22
聖なる夜にこそ、ほんのり温かいエピソードを。
「う……けほっ、けほっ!」
絢香が目を覚ます。ヴェーダの攻撃で僅かな間だが気絶してしまっていたようだ。
「おや、目を覚ましたか。だがもう少し良い子にしていてくれ」
「……くっ!」
「ああ、そうだ。君にも感謝しないといけないな」
ヴェーダは倒れ伏す絢香に優しい笑顔を向ける。彼の優しい笑顔を見て絢香は血も凍るような感覚に襲われた。
「何……!?」
「正直に言うとね、私はスカル・マスクを見つけられなかったんだよ。どんな手を使ってもね」
「……ッ」
「だが、君が来てくれた」
「!?」
「ありがとう、君のお陰だよ。本当に……」
────時間だけが、虚しく過ぎていった。
愛する妻と過去の自分を失い、悪魔に成り果てた事でヴェーダは初めて何一つ不自由ない生活を手に入れた。だがそれは、彼にとって苦痛以外の何ものでもなかった。
(私は、何をしているんだ>)
一桁区の邸宅で白い花を育てながら、いつしか彼は考えるようになった。
(私は、何のために生きている>)
富、平穏、安住。妻と暮らしている間に望んだ全てが手に入ったというのに、彼は何一つ満足出来なかった。愛する妻が居なければ、これらには何の価値もないのだ。
(私は、何のために……)
ある日の昼下り。一桁区の喫茶店で味のしないコーヒーを飲んでいると、街を歩く誰かがこんな話で盛り上がっていた。
「13番街区の喫茶店知ってるか?」
「何だよ、13番街区って言えば……」
「聞けって、その店なんだけどさ。物凄い美人な店員がいるんだってさ」
「おいおい、美人っつっても13番街区じゃあよー。命がいくつあっても足りねえよ!」
「だから一緒に行こうぜ! お前と二人なら一人分の予備があるから大丈夫だ!!」
「この場でブチ殺されてぇのかテメェー!!?」
目の前で口喧嘩する若い二人組を見て、ふと彼は席を立った。
その美人の店員の話が気になった訳ではない……ただ、13番街区という言葉に懐かしさを感じたのだ。彼は15年前までそこで妻と生活していたのだから。
「……失礼、ちょっといいかな?」
「ああ!? 何……」
「その、店の名前を教えてくれないか?」
「何だよ急に……ていうか誰だよアンタ」
「知らないならいいんだ。すまない、邪魔をしたね」
「……ああ、名前ね。ちょっと待ってくれ、確か────」
ビッグバード。それが喫茶店の名前だった。
翌日、ヴェーダはタクシーでその店に向かった。13番街区に似つかわしくない落ち着いた外装や内部の装飾とは裏腹に店内の雰囲気はとても賑やかで、良くも悪くも二桁区らしい店だった。
「……」
ドアを開けた瞬間に『ここには馴染めないな』と彼は感じた。
(……まぁ、コーヒーの一杯くらいは頂こうか)
「あ、いらっしゃいませ!」
「……!」
自分に声をかけてきた少女の顔を見て、ヴェーダは言葉を失った。
「空いてるお席にどうぞ~」
「……あ」
「どうかなさいましたか?」
彼女の顔は、若い頃のソーマと瓜二つであった。
髪の色や身長など細かい差異はあったものの、その大きな瞳と明るい声、そして心を癒やす眩しい笑顔は正にソーマの生き写しとしか言いようがないものだった。
「……ああ、すまない。その、コーヒーを一杯……」
「ふふ、初めての人ですね。旅行者さんでしょうか?」
「あ、ああ。いや、私はこの街に住んでいるよ、家は2番街区にある」
「一桁区からわざわざ……ありがとうございます!」
ヴェーダは彼女に見惚れてしまった。
こんな偶然があるのだろうか。今までの苦痛に満ちた日々やスカル・マスクへの復讐心は一気に消え去り、彼の頭は妻と瓜二つの少女で一杯になる。
(……ソーマ、私は)
「少々お待ち下さい、すぐに温かいコーヒーをお持ちしますね!」
