26
────いつからだろう? 自分の過去が恐ろしくなったのは
────いつからだろう? 彼女と過ごす時間が怖くなったのは
────いつから……
────いつから、俺は やり直せると思い込んでいた?
スカル・マスクは血に染まった拳を見つめ心の中で呟いた。
「……」
忘れられぬ暗い過去に心を蝕まれながら、かつての自分が生み出した哀れな亡霊に目をやる。
「ぐ、ううう……!」
「……もう、いいだろう? ヴェーダ」
「……!」
「もう、終わりにしよう」
スカル・マスクはそう言ってヴェーダに歩み寄る。
「……わかっていたさ、わかっていたとも……だが それがどうした……?」
「……」
「今更、退けると思うか……!?」
ヴェーダは立ち上がる。立ち上がったその身体からは血が吹き出し、彼には既に戦う力が残っていない事を物語る。しかし、それでもヴェーダの瞳から闘志は潰えない。
「私にはもう……何もない。君とは違う……何も、ないんだ……」
「……」
「私の全ては、15年前に失われた。今此処に居る私は……ただの、塵さ!!」
左腕の刃を再生させ、ヴェーダは両足に力を込める。自分に残されている力はただ一撃分……その一撃に今までの全てを乗せ、スカル・マスクに叩きつけるつもりだ。
この呪われた15年間の全てを、ヴェーダという亡霊の存在意義を乗せて。
「……我らが求むは、救いにあらず」
「……!」
「……我らが、求むは」
スカル・マスクは拳を握りしめ、静かな声で呟く。
二度と口に出さないと決めていた、彼らの教義。掃除屋が抱える黒き理念。罪深き処刑人が背負う戒律……許される事のない、過去の自分に向けた呪言。
「……救えぬ魂の、安寧なり」
その言葉を聞いてヴェーダは、狂ったように笑いだした。
「ははっ、はっ……ははははは……はははははははははーっ!!!」
笑いながらスカル・マスクに飛びかかる。
彼の全てを込めた魔剣の一撃は、スカル・マスクの左腕に受け止められた。ヴェーダの斬撃は冷たい腕の肉を裂き、金属の骨にまで達したがその腕を切り落とすには至らなかった。左腕からは血が吹き出すが、スカル・マスクはまるで意に介さず、右拳に血がにじむまで力を込める。
「……祈れ、せめて 迷わず妻の所へ行けるように」
それはヴェーダに向けるせめてもの情けなのか。
それとも、自分が犯した罪への懺悔なのか。
スカル・マスクはその一言だけを呟き、幾多もの怪物を屠ってきた渾身の拳撃を放とうとした……
「待って、お願い!」
不意に耳に飛び込んできたのは、誰よりも愛しい女性の声。スカル・マスクはほんの一瞬だけ動きを止めた。
「あなた……っ!!」
だが、愛する妻の声を聞いても 彼の握りしめた拳は緩まる事はなく
(アトリ、君の声はもう……)
ヴェーダはスカル・マスクの動きが止まったのを見逃さずに左腕から刃を引き抜き、今度こそ彼の身体を切り裂こうと、血に塗れた剣を振り上げる。
「駄目ぇええええ────っ!!!」
しかしヴェーダが左腕を振り下ろすよりも早く、スカル・マスクの拳が彼の胸部を貫く。
(俺には、届かないよ)
かつての自分が貫いた場所を、ソーマがその身を削って塞いだ傷を、容赦ない正拳が穿った……
『……て……』
『……っかり……て……』
『……ーク、ん……!』
……誰かの声が聞こえる。意識が朦朧としているヴェーダは、その声の主を判別するまで暫くの時間を要した。
「……っかり、しっかりして!」
(誰だ……私を呼ぶのは)
「しっかりして……!!」
(ああ……何だ、君か……)
ヴェーダは目には、涙目で自分を介抱するソーマの姿が映った。
どうして泣いているのだろう? 致命の一撃を受け、大量の血を失った彼の記憶と意識は既に曖昧で、自分の身体がどうなっているのかすらわからなくなっていた。痛みすらもう感じない。先程までの再生能力も見られない。
力の要であった胸の肉塊を破壊された彼には、もうその命を繋ぎ止めるだけの力も残されていないのだ。
「……ソーマ」
「しっかり……今、救急車を呼びましたからね!」
「怖い……夢を、見たんだ……」
「……マークさん?」
「本当に……怖い夢を、見たんだよ」
アトリは自分をソーマと呼び、まるで妻に語りかけるような穏やかな声色で喋りかけてくるヴェーダの姿を見て察した。
「マーク、さん……!」
彼はもう自分が誰なのかもわからない……彼の目には、自分が大切な人に見えているのだと。
「……君が、死んでしまう夢だった。ぼくは、何もできなくて……君が殺されるのを黙って、見ているしかできなかったんだ……」
「……ッ!」
「ぼくは……ぼくはね、それから……」
アトリを亡妻としか認識できなくなったヴェーダの姿を、スカル・マスクは静かに見下ろしている。
かける言葉など、見つからない。彼の幸せを、彼の全てを、彼の人生を奪ったのは他でもない、自分自身なのだから。
「……もう、大丈夫。ただの、夢だから……」
「……ソーマ?」
「もう、怖い夢は覚めたの。だから、もう大丈夫……」
異形と化したヴェーダの左腕に触れ、ソーマは優しく夫に語りかける。その優しい声と、女神のような眩しい笑顔を見て 漸く彼は長い夢から覚める事ができた。
「……ああ、ソーマ」
ヴェーダの左腕の刃はボロボロと崩れ去り、その傷だらけになった腕が顕になる。震える手で胸ポケットから花を取り出し、アトリに手渡した。
「……これは」
「庭に、咲いていたんだ……一輪だけ……初めて見た……綺麗な花……」
その花は故郷から持ち込んだ黒い花でも、妻の死骸から生まれた白い花でもない。
何処にでも咲く小さな菊の花。だが菊の花は、彼の故郷には無いこの世界で初めて目にした美しい【異界の花】だった。
「……あり、がとう……」
「ソーマ……なんで、泣いているんだい?」
「……泣いて、ません」
「……そうか……ごめん……まだ、ぼくは寝ぼけているの、かな」
アトリは涙を拭い、必死に笑顔を作る。
泣いてはいけない、せめて 彼が眠りにつくまでは笑顔でいなければ。例えこの男に夫を殺されそうになっても、彼と築き上げてきた店を台無しにされようとも、アトリはヴェーダを憎む事など出来なかった。
「ほら、泣いてないでしょう?」
「……ああ、すまない。まだぼくは……夢から、覚めきっていないようだ……少し……」
「……いいの、眠って。大丈夫、私はずっと傍に居るから……ずっと」
「……ソーマ……君は……本当に……」
その言葉を言い切る前に、ヴェーダは旅立った。
愛しい妻が待つ場所へと。
二人にとって辛い結末になりましたが、少なくとも彼は救われました。紅茶に包まれてあれ。