32
色々あって遅れましたが、紅茶の加護で蘇りました。
そんなものは、とうに忘れた。
それはまだ人であった頃に。まだ誰かを愛せた頃に。
朧気な輪郭でしか思い出せないあの男がまだ生きていた頃に忘れてしまったはずだった。
だが、忘れてしまった筈のそれは 唐突に。けれど、確かに彼女の身体を駆け巡った……
「……あっ、が……!?」
「何だ、そんな顔も出来たのか」
「……何、が!?」
「別に。穴が空いただけだ、空っぽなお前の腹にな」
────それは、痛み。
インレが最も憎み、嫌い、そして恐れたものだった。
「有り得ないっ! 今の私に、そんなものはないわ!」
インレは片腕を剣に変え、スコットに反撃しようとする。
「だろうよ!」
しかしスコットが腕を引き抜く方が速かった。スコットの言う通り、インレの腹にはポッカリと空虚な穴が開いて血飛沫が舞う。彼女の血を顔面に浴びても怯みもせず、スコットはもう一発パンチを食らわせた。
「────ッ!?」
まるで紙人形のようにインレは殴り飛ばされる。叫び声をあげる口ごと顔を潰され、声にもならない呻きを上げながら彼女は地面に叩きつけられた。
「痛みは生きてる奴の特権だ。死ねもしない、生きてる奴の真似をしてるだけのお前にそんなものがあるわけないよな」
拳についた血を振り払ってスコットは皮肉げに言う。
実際、かつての彼の攻撃はインレに殆ど通じなかった。どれだけ殴ろうが、潰そうが、彼女のダメージにはなり得なかった。
「だから、下手な芝居はやめろよ。俺の攻撃なんて効いてない癖に」
その事を忘れたりはしない。だから、スコットはうんざりしたように言い放つ。
「……お前の、攻撃……なんか……!」
だが、不可解な事が起きていた。
どれだけ攻撃を浴びても即座に復帰したインレが、たった二発の打撃で蹌踉めいているのだ。
(……どうなっているの? これは、何?)
その事実にインレ自身が驚いていた。
(あの男の攻撃が私に通じるはずがない。第一、あの男には魂魄体封殺呪文が宿ってないはず。そもそも私に攻撃が当たるわけないのよ……)
後からやってきたスコットはドロシーの唱えた魂狩の金印が適用されていない。
だから、彼の攻撃はインレにダメージを与える以前に当たる筈もないのだ。
(有り得ない、こんなこと……有り得ない! いくら、あの男がブルーだからって……!!)
インレは長い髪をざわざわ逆立て、殺意の籠もった目でスコットを睨みつける。
「私の世界で生まれたお前の攻撃が!」
「私に届くはずがないのよ」
先に吹き飛ばされた二人のインレがスコットに襲いかかる。片方は白い槍を構え、もう片方は白い両刃剣を握り締めて。左右から同時にスコットを攻撃。
「そうかもな!」
スコットはまず突き出された槍を自らの腕で掴んで受け止め、手ぶらになった悪魔の腕で剣を握るインレを掴んで捕獲する。
「!」
「でも、それがお前らを殴らない理由になるのかよ!?」
「何、をっ!?」
そのまま槍を持つインレを自分の方に引き寄せ、頭突きを一発。予想外の一撃で怯んだ彼女の頭上から悪魔の腕で捕らえたもう一人を叩きつけた。
「あっ!?」
「ちょっと、油断しないで 私」
剣を握ったインレが怯んだ槍持ちインレに苦言を呈した直後、悪魔の拳が二人を殴り潰す。羽虫のように。
「油断できる余裕があるなんて、羨ましいな! お二人さん!!」
「……!」
「────ッ!」
「俺には、そんな余裕なんてないからな! 殴れる内に! 殴らせて貰うぞっ!!」
スコットは決して攻撃の手を緩めなかった。
ドロシーに瓜二つの天使が悲鳴を上げても、その華奢な身体が何度もひしゃげても、決して振り下ろす腕を止めなかった。
「そんな攻撃が! 私達に効くわけないでしょう!!」
先に回復したインレが痺れを切らして激昂する。両腕を白銀の剣に変えて一気に距離を詰め、スコットの首を落とそうと剣を振るう。
「ははっ! だろうな!!」
流石にスコットも拳を止めて防御を選択。首を庇うように両腕でガードし、その上から更に悪魔の腕を重ねて防御を固める。しかしインレの刃はすれ違い様に悪魔の腕ごとスコットの腕を横一閃に裂いた。
「いってぇ……! くそっ、派手に切られちまった。やっぱ本気で来られると敵わないか」
「……何処までも不快な男ね。やはりお前にブルーは相応しくないわ」
「そう言って貰えると助かるよ、お前に好かれても嬉しくないからな」
