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(これからも、この店でコーヒーを飲みたいな)
アトリが淹れてくれたコーヒーの薫りを嗅ぎながら、ヴェーダはそう思った。
少しの間彼女と談笑して近くの三馬鹿に嫉妬されようと全く気にならなかった。それどころかタクロウに注意される三馬鹿の姿すら愛しく思えた。全てを失い、地獄に堕とされようとも、ヴェーダという男の本質は亡き妻が愛した優しい男のままだった。
彼はまだ、悪魔に成り切れていなかった。
(ソーマ……ありがとう。少し道を間違えてしまったが、私はまだ……)
白い花の事はもう忘れよう。
この店を出たら、後始末をしよう。もう遅いかもしれないが、自分に出来るだけの罪滅ぼしをしよう……そう思っていた時だった。
店の中に、一人の少女が現れた。
「……!!!」
忘れもしない、胸に十字架を刻む黒いコート。
その特徴的な衣装は掃除屋の正装……この銀髪の少女は掃除屋だ。まさか、ついにこの顔もバレてしまったというのか。白昼堂々、こんな店にまで自分を殺しに来たというのか。
(……悲しい、な。だが仕方ない……迷惑をかける前にこの店から)
「この店に居るのはわかっているのです! 出てきやがるのです、スカル・マスク────ッ!!」
少女が発したその名前。ようやく忘れられたその名前。自分から全てを奪った男の名前を、少女は叫んだ。
(スカル・マスクだと! 馬鹿な、この店に奴が……!?)
スカル・マスク、スカル・マスクと叫び続ける掃除屋の少女。混乱しながらも何とか場を落ち着かせようとするアトリ。周囲がどんなにざわめこうとも、ヴェーダにはもうその名前しか耳に入らなかった。
(そんな馬鹿な!?)
ヴェーダは祈った。少女の思い違いである事を……だが、彼の祈りに神はあまりにも残酷な形で応えた。
「出てくるのです、出てくるのです! さっさと出てくるのです! さもないと……!!」
「ああーっ! 待って、撃たないで! 撃たないでーっ!!」
十字架を模した大砲を構え、店内を破壊すると脅す銀髪の少女。そして、その時は訪れた。
「ほーい、ボルドーの丸焼きお待ちー……って何この空気?」
一瞬、ほんの一瞬だった。厨房から料理を持って現れたタクロウが少女の姿を見た時だった。
彼の瞳が、あの夜に見た虚ろな瞳と同じになった。
彼の姿に、あの夜に見た悪魔を幻視した。
────その瞬間、彼の15年間が最悪の形で実を結んだのだ。
「君が、この店を訪れなければ……私はスカル・マスクに会えなかった。本当に感謝しているよ」
「……スカル……マスク?」
「そう、この男がスカル・マスクだ。ああ、今思い出しても震えが止まらない……!」
ヴェーダは何も言わずに頭を垂れるタクロウの顎に左腕の切っ先を当て、無理矢理顔を上げさせる。光の灯らない、死人のような虚ろな瞳を見つめながら彼は言った。
「あの時の、私の……気持ちが……わかるか……ッ!?」
「……」
「私から、妻を……全てを奪った男が……私の妻と瓜二つの女性と結ばれている……! こんな……こんな話があるか……!?」
タクロウは目線を絢香に向ける。絢香は目を見開いて絶句し、その顔は込み上がる罪悪感で歪んでしまっていた。
「……はは」
そんな彼女の顔を見て、タクロウはうんざりするように力無く笑った。
「15年ぶりに、心の底から! 神に感謝したよ! 涙が出るほどに……!!」
憎き仇敵の顔を涙に濡れた双眸で見据えながら口を大きく引き攣らせ、彼は様々な感情が入り混じった歪んだ笑顔を浮かべた。
「……ああ、すまないね。今思い出しても涙が出てしまうもので……」
ヴェーダは右手で溢れる涙を拭き取り、タクロウを見下ろす。
「何か、言い残すことがあるなら聞いておこう。後でアトリさんに伝えておくよ」
「……」
「無いのかね? いや、何か言いたいことがあるはずだ。愛する妻への言葉や、私への恨み言が…あるだろう??」
沈黙するタクロウに首を傾げ、ヴェーダは少し寂しそうな表情をする。
これから彼を殺そうとしているのに、その口調は友人に向けるように親しげで馴れ馴れしいものだった。
「……何も、無いのかね」
「……悪いな、マーク。何も言う気になれねえよ」
「ははは、まだその名前で呼んでくれるのか。そうだね、マークのまま生きていくのも悪くないと思ったよ……」
ヴェーダは上を見上げ、少しの間沈黙する。
スカル・マスクが憎い。自分から妻を奪った、この男が憎くて仕方がない。だが、何よりも憎いのは 彼がスカル・マスクであるという度し難い現実そのものだ。
何故、彼がスカル・マスクなのだ。
何故、彼がアトリと結ばれたのだ。
何故、あの時に少女が現れたのだ。
タクロウがスカルマスクでなければ良かった。アトリが妻と瓜二つでなければ良かった。例え彼がスカルマスクであろうとも、アトリと結ばれていようとも、銀髪の少女が現れなければ 全てを忘れられたのに……
「これが……運命か……」
ヴェーダは悲しげに呟きながら禍々しい剣と化した左腕を振り上げ、今正に長年の因縁を断とうとその眼を見開いた。
「……おじさん……っ!」
絢香は軋む身体に鞭を打ち、ヴェーダの凶刃からタクロウを救うべく立ち上がる。だがその直後視界が大きく歪み、彼女は力無く倒れ込む。
「……っ!?」
「お嬢さん、無理はいけないよ。頭を強く打っているんだろう? いくら掃除屋でも脳がダメージを受ければ暫くは戦えないよ」
「おじさん……に手を出すな……その人は!!」
「それは、無理だ……無理だよ。私はもう……抑えられないんだ」
「……駄目!」
ボヤける視点を何とか繋ぎ止め、絢香はヴェーダを止めようと必死になる。
あの日、自分があの名前を叫ばなければ、この店に訪れなければ……彼女の頭はその後悔で一杯になった。