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ようやく諦められた。そう思っていた。
インレとの戦いはつまりそういうことだ。彼女を倒す代償として今の自分は終わり、次の自分に明日を託す。ずっとそうしてきた。それがその少女に与えられた役割だから。
だから、むしろ諦められて良かったのだ。
このまま彼が帰って来なければこれ以上苦しまずに済む。彼への想いと、思い出を抱えたまま、彼と別れることが出来る。やっと、やっと楽になれる。そう思っていた。
それなのに……
「どうして……!」
どうしてこんな酷いことをするの?
少女は思った。心の底からそう感じた。
やっと全てを諦められたというタイミングで、どうしてこんなことが起きてしまうのか。もはやこれは奇跡などではなく悪夢だ。こんなものを奇跡だなどと呼んでたまるか。
「どうしてよ……!!」
もう会えないと思っていた想い人が、この街に帰ってきた。
それも滅びを告げる天使が降りたったその日に。
自分の手が家族の血で汚れてしまう前に。
最悪のタイミングで引き起こされた悪夢に彼女は感情を爆発させた。ゴミのように吹き飛んでいく宿敵の姿など既に眼中に無く、彼女は暴走した感情に突き動かされるように彼のもとに向かう。
「――――――ッ!!」
そして声にもならない叫びを上げながら、想い人の背中に抱き着いた。
「おわぁっ! な、何だ!? 背中に誰か……」
「ああああああっ……」
「……」
「ああああああああん!」
その少女、ドロシーはようやく出会えた想い人の背中で子供のように泣きじゃくった。
「うあああああああああん!」
こんなことをしている場合では無い。それは彼女が一番理解している。
それなのに身体が言うことを聞いてくれない。瞳からは涙が止めどなく溢れ、口は絶えず叫び続け、その手は彼を放さない。右手から零れ落ちた切り札を拾い直す余裕もなく、ただひたすら泣き喚いた。
「……社長」
背中で泣いているのは誰か。それは振り向かなくともスコットにはわかっていた。
「ううっ、ううううううっ!」
「……すみません、遅れました。すみません」
「ううう、うあああっ……! ああああ……!」
「……すみません」
スコットは周囲を見回した後、ドロシーの腕にそっと触れる。
どんな気持ちで自分の帰りを待っていたのか。仲間達が倒れていく中、どんな想いであの化け物と戦っていたのか。今この瞬間まで、どれだけ自分の気持ちを押し殺していたのか。彼にはその数千分の一も理解できないだろう。
いつだってそうだ。スコットにドロシーの気持ちなどわからない。
彼にはそのつもりがなかったし、彼女も好意こそ示すものの肝心な事はいつも胸にしまっていた。だからどれだけスコットが今のドロシーの気持ちを推し量ろうとしても、今更その全てを理解してあげることなど出来ないのだ。
「……だから、もういいです。社長」
スコットに出来ることがあるとすれば、たった一つだけ。
「後は……俺がやります」
ただその瞳に憤怒を宿し、彼女達を苦しめ続ける怪物を叩き潰すことだけだ。
「後は俺が? 何をするの?」
大きく窪んだ地面に出来た赤い水溜まりの中からインレがゆっくりと起き上がる。潰された顔面は既に再生し、スコットの一撃は彼女の機嫌を大きく損ねただけだ。
「お前に、何が出来るというの??」
インレは背中から白い巨腕を生やし、心臓を射殺すかのような冷たく鋭い声色で言う。
「……殺す」
「誰を?」
スコットは悪魔の腕で抱き着くドロシーを引き離し、自分の隣にストンと降ろすと
「勿論、お前を」
片目の炎を更に燃え滾らせ、インレの問いかけに堂々と吐き捨てた。
「……だ、駄目、スコット君。君じゃ……」
スコットではインレに勝てない。
以前、彼と共にインレと戦ったドロシーにはわかっている。どれだけ彼がインレへの怒りを爆発させようと、彼の拳はインレを砕けない。ドロシーは再びインレに立ち向かおうと、ぐっと涙を拭って地面に落ちていた杖を拾う。
