18
────気がつけば、ソーマの体は寝室の床に力なく倒れ伏していた。
「……ぁ、ぅ」
声が出せない。喉元からは熱い液体が溢れ、倒れる彼女の体を少しずつ染めていく。
力なく倒れる自分を染める熱い液体が、自分の血だと理解するのに彼女は数秒の時間を要した。
(……何が起きたの? 声が、出せない。体に……力が入らない)
思い出せるのはほんの数十秒前の事。寝室で夫が来るのを待っていた彼女だったが、妙な胸騒ぎを覚えて自分も様子を見に行こうとした時であった。
閉めた筈の寝室の窓から冷たい風が差し込み、不思議に思った彼女がふと後ろを振り向いた途端……
黒い人影が音を立てずに近づき、彼女の喉を切り裂いた。
影が自分の喉を切り裂くまでの一瞬、無意識のうちに発した悲鳴がソーマが出来る唯一の抵抗だった。
(これ……血……? 私……怪我をしたの……??)
辛うじて動く眼球で周囲を見渡す。
彼女の目に写るのは、自らの血で染まっていく絨毯に、倒れる際に手をかけて割った花瓶、床に散らばる黒い花……そして倒れる自分を見下ろす黒尽くめの男。
「……ぁ」
「そんな驚いた顔をするな。心配しなくても、今から死ぬだけだよ」
血に濡れた黒い短剣を握る金髪の男は、彼女の瞳を見つめながら静かに囁いた。
「いつかは終わるアンタ達の命が、今日終わるだけだ。ただそれだけ……何もおかしいことじゃないだろう?」
冷たい言葉を残して男はソーマに背を向ける。状況が理解できず、目の前に散らばる黒い花を彼女はただ見つめるしか出来なかった。
(……ヴェー……ダ)
薄れゆく意識の中で彼女が思ったのは、死にゆく自分の事ではなく 愛する夫の安否だった。
「……ぇー……だ……」
黒尽くめの男は『アンタ達』と言った。聞き間違いではない。男は寝室を出て何処かに向かった……恐らくはヴェーダの所だ。
「っ……ぇー……だ……っ!」
ソーマは最後の力を振り絞り、自分の血に沈む黒い花に手を伸ばす。
既に夫は殺されてしまっているのかもしれない。
玄関先に向かった時に彼も自分のように黒尽くめの男、もしくはその仲間に襲われたのかもしれない。それでも、彼女は夫がまだ生きている事を神に祈った。
(……神様、どうか。どうか私に……)
途切れかけた意識を必死に繋ぎ止め、ソーマは血を吐きながら震える手で黒い花を掴む。
(どうか私に、あの人を守る力を……お与えください)
今は遠き故郷で暮らしていた時、父や母、親戚の皆が口を揃えて言った。
何があっても、その黒い花の蜜を採ってはいけないと。どんなに花の蜜から美味しそうな甘い香りがしても、決してそれを舐めてはいけないと。
もし舐めてしまえば、お前は永遠に呪われてしまうだろう……と。
父母の忠告が頭を過ったが、ソーマに迷いは無かった。彼女は夫と過ごした日々に思いを馳せながら、力なく微笑み────
(どうか……私の、夫には……)
ソーマは黒い花に齧りついた。口の中に広がる鉄の味に混ざり込む、微かな黒い蜜の甘味を噛み締めながら……彼女はそれを飲み込んだ。
(神の、ご加護と……祝福を……)
……彼女の意識は、そこで途切れた。
「うるるるるあああああああああああ────っ!!!」
蜜の効力でヴリトラと化したソーマはスカル・マスクに襲いかかる。
禍々しい四本の腕を振り回し、鋭い爪でその身体を引き裂こうとするがスカル・マスクは恐るべき凶刃と化したソーマの両腕をいとも簡単に受け止める。
「るああああああああああーっ!」
「……我らが求むは、救いに非ず」
静かな声で呟きながら、スカル・マスクは受け止めた両腕をへし折る。
しかしソーマはまるで意に介していないかのように、背中の二本の腕で彼の肩を掴んで深々と爪を突き立てる……
「……我らが求むは」