両腕を深く切り裂かれてスコットは顔を歪める。
だが、彼は不敵な態度を崩さない。両腕を負傷したがそれだけだ。悪魔の腕も痛そうな素振りは見せるが、その闘志は微塵も揺るがない。
「仕切り直しね。これからお前を嬲り殺しにするけれど、セオドーラに言い残す事はある?」
「は? ねぇよ、そんなもん。あったとしてもお前には言わないね」
「……まぁいいわ。次も避けられると思わないことね、私は三人でお前は一人。一片の容赦も慈悲もなくお前を引き裂くわ……ここでお前は死ぬの。そして、今度こそ私のブルーとして生まれ変わるのよ」
インレは剣先をスコットに向けて宣告する。
(……おかしい)
だが、ここでインレは違和感を覚えた。
「そいつは嬉しいね。あの世で待ってる女が居るんだ、願ったり叶ったりだ」
「……」
「それと、俺の名前はスコットだ」
スコットは皮肉げに言い放つ。その言葉は挑発のつもりだが、同時に叶えたい願いでもあった。
インレはその願いを叶えることが容易く出来る。このまま三人で一斉に攻撃すれば良いのだから。何ならこのまま斬りかかればいい。スコットの命は既に彼女の手中にあった。
だからこそ、彼女は別の事が気掛かりで仕方なかった。
(……何故、私達は起き上がらないの?)
スコットに潰された二人のインレの再生がまだ完了していないのだ。
「ぐ……この、人間如きが……ッ!」
「おかしいわ、おかしいわね。身体が……」
「どうしたの、私達。早く再生して立ちなさい。この男を殺すわよ」
「言われ、なくても……!」
槍を支えにして二人目のインレが立ち上がる。が、片腕と片足はまだ再生途中で目の焦点すら合っていない。
「……」
「お前ごときの攻撃が、私達にっ!?」
スコットは無言で彼女の額を小突く。すると、そのまま崩れ落ちてしまった。
「……!?」
「……重いわ、私。何を、しているの……?」
「何をっ、何も! 私がっ!?」
「おいおい、何の冗談だ」
血のプールでインレ達がばしゃばしゃと藻掻く。スコットはその様子に首を傾げ、此方に剣を向けるインレの方に目をやる。
「何を、何を、しているの!?」
だが、その理解し難い光景に困惑していたのは 他でもない彼女の方だった。
「この男の攻撃が! 私達に効く筈がないのよ!?」
スコットの攻撃など効くはずがない。
ドロシーが持つウヴリの宝杖でしかインレを倒せない。
ドロシーでなければ、インレは倒せない。
それが彼女の、彼女達の世界の常識────……
「こんな男にっ!」
「なるほど、そうか。つまり、こういうことか」
だが、そんな世界の常識は呆気なく崩れ去った。
痺れを切らした悪魔の一撃で、またしても天使は宙を舞う。
「今の俺なら、社長の代わりにお前をブチのめせるみたいだな??」
吹き飛ぶインレを見て確かな手応えを感じたスコットは、まるで悪魔のような笑みを浮かべた……
「ど、どうして……? どうして、インレと戦えるの……?」
インレを圧倒するスコットの姿にドロシーは呆然としていた。
あの時のスコットの攻撃は通じなかった。
何故ならあの時は自分がやらなければと思っていたから。
だが、今はあの時とは違うところがあった。
ドロシーは助けを求めたのだ。
生まれて初めて自分の代わりに戦って、自分の代わりにインレを倒して……と。
彼女達の世界の常識を塗り替えるには、たったそれだけで十分だった。
「僕は、あっ……」
ドロシーはここで杖を握っていた右手が軽くなった事に気づいた。
先程まではあれほど重苦しく伸し掛かっていたのに。今はまるで羽のように軽い。不自然に思った彼女が目をやると、右手に握られていたウヴリの宝杖が光になって消えていく。それに呼応するように、腕の紋章が消えてドロシーの天使化も解除された。
「嘘……っ、そんな……」
光となった杖はキラキラと尾を引きながら、スコットの腕に宿る。そして彼の背中に生えた悪魔の腕にドロシーに宿っていた筈の金の紋章が刻まれていく……
「そんな、そんな事……ッ‼」
そして右手に残された小さな杖を見て、ドロシーは思わず口を覆った。
『Scott Orland』
-スコット・オーランド-
『A.A.2009/3/16 ~ XX/XX』
-誓暦2009年 3月16日 ~ XX月XX日-
夢見がちな彼女が、夢なら覚めて欲しいと願ったのも それが初めてのことだった。
紅茶は偉大です。




