14
ああ見えて人妻さんは物凄く重い過去があります。
「……タクロウ、さん」
「それは君の恋人の名前か?」
「……」
「……そうか」
アトリはタクロウの名前を呼び続ける。
泣き叫ぶこともなく、助けを求めることもなく、ただただその名前だけを繰り返し言い続けた。
「タクロウ、さん……」
「すまないが、そろそろ静かにしてくれないか?」
「……」
「それでいい。残念だが、君の恋人にはもう会えないよ」
「……タクロウさん」
「……」
タクロウの名を呼ぶアトリを見ている内に動物屋の胸中に不快感が込み上がる。
「タクロウ、さ」
「静かにしろ、口を塞ぐぞ」
「……」
こんな状況に陥れば愛する人に助けを求めるのも無理はない……ましてや彼女はまだ未成年だ。
大人びているように見えても、心の中はまだ子供らしい脆さが残っている。
「……ごめんなさい、あなた」
しかし彼女は助けを求めない、もう既に諦めてしまっているのだ。
彼の名を呼ぶのはもう二度と会えないであろう夫の温もりを忘れないように必死に噛み締めているだけだ。
「……ごめん、なさい」
「……」
「貴方との、約束。守れそうに、ありません……」
アトリは静かに涙を流す。そんな彼女の姿が動物屋にとって我慢ならないものだった。
「やめてくれないか、そういうの。苦手なんだ」
「……」
「世の中には自分ではどうにもない事の一つや二つはあるんだ。お前だけが不幸なわけじゃない。偶々、お前の番が回ってきただけなんだよ」
「……」
「それにお前はまだマシだ。愛する者が同じ世界に居るんだからな」
動物屋はエイトと違ってあまり商品に話しかけない。
元々物静かな性格なのだが、必要以上に接触すると商品に同情してしまうからだ。
「お前はまだ、本当に不幸とは言えない。まだまだマシな方さ……」
彼はこんな仕事を長く続けていながら、人並みの良心を捨てきれていない中途半端な男だった。
「……ふふ、ふふふ……偶々、ですか……」
「……?」
「ふふふ……」
ここでアトリはようやく彼の名以外の言葉を口にした。
「そんなことないですよ……こうなるのは、初めてじゃありません」
「……」
「……今日で三度目です。誰かに攫われて、誰かに売られるのは……」
「……!」
「ふふふ、それでも……私は不幸じゃない、と言ってくれるんですね」
先程までのか細く弱々しい声から一変、アトリは何かを振り切ったかのような落ち着いた声色になる。
「……ありがとう、貴方は優しい人ですね」
そして女神のような笑みを浮かべ、アトリは動物屋にお礼を言った。
「……今の言葉の何処に優しさがあるんだ?」
「貴方のお陰で、こんな私でもお祈りする勇気が持てました……」
「?」
「あの時のような奇跡が、もう一度起こりますように」
◇◇◇◇
「……」
「……」
老執事の車に乗せられたスコットは特大の罪悪感と無力感に苛まれて俯いていた。
「……俺を、軽蔑しますか?」
無言で運転する老執事に消え入るような声で言う。
「正直に言ってもよろしいのですかな?」
そんなスコットの言葉に顔色一つ変えずピシャリと言い返した。
「……俺は、その」
「いやいや、勘違いなさらぬよう。私は別に怒っておりませんし、貴方を責めるつもりもございません」
「お、俺は……!」
「私は貴方の父親でも無ければ友人でも御座いませんので、貴方を叱りつける義務も必要もありませんからな」
老執事の言葉がスコットにグサリと突き刺さった。
「……」
「ですので、私は貴方に期待しかしておりません」
「……マジですか」
「ええ、期待しておりますよ?」
ここでようやく老執事はスコットの方を向き……
「貴方がこの失態を挽回し、お嬢様達を華麗に救い出す大活躍をしてくれるのをね」
口元だけを小さく裂かせた不気味な笑みで、嫌味全開の台詞を吐いた。
「……!」
「私にもお嬢様の執事でありながら彼女達を貴方に任せてしまったという落ち度がございますしな。貴方を責めることなどできません。完全に私の判断ミスです」
老執事の言葉がスコットに重く突き刺さる。
「……うぐっ!」
「貴方に宿る悪魔も不意打ちに弱いようですしな、いやいやこれも盲点でした。ひょっとすると悪魔もお嬢様に見惚れてしまっていたのかもしれませんが、悪魔も反応できない程に相手が手練だったという事もあるでしょう」
「……ぐふぅっ!」
「まぁ、この街にはああいった手合いも珍しくありませんので。まだまだスコット様には荷が重い役目だったのでしょうね」
「ぐぼあっ!!」
意図しているのかは不明だが執事の台詞にはスコットにダメージを与えるフレーズがふんだんに含まれており、ついに彼は吐血してしまった。
「まぁ、ご心配なく。新人の失敗をフォローするのもファミリーの大事な役目ですから。そこまで気負わずに参りましょう。攫われたお二人は既に経験済みで御座いますので」
「……え? 何ですって?」
「失礼、これからあるお方に連絡を取りますので。お静かにお願い致します」
「……何ですって!?」
「お静かにお願い致します」
「執事さぁぁぁん!?」
「お静かに」
攫われるのは初めてではない、もしくは花を散らすのが初めてではない。
そのどちらとも取れる意味深な言葉にスコットは滝のような汗をかきながら突っかかった。
ちなみに魔女さんにはもっと重い過去があります。