16
怪物紳士に悲しい過去……
「アトリ」
「……た、タクロウさ」
「……頼むよ、逃げてくれ。お願いだ」
タクロウは震える声でアトリに懇願する。
「……ッ!」
夫の切実な願いを聞いたアトリは溢れる涙を堪えながら立ち上がり、店の皆に声をかける。
「逃げて、みんな……ここから逃げて!!」
「店長!」
「マスター、おい! 嘘だろ!?」
「おイ、ふざけるなヨ! そのクソッタレな腕を今スグ……!!」
「早く逃げなさい。私も君達を巻き込みたくない」
「……!?」
「私は、君達の事も好きなんだ……」
ヴェーダは左腕をタクロウから抜き、その血を振り払いながら言う。
「お、お前、何言って……!?」
「いいから、早く逃げろ!!」
タクロウはヴェーダの言葉に困惑する常連に向けて絞り出すように叫んだ。
「早くこの店を出ろって言っているんだ! でないと……俺がお前らをぶっ殺すぞ!!」
鬼気迫る表情で叫ぶタクロウを見て常連達は怖気づく。
「……!」
「皆さん、こちらへ! 早く……!!」
アトリに言われるがまま彼らは裏口から店を出た。
先程まで明るい雰囲気に包まれていた店内は一変し、残酷なまでに冷たい静寂のみがタクロウとヴェーダを包み込む。
「……」
「これで、やっと……私も 我慢せずに済むよ」
ヴェーダの左腕が深々とタクロウの脇腹に突き刺さる。
「ぐあっ……!」
タクロウは激しく吐血し、ヴェーダは彼が逃げないようにその傷ついた右肩を異形の腕で強く掴む。禍々しく変化した指先はタクロウの肉に食い込み、あまりの激痛に彼は絶叫する。
「っがぁあああああああああ!!」
「痛いか!? 私だって痛い! 私だって痛いんだ……だが、だが……!!」
「……っぐっ! マーク、お前は……!!」
「妻は、もっと痛かった!!」
左腕を彼の脇腹に更に深く捻り込み、ヴェーダは涙を流しながら怨嗟の言葉を叫ぶ。
「君にはっ、彼女が怪物に見えただろう! そうだ、あの花を使えば怪物になる……あの美しい妻もだ! だが彼女はそうするしかなかったんだ……君が、私を殺しに来たから!!」
「がっは!!」
「君がっ! 私を殺そうとしたから……私を守るために……彼女はあんな姿になったんだ!!」
ヴェーダはあの夜を忘れた事など一度もない。
15年前の、あの忌まわしい夜を……
「今日も沢山売れたなぁ、嬉しい限りだ」
「ふふふ、本当ね」
時刻は夜の10時を過ぎた頃。いつものようにヴェーダは妻のソーマと談笑していた。
夫婦は最初からこの街に住んでいたのではない。向こう側で開いた異界門に吸い込まれ、この世界に放り出された漂流者だ。突然の出来事に二人は異界門から逃げる事も出来ず、言葉も通じない異世界での生活を余儀なくされてしまう。
生まれ育った世界から唐突に引き離された二人が唯一持ち込めた物は、故郷の草原から摘み取った【黒い花】だけだった。
「もしもこの花を摘んでいる時でなかったら、ぼくらはどうなっていただろうか」
「またそんなことを言って……あなたの悪い癖ね」
「仕方ないじゃないか。いきなり言葉も通じない見知らぬ街に放り出されたんだよ、今思い出してもゾッとするよ……もし」
ソーマはヴェーダの額を軽く叩く。
「やめなさい。この花のお蔭で、今の生活があるんだから」
ヴェーダは彼女よりも年下で少し心配性な面がある。そんな夫を支えるのが妻であるソーマの役目だ。
「……わかってるさ。でも、最近は売れすぎな気もするんだ。確かにこの花は特別なものだけど……花束じゃなくて箱詰めで買い占めていくなんてね。それも来るのは少し変わったお客さんばかりだ」
「そうね……今まで買ってくれた人たちは急に来なくなったものね」
夫婦は故郷から持ち込んだ黒い花を売って生計を立てている。
最初はとてもそれだけで食べていけるだけの収入は得られなかったが、香りを嗅ぐだけで気持ちが良くなると評判になり 花自体の美しさもあって飛ぶように売れていった。
「でも、どんな人だろうと買ってもらえるのは素直に嬉しいな」
「ふふふ、こんなに素敵な家に住めるようになるなんて夢にも思わなかったわ。今でも信じられないくらい」
「ははは、向こうに居る弟が聞いたら驚くだろうね」
その日の糧を得る事すら難儀した夫婦はいつしか小さな一軒家を借り、落ち着いた生活を手に入れることが出来るようになっていた。
「……ここに来てから四年、かな」
「もうそんなに経つのね……」
二人は窓際の花壇で育てている黒い花に目をやり、今は遠き故郷に思いを馳せた。
花はまだ小さな蕾の状態だ。美しい花弁を咲かせるには少し時間がかかるだろう。他にも別室で新しい黒い花を育成しているが、それでも追いつかない程にこの花には多くの買い手がついている。
黒い花は夫婦が生まれた世界でも特別な意味を持つ。
その世界の人間の生活圏はほぼ植物に囲まれており、文明レベルは16世紀未満とこちら側とは大幅に開きがある。電気、ガスといった物は当然存在せず、目立つような独自技術も確立されていない。
そしてこの世界との決定的な違いが、彼らの世界では人類が捕食される側にあると言う事だ。
「弟たちは、元気にしているだろうか」
「……大丈夫よ、きっと」
「ヴリトラの数は年々増えていく一方だった……あれからもう4年だ。いずれ僕たちの郷も」
「もう! またそんなこと言って!!」
「す、すまない」
その世界には【ヴリトラ】と名付けられた異世界種が存在し、その種類や大きさは多様に渡る。
大多数のヴリトラが凶暴な肉食動物であり、その世界の人間達はヴリトラから隠れながら細々と生活している。ヴリトラの力は圧倒的であり、一番小さな大型犬サイズの個体でも【郷】と呼ばれる彼らの居住域を単独で壊滅させてしまう程だ。最も巨大なものでは数百mを超える個体も存在する。
そんな人類種の天敵であるヴリトラから、彼らを守っているのがこの黒い花だ。
「でも、ヴリトラが増えるからこの花も咲き誇る……複雑だね」
「花が咲いている限りは大丈夫よ……きっと、みんな元気にしているわ」
黒い花はヴリトラの死骸や老廃物から発生する。その花から発せられる【香り】はヴリトラを追い払う効果があり、人間達はその花を郷の近くに植える事で天敵の襲撃を防いでいるのだ。
……だがその花はヴリトラを追い払う力を持つ他に、もう一つの効果を持っていた。