているソファの隣をぽんぽんと叩いて、ルーチェをそこに座らせる。
「ルーチェ。気が進まないとは思うけど、ここは協力してやってくれないか?」
「え、でも……」
ルーチェはちらりとテーブルを挟んだ向かい側に座る青年の様子をうかがう。
黒猫の耳としっぽを持つその青年は、兄の友人レナート。黒猫獣人の若き伯爵様だ。
レナートは深刻な面持ちでルーチェを見つめながら、真剣な声で言う。
「初対面で頼むようなことじゃないのはわかってる。でも、一日だけでいいから、僕の妻を演じてくれないかな……? こんなことを頼めるのは、もうルーチェちゃんしかいないんだよ。他の女性には断られてるし」
レナートが一日限定でルーチェと仲良し夫婦のふりをしたい理由。
それは、久しぶりに会う彼の乳母を安心させたいからなのだそうだ。
幼い頃に両親をなくしたレナートはその乳母に育てられた。愛情いっぱいに育ててくれた彼女のことをレナートも本当の母親のように慕い、大切に思っているという。そんな彼女はレナートが成人したのを機に役目を終え、今は田舎で暮らしている。
とはいえ、縁が切れたわけではない。レナートのことはまだまだ心配なようで、よく手紙を送ってくるらしい。最近は「結婚はまだ?」としつこいのだそうだ。
レナートは二十四歳。そろそろ結婚をしないといけない年齢だとわかってはいるけれど、手紙で毎回そのことについて聞かれるとさすがにうんざりしてくる。
だからつい、手紙に噓を書いてしまった。
実はもう結婚していて、可愛い妻と幸せに暮らしている、と。
すると彼女は大喜びして『会いに行くわ!』と言い出した。
さあ大変。なんとかしてごまかさないと。
「でも、妻を演じるのにぴったりの子はなかなか見つからなかった。年齢的に釣り合う女性はもう結婚してるか、婚約者や恋人がいるか……好きな人が既にいる。そうじゃない子がいても僕の妻を演じるのはちょっと、って断られた」
「なるほど、それでわたしに……」
レナートの言葉にルーチェは納得してしまった。
ルーチェは十九歳でレナートと年齢的にも釣り合う。独身だし、婚約者も恋人もいないし、好きな人も当然いない。
「あ、でもわたしはしろくま獣人ですよ? 『可愛い妻』という条件からは外れてます」
「何言ってるの、ルーチェちゃんは可愛いよ! 白くて丸っこいくま耳も、ローズピンクのくるくるした髪も、きらめくオレンジの瞳も、全部可愛い!」
「えっ」
可愛い、なんて異性から言われたのは初めてだ。愛らしいうさぎ獣人やりす獣人の女の子ならまだしも、しろくま獣人のルーチェにそう言ってくれる人がいるなんて。
ルーチェの頬がぽっと熱くなる。
レナートは立ち上がるとルーチェのすぐそばまでやってきて、まるで王子様みたいにひざまずいた。
ルーチェの手を取り、真剣な顔で告げてくる。
「ルーチェちゃん。僕には君しかいないんだ。僕の可愛い妻になってください」
どきん、と心臓が跳ねた。口からは「ふひゃあ」と気の抜けたような声が漏れてしまう。
そんなルーチェを見て、隣にいた兄が弾けるように笑い出した。
「ルーチェ、レナートの頼みを聞いてやれよ。うなずくまでレナートはあきらめないと思うぞ?」
「えええっ!」
レナートへと目を向けると、レナートはにっこりと笑っていた。
ああ、これは断れないやつだ。
ルーチェはぷるぷる震えながらも、覚悟を決めてうなずいた。
「わかりました! わたし、レナート様の可愛い妻、演じてみます!」
*
数日後、約束の日。
まだ少し寒さを感じる早朝、ルーチェは兄に連れられて黒猫伯爵邸へとやってきた。
朝露できらめくデイジーの花が咲く庭園。綺麗に整えられたトピアリーの先に、瀟洒な屋敷の姿が見えた。