折った両腕を引きちぎり、スカル・マスクはソーマの腹部を拳で貫く。
「ぎゅるあっ!!」
流石のソーマも血を吐きながら怯み、肩を掴む手を離す。スカル・マスクは腹を貫いた右腕を引き抜き、静かに息を吸いながら拳に力を込める……そしてソーマが苦し紛れに放った血に濡れた爪の斬撃が自分に届くよりも早く────
「哀れな罪人の魂なり」
ソーマの顔面に渾身の上段突きを打ち込んだ。
彼女の顔はその一撃で吹き飛び、頭部を破壊された肉体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「────ッ!!!!!!」
周囲に響き渡る騒音が自分の絶叫だと彼が気付いたのは、スカル・マスクの拳が自分の胸を貫いた時だった。
「……悲しむ必要は、無い」
「……ごぶっ」
「お前も……ここで終わる」
スカル・マスクはヴェーダに冷たく言い放つ。
「がっ……!」
血で染まった腕を静かに引き抜き、スカル・カスクは崩れ落ちるヴェーダの姿を虚ろな瞳で一瞥する。
「ごは……ッ!」
「お前たちにとってあの花がどんな意味を持っていたのか……俺にはどうでもいい」
「……う……ッ」
「この街にとってアレは毒でしかなかった……それだけの話だ」
スカル・マスクはそれ以上何も言わず、キースの死体を回収して立ち去った。
「ううう……!」
ヴェーダは血の海に沈む妻の亡骸を前に力無く慟哭した。
「ぁあぁああ……ッ あああああぁあああああ……!!」
夫婦にとっての不幸は、あの黒い花を買う者達の本性に気付けなかった事。
夫婦の生まれ育った世界に危険薬物についての知識や技術が存在しなかった事……そして、彼ら自身がその花を特別視しすぎてしまっていた事だ。
黒い花の加護によってヴリトラから逃れていたヴェーダ達と違い、この世界の住人達にとってあの花はただの趣向品。それも彼らからすれば花自体に価値があるのではなく、それから得られる恩恵にしか目を向けられていなかった。
二人はそのことに気付けなかった。いや、考えつくことすらできなかった。
何も知らずに黒い花を売り、お客様は黒い花を材料に新種の危険薬物を生み出して利益を得る。そして夫婦は何も知らないまま異常管理局に危険因子と断定され、街の処刑人たる掃除屋に始末される事になってしまった。
(ぼくらが、何をした……)
ヴェーダは絶望しながら声なき声を叫ぶ。
(ぼくが、ソーマが……何をしたっていうんだ……!!)
胸に空いた風穴から彼の命は零れ落ち、冷たくなっていく身体にはもう腕一本動かす力すら残っていない。
(神よ……、あなたは……)
────神よ、あなたは一体 何をしているのだ!!!!!
ヴェーダが今日まで祈りを捧げていた神に、力なき絶叫を叩きつけた瞬間……死んだ筈のソーマの体が動き出した。
「……!?」
頭部を破壊され、生命の躍動を止めた妻の体が起き上がる。そして周囲を見渡す目玉も残っていないというのに、彼女の身体は倒れ伏す夫の元に這い寄ろうとする。
「……ソー……マ……?」
胴体部を床に擦り付け、血の跡を伸ばしながら背中の腕で床を這う。既に意識が朦朧としていたヴェーダには、その顔のない異形が 生前の美しい妻の姿 に見えるようになっていた。
「……ははは、何だ……ぼくは夢を、見ていたのか。ソーマ……ぼくは……」
妻は微笑みながら自分に寄り縋り、その頬を優しく撫でる。ヴェーダも妻の手を握りしめて笑った。
「怖い、夢を……見たんだ。本当に……」
ヴェーダの言葉に、ソーマは答えない。ただ慈愛に満ちた微笑を浮かべながら、彼女は夫を抱きしめる。そしていつものように優しい声で囁いた。
『ヴェーダ、あなたに 祝福を』
その言葉が優しく耳を撫でたと同時にヴェーダの意識は溶けていった。