35
「ただいま……みんな、今帰ったわよ」
生家に辿り着いたキャロラインは無意識に呟く。
だが、無人の屋敷はキャロラインの挨拶に凍りつくような静寂で答えた。
「……わかってるよ。みんな、死んだんだから」
此処にはもう、彼女が愛した家族はいない。家族は80年前に死んだ。
「……ううっ……」
その事実を改めて実感し、キャロラインの瞳には再び涙が浮かぶ。
溢れ出る涙を拭おうとすると、手が届くよりも先に触手が彼女の涙を拭った。ふと自分の手を見つめると、いつの間にか手の平が真っ黒に染まっている事に気がついた。
「え……」
皮膚の中から黒く蠢く染みが滲み出て彼女の肌を覆っていく。
手に続いて足も、胸も、首筋も、身につけている白いワンピースまでも黒く染まっていく。彼女は瞬時に理解した、自分はもう人ではなくなってしまったのだと。
「こんな姿になるなんて、書いてなかったじゃない……」
「なんだ……、どうかしたのか……?」
エイトは薄れゆく意識を気合で繋ぎ留め、彼女に声をかける。
触手で顔を覆われたエイトには今のキャロラインがどんな姿になっているのかよく見えなかった。
「何でもないわ……、気にしないで」
「そうか……」
キャロラインはエイトをリビングに運び、そっとソファーの上に座らせた。
冷たい風が吹き込むので周囲を見渡すと、リビングの壁に赤黒い怪物がぶち破って出来た大きな穴が空いていた。
壁だけでなく屋根にも親愛なる友人が魔法でぶち抜いて出来た穴がぽっかりと大口を空けており、思わずキャロラインは笑ってしまった。
「あはは……家が台無しじゃない。ドリーったら、酷いことするんだから」
「ああ……あのお嬢は酷いことしかしねえよ」
「でも、私には本当に優しかったのよ。小さい頃からよく話し相手になってくれたの」
「そっか……お前には、優しいお姉さんだったんだな……」
「ええ、大好きだったわ。今は大嫌いになったけど」
エイトの隣にキャロラインは腰掛け、屋根の穴から空を見上げた。
あれほど厚く空を覆っていた雲は晴れ、暖かな日差しが屋敷の中に差し込んできた。冬がもう間近に控えているというのに日差しはとても暖かく、二人を静かに照らし出す。
「エイト……、言っていい?」
「何だよ……」
「私ね、好きな人がいたの」
「……」
突然の告白にエイトは沈黙した。
「……そう、か」
「もう……とっくに死んじゃってるだろうけどね」
「どんな奴、だった?」
「……別にいいじゃない。それに……」
エイトは多数の銃弾を受けており、このままでは出血多量で死亡してしまう。
そこでキャロラインは決心した。上手くいくかはわからないが、エイトを救う為に思いついた事を実行しようと思ったのだ。
「新しく気になる人が出来たの……」
今のキャロラインも、エイトの為なら何でも出来る気がした。
「……あ?」
「口が悪いし、最低だし、カッコ悪いし、老け顔だし」
「おい……」
「何より弱いくせに口だけが達者なの。本当に、最低な人……」
「……」
「でもね、そんな最低な人だけど……言っておきたいことがあるの」
エイトの顔を覆う触手を解き、キャロラインは微かに開いた彼の目を見つめる。
エイトの瞳に映るのは、顔以外の全身が黒い染みに覆われて【人為らざるもの】と化したキャロラインの姿だった。
「……」
だが、不思議とその姿を醜いとは思わなかった。
「はは……その黒いドレス、よく似合ってるじゃないか」
「……ッ」
「スタイルもいいし、美人だし……お前は、いいところに貰ってもらえるぞ」
エイトにはキャロラインの姿が黒いウェディングドレスを身に纏う花嫁のように見え、その美しさに彼は本気で見惚れてしまった。
エイトもまた、キャロラインに惹かれつつあったのだ。
「……聞いて、くれる?」
「……ああ?」
「私は、貴方が好き」
自分の想いを伝えた後、キャロラインはエイトの頬に黒い両手で優しく触れ、彼と口づけを交わす。