(私は……今まで、何をしていたんだろう)
胸ポケットに忍ばせた白い花に触れ、ヴェーダは今までの過ちを深く悔いた。彼はこの店に足を運ぼうと思ったのは、亡き妻が過去と決別するよう背中を押してくれたのだと考えた。
「おーす、ギンチーパーのチリソース和えお待ちー」
「……!?」
「お、新しいお客さんか! いらっしゃいませ!!」
厨房から現れた長身の男。その姿にヴェーダは一瞬、スカル・マスクの姿を幻視した。
「こんな所までよく来てくれたな。大したものは出せないけど、ゆっくりしていってくれ!」
「店長、自分でこんな所とかいうの?」
「店長の言葉とは思えねえな!」
「はっはっハ! もっと自信持とうヨ!!」
「うるせーぞー、お前らー!」
だが店の客達と談笑する彼を見てスカル・マスクの幻影は霧散する。
背丈や体型こそスカル・マスクに似ているが、この街ではそのような体型は珍しいものではない。身体の大部分が機械化しているようだが、この街では特に驚くようなものでもない。何よりも物騒な顔に似合わない澄んだ瞳はあの悪魔とはまるで違うものだ。
ヴェーダは一瞬でも彼をスカル・マスクと錯覚してしまった自分を深く恥じた。
「ははは……賑やかだね」
「うーん、どういうわけかな。勝手に賑やかになっちゃうんだよね」
「お待たせしました、ホットコーヒーです……あら、あなた。あんまりお喋りしちゃうと料理が冷めちゃいますよ?」
注文したコーヒーを運んできた先程の女性は店長に向けて『あなた』と言った。
「……あなた? ひょっとして、君達は夫婦なのかい??」
「ふふっ、そうなんですよ。私はアトリ、この人はタクロウさんです」
「まぁ……うん。全然、見合ってないと思われるだろうけどな」
少女はこの大柄な男性の妻だったのだ。
あろう事か既婚者に亡き妻の姿を重ね合わせてしまった自分をヴェーダは深く責め立てた。何と悲しい巡り合わせだろうか。
(……妻にするには、少し若すぎる気もするのだがね)
そして恐らくはまだ未成年である少女を妻にした屈強な大男に目を細めた。
(……いや、これでいい。これでいいんだ)
「お待たせしました、ホットコーヒーです!」
何とも複雑な気持ちになりながらヴェーダは出されたコーヒーに一口つける。
「……!!」
その味に、彼は唸った。
ソーマが出したコーヒー程ではないが、彼女が淹れた一杯はヴェーダを感嘆させるには十分すぎる至上の美味であったのだ。
「あ……あの、もしかしてお口に合いませんでしたか?」
「いや……美味しい、とても……美味しいよ!」
「良かった……!」
ヴェーダが発した美味しいの一言に彼女は満面の笑みで答える。
「アトリちゃーん、注文いいですかー?」
「あ、はいはーい! では、ごゆっくりどうぞ!!」
「あ、店長。俺モ注文いいかナ?」
「あいよー」
この15年間、一度たりとも味わえなかった安らぎがこの店にはあった。ヴェーダはアトリの淹れたコーヒーを涙ぐみながら堪能し、溢れそうになる涙を堪えながら言う。
「す、すまない!」
「おっと、ご注文だぞアトリさん! オムレツも俺がやるから聞いてやってくれ!!」
厨房から慌ただしくアトリが顔を出す。そして再び天使のような笑みを浮かべ、ヴェーダの座る席にやって来た。
「はーい! 何でしょうか!!」
「コーヒーの……おかわりを、頼みたいのだが」
「ふふふ、ありがとうございます。今から淹れますね~」
ああ、なんて素敵な店なのだろう。なんて素敵な夫婦なのだろう。
自分には掴めなかった幸せに包まれ、常連達に温かい目で見守られる二人の姿を目にしたヴェーダの胸中にあったのは、その二人への祝福の感情だった。何故かはわからない。
だが、妻と瓜二つであるアトリの幸せそうな顔を見ていると彼も幸せになれたのだ。
勿論、この後……