17
「もうこんな時間だ、そろそろ寝ようか」
「そうね。もう、寝る前に嫌な話はやめてちょうだい」
「す、すまない。気をつけるよ」
「ふふふ、お願いね?」
ピンポーン。
ヴェーダが明日に備えてソーマと寝室に向かおうとした時、インターホンが鳴り響く。
「誰だ? こんな時間に……」
「あ、待って……私も」
「君は先に寝室で待っててくれ。すぐに僕も行くから」
ヴェーダはソーマを待たせて玄関に向かう。そして玄関ドアを開けると
「誰かな? こんな夜遅くに一体何の……」
ドアの前に立っていたのは、190㎝を優に超える大男だった。
「……ヴェーダ・リヴハウマー……か?」
顔をフードで隠し、胸元に大きな白い十字架のマークが刻まれたロングコートを身に纏う謎の男は、感情の籠もらない冷たい声でヴェーダに語りかける。
「……ああ、そうだが……私に何の用かな?」
「この花を、売っていたのはお前だな?」
男はコートから黒い花を取り出してヴェーダに見せる。
「……ああ、確かにそれは私が売っていた花だ」
「まだ、残っているのか?」
「……今はまだ蕾だ。花を咲かすには少し時間がかかる」
大男に黒い花について問い詰められ、物怖じしながらもヴェーダは正直に答える。
見知らぬ相手に黒い花について聞かれるのは別に珍しい事ではなかったし、最近は変わった客が増えてきているのもあって彼は大男に対してそこまで強い警戒心を抱かなかった。
ヴェーダは心配性ではあるが、他人を疑うという選択肢を持たない素直すぎる男だったのだ。
「……邪魔するぞ」
「えっ、おい……! ちょっと……!!」
「その花は、この街にあってはいけないものだ」
男はそう言うとヴェーダを押しのけ、土足で家に上がり込む。
「な、何だ君は! いきなり家に……何のつもりだ!?」
「……」
リビングの窓際の花壇を見つけ、男は再びヴェーダに問いかける。
「お前たちが花を売って、どのくらいになる?」
「……四年だ。その花を売らなければ生きていけなかった」
「……その花の【蜜】に、どんな効力があるか知っていたのか? 花の匂いを嗅ぐと 人間がどうなるのか……お前は知っていたか??」
「……知っていた。だが、わざわざその蜜を────」
ヴェーダの言葉を全て聞く前に男は彼の首を締め上げる。
「……がっ! な、何を……!?」
男はヴェーダの首を締めながら片手で持ち上げる。
男の腕はまるで機械義手のように無機質で、血の通わない鉄色の手がギリギリとヴェーダの首を締め上げていく。
「……もういい、十分だ」
「う、うう……っ!?」
「きゃああああああああああっ!!」
突如、寝室から聞こえてきたソーマの悲鳴。
しかし彼女の声はその悲鳴を最後に途切れ、寝室からは大男と同じコートを身に纏った痩せ型の男が現れた。
「ああ、どうも。お邪魔してるよ、リヴハウマーさん」
痩せ型の男は不気味な笑顔で挨拶する。大男と違って彼は顔を隠しておらず、淡い金色の長髪を後ろで結った中性的な顔つきをしていた。
「……!?」
彼の手には、誰かの血で赤く染まった黒い短剣が握られていた。
「……殺したのか」
「当然、生かしておく理由がない。女もその男と同罪だ」
「殺し……っ!?」
「おい、早くその男も始末しろ……スカル・マスク。塵に同情は必要ない」
痩せ型の男は大男をスカル・マスクと呼んだ。
スカル・マスクは男を少しの間見つめた後、ヴェーダの首を更に強く締め上げた。
「……ッ!!」
首の骨が軋む。その想像を絶する苦痛にヴェーダは顔を歪めるが、彼の脳裏にあったのは妻の心配だった。あのコート姿の人物が持つ短剣……その刃から滴る血は恐らく妻のものだ。しかし彼はその事を認める勇気がなかった。
どうして、こんな目に遭わなければいけないのか。
何故、自分達が面識もない男達に命を狙われなければならないのか。
何故、自分だけでなく妻まで襲われてしまうのか。何故、男達は自分達を 塵と呼ぶのか。
ヴェーダには何一つ理解出来なかった。この街で生きていく為に、ただ妻と黒い花を売りながら細々と暮らしていただけだというのに。
(……ソーマ)
途切れかけた意識の中で妻の名を呼んだ時、何かが寝室のドアを突き破って現れた。
「……後ろだ!!」
「!?」
現れた何かは痩せ型の男に襲いかかる。不意を突かれた彼は何者かの鋭く尖った爪で胸を貫かれ、激しく喀血した。
「……がふっ!」
「キース!!」
スカル・マスクはヴェーダから手を離し、突然現れた怪物に身構える。開放されたヴェーダは激しく咳き込み、血の混じった吐瀉物を吐き出しながら転げ回った。
「がっ! ごぼっ、ごぼ……っ! ……う、ソーマ……」
そしてヴェーダは見た。
リビングに現れた怪物の姿を、キースと呼ばれた痩せ型の男を鋭い爪で刺し貫く……妻の姿を。
「うぐっ……るるるるるるるっ!」
「ソー……マ……」
「るぐあああああああああああっ!!」
ソーマの背中を突き破るようにして二本の禍々しい腕が現れる。唸り声を上げて新しく生えた悪魔の腕でキースの両腕を掴み……
「……ちっ、殺し損ねたか。嫌になるねぇ……どうも」
「がるるるるるぁああああああああああああー!!」
怪物は獣のような咆哮を上げながらキースの身体を 真っ二つ に引き裂いた。
ソーマの茶色の髪は色素が抜け落ちて真っ白に染まり、長い髪を振り乱しながら半分になった男の死体を床に叩きつけるその姿に もはやかつての妻の面影は残されていなかった。
「……別れの言葉はいらないな、キース。俺たちのような掃除屋に……」
「がぁあああああっ! あぁあああああああああーっ!!」
「救いは、必要ないんだからな……」
真っ二つに裂かれた無残な肉塊となった同僚にスカル・マスクは淡白な言葉を投げかける。
彼らの間に友情のようなものがあったのか、それは誰にもわからない。スカル・マスクはそれ以上何も言わずに、血塗れの怪物と対峙した。
(ああ、そんな……ソーマ。どうして……)
ヴェーダは涙を流しながら変わり果てた妻を見る。
ソーマがあんな姿になってしまった理由はすぐにわかった。ソーマはあの黒い花の蜜を舐めたのだ。
(どうして……!!)
黒い花の持つもう一つの効果、それは花の蜜には生き物をヴリトラに変異させる力があるというものだ。
この黒い花はただの植物ではない。花はヴリトラの老廃物や死骸から生まれる【ヴリトラの幼生】であり、この異世界種は他の生物に黒い花やそれから精製される蜜を摂取させる事で繁殖する独自の生態を持っている。
厄介な事にこの黒い花は他生物に蜜を吸わせようと、相手の脳神経系に作用して大きな多幸感を齎す【甘い香り】を発する。ヴリトラがその花を避けるのは彼らにとってはそれがとても不快な匂いであると同時に、黒い花を摂取すれば自分の身体が別のヴリトラに乗っ取られてしまうからだ。
それがこの花が飛ぶように売れた理由。花が発する甘い香りに魅せられ、そしてその香りや蜜が齎す作用に目をつけた者達が買い漁るようになったのだ。
その黒い花が齎す利益に釣られ、まるで蜜に群がる羽虫のように。次から次へと。