「……」
インレを倒せる唯一の切り札、ウヴリの宝杖をその手に握っているのに 何故かドロシーは立ち上がれなかった。
(……あれ? どうしたの? 戦わなきゃ。僕がインレを倒さないと。このままじゃスコット君が殺されちゃう……)
(僕が、この杖で、インレを……)
この杖でなければインレは滅ぼせない。この杖を扱える自分でなければインレを倒せない。それなのにドロシーの足には力が入らず、魔力も上手く練りだせない。頭にインレとの壮絶な戦いがフラッシュバックし、自然と身体がカタカタと震えだす。
(……どうして……)
不意に浮かんでしまった言葉。
今まで決して言えず、言えるはずもなかった言葉がドロシーの胸中を駆け巡る。言ってはいけない。もし言ってしまえば、その先に待ち受けるのは果てしない後悔だ。彼女は永遠に自分を呪うことになるだろう。
ドロシーは堪えた。喉元まで迫ったこの言葉だけは口に出してはいけない。この言葉を言えばきっと……
「……スコット、君……」
だが、必死の抵抗も虚しく その言葉は彼女の口から漏れ出してしまった。
「……助けて」
その時、ドロシーは生まれて初めて誰かに助けを求めた。
「……ッ!」
ドロシーは咄嗟に口を抑え、目を瞑りながら祈った。どうか彼に届きませんようにと。
「はい、社長」
しかし、彼女の言葉はもう彼に届いてしまっていた。スコットはドロシーの頭を優しく撫でると、拳を振り上げながらインレに突撃した。
「……ま、待って! 今のは……違うの! 違うんだってばぁ!!」
すぐにドロシーは呼び止めるが、スコットは止まらない。インレは彼我との実力差を知りながら無謀にも挑みかかってくるスコットに侮蔑の眼差しを向ける。そして、その頭上からはスコットが殴り飛ばした二人のインレが迫ってきていた。
「やめて……やめて、その人はっ、その人だけは……殺さないで!」
スコットの死を直感し、ドロシーは思わず宿敵に懇願する。
もはや魔法も使えない彼女に出来ることはそれだけだった。当然、ドロシーの願いはインレ達に届く筈もなく、彼女達は一斉にスコットを攻撃した。
「やめっ────」
「三人に増えたから、何だってんだよぉぉぉぉぉっ!!」
スコットは拳を突き出す。ドロシー達を傷つけた憎き怪物に向かって。背中から現れた青い悪魔の腕もそれに応えるように拳に炎を纏わせて勢いよく振り抜いた。
「馬鹿な男。お前の力で私が倒せるなら」
「ふふ、セオドーラは苦労しないのよ」
「もういいわ、お前はここで死になさい」
────パキィンッ
「「「……え???」」」
一切の容赦のない集中攻撃。一人目のインレが放った巨腕による殴打、二人目のインレが放った白い槍、三人目のインレが放った斬撃。そのどれもがスコットを殺し切る威力があった。それを同時に受けた以上、彼の死は逃れられない筈だった。
その悪魔を殺し切る攻撃は、悪魔の拳一発で呆気なく粉砕された。
「あら、ら?」
「どういう……」
悪魔の腕は動きが止まった二人目と三人目のインレを捕縛し、そのまま地面に叩きつけた後に思い切り投げ飛ばす。インレ達は頭上に疑問符を浮かべたまま民家を突き破り、同じように呆気にとられていた一人目のインレにはスコットの強烈な頭突きが叩き込まれる。
「……なっ!?」
「お前がどれだけ化け物かってのはなぁ……嫌って言うほどわからされてるんだよ!」
「今のは……!?」
「だが、それがどうした!!」
頭突きで怯んだインレの胸ぐらを掴み、スコットは拳にありったけの力を込める
「……! 無駄よ、お前の攻撃は私に通じ」
「俺の社長を泣かせてっ! 生きて帰れると思うなよ、このクソビッチがぁぁぁぁぁぁ────ッ!!」
そして幾重ものガードを貫通し、その腹を突き破る程の強烈なパンチをインレを食らわせた。
「────ッ!!?」
その瞬間、初めてインレの顔が大きく歪んだ。
永遠に知るはずのない【苦痛】の表情へと。
言えたじゃねえか・・・