彼女の舌は彼の舌に絡みついたまま下顎に抑えつけ、【暖かい何か】がエイトの口内に入り込んでいく。
思わず彼は目を見開いて痙攣するが、その柔らかな唇に触れる感触が心地よくてそのまま彼女に身を任せていた。
「……ぷはっ」
「げほっげほっ! 何だ……何を……ッ」
「エイト、好きよ」
「……おう」
「だから、あの約束……忘れないでいてね」
キャロラインは跳躍時計を取り出し、文字盤を覆い隠していた純金の蓋を開ける。
ついに彼女が時計の呪縛から解き放たれ、元の時代に戻る時が訪れた。
だが、その時代で待ち受けているのは80年前の何も知らないドロシーと、体内に卵を産み付けられ悪魔の子を宿してしまった母親と妹との邂逅だ。
ドロシー達は突然現れた【黒い異形の花嫁】が、終わらない地獄から帰還した80年後のキャロラインであると認識する事は出来ないだろう。
そして今、目的も意図も分からずじまいであった触手の魔人の正体が明かされた。
あの魔人こそが、80年前に帰還したキャロラインの成れの果てなのだ。
「ああ、過去に行っても……俺が」
「跳躍時計で時間を飛び越えられるのは、一人だけなの」
「……!?」
「だから、ここでお別れよ」
跳躍時計が別の時代に跳躍させる事ができる人間は一人だけだ。
当然、それは使用者に限られる。例え別の時代で出会った人物と関係を深めても共に過ごせるのは僅か一年間のみ。
最初から、エイトとキャロラインには こんな結末 しか残されていなかったのだ。
この時代のドロシーや魔法使いがそうしたように、80年前の人々も杖を向けるのだろう。人の姿を失い、触手の魔人と化したキャロラインにはもう居場所など残されていないのだから。
「……そう、か」
「それでも、覚えていてくれる?」
「……覚えていたらどうするんだよ。お前が、97歳まで長生きして会いに来るっていうのか……?」
「答えてよ、エイト」
「……」
触手の魔人となった彼女はエイトとかつての自分である31人目のキャロラインを守る為に陰ながら手助けしていた。
エイト達が逃げる先々に現れて二人が逃げる好機を作り出していたのも、ライザー・レイバックから跳躍時計を取り戻して31人目の彼女に手渡したのも、全てはこの瞬間を迎えさせる為だった。
「……答えてくれないの?」
「……お前なぁ、ちょっとは気持ちの整理を」
「嫌よ、時間がないもの」
マッケンジー邸の前に魔法使い達が到着する。
彼らに続いて警官の増援も続々と向かってきており、街に鳴り響くサイレンはちょっとした嫌がらせになっていた。
「……ああ、忘れねえよ。お前の人生は、俺が貰ってやる」
「ふふふっ」
キャロラインの後頭部から白い骨の花弁が生えてくる。
それは人であった頃の面影を辛うじて残していた彼女の美しい顔を覆い隠そうとするが、それでもエイトは彼女から目を背けることは無かった。
「……もう 行かなきゃ」
「……そうか」
「次に会うとき……貴方はきっと私のことを化け物と呼ぶでしょうね」
「言わねえよ」
キャロラインはエイトの返答に、思わず目に涙を浮かべる。
「……嘘が 下手ね」
胸を焼くような痛みが襲い、泣き叫びそうになるが彼女は堪えた。
「俺は、嘘はつかない。だから……」
「だから……?」
「いいや、次会うときまで言わないでおく……」
エイトはもう既に決めていた、例えキャロラインが人の姿を失おうとも彼女との約束を果たす事を。それに気づいた彼女は改めて思った。
この男と共に、これからも生きていたいと。
「……やっぱり 最低よ、貴方」
「はははっ……」
「ふふっ……」
歪な白い花弁が重なって形作られた【白い仮面】が己の顔を覆う前に、キャロラインはエイトの頬に触れて言った。
自分の為に命をかけてくれた最低な男に、涙に濡れた儚くも美しい笑みを向けて。
「……ありがとう、エイト。そして、今は さようなら」