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「なっ!?」
背後の不気味な影に気づいてアルマは飛び退く。
〈くくふふふっ〉
「な、何だァ、コイツは!?」
「知らん。それに……何だ、この匂いは」
くすくすと笑う赤黒い影からは鼻を突く異臭がする。まるで血と内臓を極限まで煮詰めたかのような強烈な匂いに、ブリジットは思わず顔をしかめる。
〈ふふふふっ〉
赤黒い影の頭部にギョロりとした単眼が見開く。血走ったその目はギョロギョロと部屋を見回した後、最後にブリジットとアルマを見て不自然にぐにゃりと歪んだ。
まるで笑っているかのように。
「……気持ち悪っ!」
「確かに見ていて良い気分はしないな。それに友好的な存在では無さそうだ……」
〈ふふふふふっ!〉
ブリジットは赤黒い影を敵だと判断して剣を構える。それを見て赤黒い影は人差し指をピンと立て、天井に大きな円を描いた。
〈ふふふふ〉
「……? なんだ、コイツ? 何してる?」
「私にもわからん」
〈くっくっ、くふふふっ!〉
「だが、この笑い声はいい加減耳障りだ! 夢幻剣!!」
青い魔法剣を数本召喚してブリジットは赤黒い影を攻撃する。
〈ふふふふっ〉
身体に剣を深深と突き立てられても影はうめき声一つ上げず、大きな目を歪ませて不気味に笑うだけだった。
「おい、効いてねえぞ!」
「むうっ!?」
〈ふふふふふっ!〉
「ならば、夢幻剣・絶……」
ズズン……ッ!
「っ!?」
突然、マンションの床が激しく揺れる。地鳴りのような音が鳴り響き、立っていられなくなった二人は思わず膝をつく。
「なっ、ななな!? なんだあ!?」
「ぬおっ……! これは、奴の力か!?」
〈くっ、くふふふふっ!〉
立ち上がれない二人を悠々と眺めながら、赤黒い影はまた愉快げに笑った。
「お、おお……これは……っ!」
異変はブリジット達の居るマンションの外でも起きていた。
まだ昼過ぎだというのに空に暗雲が立ち込め、マンションの上空を渦巻くように不自然な雲が発生している。
「ついに、降臨なされたのか……! デボラ=エニシュ様が……!!」
その様子を見て黒フードの生き残りが感嘆の涙を流す。
「これで帰れる……! あの世界に!!」
あの雲は彼らが崇める異界の神がこの世に召喚された証拠。ついに遠き故郷に戻る好機を掴んだ彼はマンションへと急ぐ……
「ははっ、ははは! やっと帰れるんだ! やっと……やっとぁぁぁぁーぃ!?」
悲願成就を前に浮足立っていた彼に、横道から飛び出してきた黒塗りの高級車を避ける余裕などなかった。
「おや?」
「あーっ! 轢いちゃった!!」
「ちょっと執事さぁぁーん!? 人を轢いちゃいましたよぉー!?」
「はっはっ、困りましたな」
車を運転していた老執事は笑いながらブレーキを踏んで道路脇に停車させる。
「失礼、大丈夫ですか?」
「……」
「ああ、駄目ですか。申し訳ございません……先を急いでいたもので」
撥ねられた男は残念ながら即死しており、それはそれは満足げな顔で昇天していた。
「だ、大丈夫でしたか?」
「はっはっ、駄目でした」
「笑顔で言わないでくれます!? 人を殺しておいてそんな……ん?」
心配して車を出てきたスコットは手足が愉快な方向に折れ曲がった黒フードの男を見てハッとした。
「……って、コイツはさっき俺達に魔法を撃ってきたヤツじゃないですか!」
「ああ、やはりそうでしたか。咄嗟にブレーキではなくアクセルを踏んで正解でしたな」
「いや、殺してどうすんの!? 話を聞くためにわざわざ社長が生かしておいたのに無意味になったじゃないですか!!」
「あーあ、可哀想に。せっかくスコッツくんに見せ場を残そうと思ったのに……今回の君は見せ場なしね」
同じく車を降りたドロシーは黒フードを見下ろしながら静かに十字を切る。
「いや、見せ場とかいいですから!」
「うーん、悪い子の癖に満足げに死んでるのがムカつくわね。悪い子は嫌な顔しながら悔しそうに死んでくれないと」
「アンタもよくわからない人だな!?」
「まぁ、別にもう生かしたまま聞き出したい情報も無くなったわけだけど……」
一箇所だけ不自然に渦巻く雲を見ながらドロシーは小さく溜め息をつく。
「一応、聞いておこうかしら。マリア」
「ふふ、お任せを」
「うおおっ、いつの間に!?」
いつの間にかスコットの背後に立っていたマリアは上機嫌に死体に近づき、その額に人差し指を突き刺す。
「さぁ、お目覚めなさい」
「ははぁぁっ! ただいま、妹よ……あ?」
マリアが囁いた瞬間に即死した黒フードの男の目が見開かれ、明るい笑顔で居るはずもない妹に挨拶した。彼は自分が死んだことに気付けず、死して尚も遠い故郷の幻を見ていたようだ。
「うふふふ、早速ですがお話を聞かせていただきますわね」
「え、あ? なんだ、お前は。俺は一体……」
「説明はしません。ただ、素直に答えなさい?」
マリアは生き返らせた黒フードに妖しく微笑みかけながら、ゾッとするような声で言った。