レナートがルーチェたちを出迎えるために屋敷から出てくる。
「ベルナルド、ルーチェちゃん。おはよう、待ってたよ」
朝の光の中で見るレナートは、また一段とかっこよかった。黒くてさらっとした髪に宝石みたいに紅い瞳。黒い猫耳と黒いしっぽはなんだか上品で、凛として見える。
黒を基調とした上着も、胸元を飾る深紅のクラバットも、背が高くすらっとした彼にはよく似合っていた。
その彼が目の前まで来た時、ルーチェは兄に背中をぽんと押された。
「じゃあなルーチェ。頑張れよ。また夜に迎えに来てやるから」
「う、うん。ベルナルド兄様、ここまで送ってくれてありがとう」
兄はレナートとも挨拶を交わすと、軽やかな足取りで帰っていく。
その後ろ姿を見送った後、ルーチェは改めてレナートをおずおずと見上げた。
「あ、あの、レナート様。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね、ルーチェちゃん。さあ、屋敷に入ろうか」
レナートはルーチェを屋敷へと案内しながら、今日の予定を話しはじめる。
「乳母のモニカが来るのは十時頃。昼食と夕食を一緒に食べることになってる。夕食後、二十時くらいに街の宿に向かうためにここを出るって聞いてるから、それまでは仲良し夫婦を演じることになると思う」
「うう……長いですね。上手く演じられるか心配になってきました……」
「大丈夫、何かあってもフォローするから。あ、そうだ、これをあげるね」
そう言ってレナートがポケットから取り出したのは、可愛らしいヘアアクセサリーだった。黒猫の形をした小さな飾りがついている。
ルーチェはそれを見て、目を瞬かせてしまう。
自分の動物がデザインされた小物を異性に贈るという行為は、獣人の求愛行動のひとつ。
つまり、これは「好きだ」「愛してる」と言っているようなものなのだ。
「レナート様、こういうのは好きな人に贈るものですよ?」
「知ってるよ。だからルーチェちゃんにあげるんだ。僕の可愛い妻なんだから」
二つに結ったルーチェのくるくる髪の結び目のところに、レナートがヘアアクセサリーをつけてくれる。彼の指先の動きがなんだかすごくくすぐったい。
「……うん、よく似合ってる。すごく可愛い」
レナートがまぶしいものを見るかのように、目を細めて笑った。
なんかこれ、既に仲良し夫婦っぽくないだろうか。まだ演技する必要はないはずなのに。
ああ、もう頬が熱い。
ルーチェはぷるぷる震えながらうつむくことしかできなかった。
*
十時。
予定通り、乳母モニカと対面することになった。
牛獣人だという彼女はとても大柄で、なんというか、ただそこにいるだけなのに威圧感がある。まつげがバサバサで瞳も大きく、目力がすごい。
「まあまあ、レナート坊ちゃんったら、こんなに可愛らしいお嫁さんをもらっていたなんて。もっと早く知りたかったですわ!」
モニカは客室のソファに腰掛けて、向かい側にいるレナートとルーチェをじっと見つめてくる。
ああ、やっぱり目力がすごい。
思わずレナートの服をぎゅっと掴むと、彼女に目ざとく反応された。
「あらあら、お二人は本当に仲が良いのですわね。あまりにも急な話でしたし、レナート坊ちゃんは結婚したなんて嘘をついているんじゃないかしら、って少し疑ってましたのよ。でも安心しましたわ。もし嘘だったら、たっぷりお叱りしなくてはと思ってましたもの……」
モニカの、目力が、すごい。
ちらりとレナートを見上げると、レナートの顔が真っ青になっていた。黒いしっぽも足の間に巻き込んでしまっている。
ルーチェは瞬時に悟った。
(あ、これは絶対バレたらダメなやつだ……!)