19
昏いお話はそろそろ終わります。
「……うっ」
次にヴェーダが目を覚ますと、周囲は暗闇に包まれていた。
「……なんだ……寒い……ここは、何処だ」
目前に開く僅かな隙間から光が挿し込む。
ヴェーダがその隙間に手をかけるとジジジと音を立てて隙間が広がっていった。まるで大きなカバンのジッパーを開くように。
「何だ、ここは……ソーマ……ソーマ!?」
彼が目を覚ましたのは何処かの遺体安置所だった。
「……!?」
ヴェーダは動揺しながらも辺りを見回して妻を探す。しかし傍にいた妻の姿はどこにも無い。
「一体……何が……うっ!」
不意に胸を突き刺すような痛みが襲い、思わずヴェーダは胸を抑える。
「うぐ……あっ!」
ぬるりとした嫌な感触を手のひらに感じた彼が自分の胸を見ると、胸に空いた穴を塞ぐようにして【不気味な蠢く肉塊】が埋め込まれていた。
「うっ、うわぁあああああ!」
驚いたヴェーダは寝かせられていた簡易ベッドから転落する。動転しながら横を向くと隣のベッドから力無く垂れ下がる異形の腕が顔に当たった。
「ひっ……!」
思わず彼は口を塞ぐ。あまりの状況に理解が追いつかず、ヴェーダは必死に記憶の糸を手繰り寄せた。
『この街にとってアレは毒でしかなかった……それだけの話だ』
そして思い出せたのは、黒コートの大男……スカル・マスクに襲われる悪夢のような記憶だった。
「いや、あれは夢の……夢の……っ!」
しかしヴェーダはその記憶を否定した。
認めるわけにはいかない、認めたくない。もしも認めてしまえば、受け入れなければならなくなる。
妻が殺されたというどうしようもない現実を、彼は認めなければならなくなってしまう。
「……」
ベッドで寝かされる謎の遺体。死体袋に収まらないのか、その遺体は白いビニールマットで覆われている。
「……違う」
ヴェーダは遺体を見つめる内に胸騒ぎを覚える。垂れ下がる異形の腕に見覚えがあったからだ。
「そんなはずはない……あれは夢なんだ……」
彼は震えながらビニールマットに手をかける。
「あれは……夢なんだ!」
勢いよくビニールマットを遺体から取り払う。
そして、彼は見た。
顔の無い怪物の亡骸を。両腕をもがれ、腹部を貫かれ、容赦なく惨殺された────妻の姿を。
「……ははは、はははははははっ」
頭の中で、何かが大きな音を立てて崩れ去った。
「あはっ、アハハハはハッ! はははっ、はははははっ、はーッはっハッはッ!!」
ヴェーダは狂ったように笑い出す。
どうして笑っているのか自分でもわからない……ただ何もかもがどうしようもなく馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
「……ぁぁぁあああああ!!!」
ヴェーダは妻の死体に泣きついた。どうして妻がこんな姿になったのか、どうして妻が殺されてしまったのか。
どうして彼女が死んだのに、自分は生き残ってしまったのか。
「……私たちがっ、何を……何を!!」
ソーマの死骸に縋りながら咽び泣いていた時、彼の頬を何かが優しく撫でる。顔を上げて妻の身体をよく見ると、腹部に開いた穴の中で 小さな何かが微かに揺れ動く。
「これ……は……」
妻のお腹の中に雪のように白く、まるでタンポポのように愛らしい小さな花が咲いていた。
「……ははは、何だ……ソーマ」
妻は黒い花でヴリトラになった。
そのため望まずとも彼女が死亡すれば身体から新しい命が生まれる事になる。だが何故か彼女から咲いた花は、雪のように真っ白であった。
「……君は、まだ そこに居るんだね……」
ただの偶然か、それとも神の悪意ある祝福か。それはソーマが好きな色だったのだ。
「ははは……」
ヴェーダはソーマの身体から生える白い花を喜々として摘み取った。
「ははっ、ははははっ……はははははははっ!」
両眼から止め処なく涙を流し続けながら、彼は妻から咲いた花を摘み取り続けた。
そして彼はその白い花に名前を付けた。
今まで黒い花には名前が付けられていなかったが、妻の亡骸に咲いた花は特別だからと、彼は白い花の誕生を心から祝福しながら名前を付けた。
今は亡き、最愛の妻の名を……
「覚えているな、私を! 15年前の夜に、お前が殺した夫婦の事を!!」
「……ッ!」
その夜から15年間、ヴェーダはずっと探していた。スカル・マスクという名前だけを頼りに、顔のない大男を。
「探したよ、この15年間ずっと……ずっとね!」
タクロウの脇腹から左腕を乱暴に引き抜く。
「……ぐおっ!!」
抉れた傷口からは夥しい量の血が吹き出し、タクロウは血を吐きながら膝から崩れ落ちる。
「君を見つける為に、私は何だってした。そう、何だってしたさ……君に辿り着く情報を得るためなら……」
「……ぐっ」
「ああ、実に充実した日々だった。最高に、地獄のような日々だったとも……!」
遺体安置所で蘇生し、白い花を手に脱走したヴェーダを待ち受けていたのは過酷な逃亡生活だった。
掃除屋によって処理され、管理局が保有する遺体処理施設に【死体】として運ばれた彼は何らかの要因で蘇生した。しかし管理局は一度死んだからと彼を見逃す程、甘い組織ではない。掃除屋が処理した人間の死体は管理局職員の手によって入念に事後処理が施される事になっている。
掃除屋の存在は如何なる事があっても公の場に晒される訳にはいかないからだ。
当然、彼らが始末した人物の情報や素性は記録されており、例え何らかの要因で始末された人物が息を吹き返して脱走しようとも、その人物を抹消するべくあらゆる手を尽くす。
ヴェーダは異常管理局という強大な組織に追われる事になってしまったのだ。
『ヴェーダ・リヴハウマーだな!? お前を確保する!』
『逃げたぞ、追え! 奴を逃がすな!!』
『ヴェーダ・リヴハウマー!』
『お前をここで処理する!』
『お前はこの街にいるべきじゃないんだ!!』
何処に隠れようとも、決して異常管理局はヴェーダを見逃さなかった。
彼が追われる理由は一つ、あの黒い花を街にばら撒いたから。気付かなかったではもはや済まされない……否、済ます訳にはいかない。本人にもう黒い花を育てる気が無かろうとも。
昼間は管理局の職員が、そして夜になれば掃除屋が。執拗にヴェーダを追い回した。
「……くっ、悪魔……がっ!」
「悪魔……? 私が??」
「……」
「私が、悪魔だと……!」
管理局の何度目かの襲撃をヴェーダが退けた時、トドメを刺される寸前に一人の魔法使いが彼を【悪魔】と呼んだ。
「お前たちが……私を、その名で呼ぶのか……ッ!!」
人気のない路地裏で深く傷つきながら、ヴェーダは絞り出すように唸った。
望んで追手を倒していた訳ではない。彼は追われる身になるまで誰かを傷つけた事すら無かった。例え自分に敵意を向ける相手であろうと、傷つけるような事は可能な限り避けようとした。
だが、彼らはそんなヴェーダを危険因子と断じ、執拗な追撃を繰り返した。
明くる日も、明くる日も、ただの花売りの男性を。最大の被害者である彼を。
「は……ははは……は……」
血溜まりの中で佇みながら空を見上げ、彼は確信した。
否、最初からそうであったのだ。妻がいてくれたから気が付けなかっただけだ。その妻を失った事で、その真実が浮き彫りになっただけだ。
この街こそが、地獄なのだ。
「はははははっ、はーっはっはっはっ! あーっはっはっはっは!!」
この街の住人こそが、悪魔なのだ。
その事実を受け入れた後は、驚く程に気持ちが楽になった。
妻が愛したこの顔を捨てる事にも、生きる為に相手の命を奪う事も、異常管理局の目を欺く為に見ず知らずの人間を身代わりに仕立て上げる事にも……何の躊躇も戸惑いも抱かなくなった。
この15年の間に彼が忘れなかった事といえば、亡き妻への愛情。
そして、スカル・マスクへの憎悪だけだった。
そろそろね!