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「なぁ……なぁ! もうすぐ着くぞ! あれだろ! あの大きな屋敷だよな!?」
「……」
「なぁ、まだ死ぬなって!!」
エイトは必死にキャロラインに声をかけながらマッケンジー邸を目指していた。
「エイト……私、ちょっと変なの」
「何だよ!?」
「怪我をしたのにね、痛くないの……血も止まったみたい」
「はぁ!?」
「見てよほら、私の胸……傷がもう治っちゃった」
エイトに抱き上げられるキャロラインは自分の血で真っ赤に染まったワンピースの胸元をめくり、彼に傷があった場所を見せる。
「……ッ!!」
エイトは一瞬見た後、すぐに視線を前に戻した。
彼女の胸元にある筈の傷は既に塞がっていた……そして、彼には見えてしまった。
キャロラインの皮膚の下で、何かが蠢いていたのを。
「さっきから体の中をね、何かが動き回っている感じがするの……」
時刻は午後2時前、幼体がキャロラインの体を突き破るまでまだ1時間は残されている筈だった。
しかし彼女の体には不気味な変化が起きており、まるで体内から【黒い触手】が彼女の体を侵食しているようだった。
それ以前にもキャロラインはケイルスによって右腕を傷つけられ、そして屋敷から裸足で逃げ出したために足裏を負傷していたというのにその傷は短時間で完治してしまっている。
しかしエイトは敢えて深く考えようとはしなかった、考えたくなかったからだ。
「何も言うな……もう着くからよ……」
「でもね、全然気持ち悪くないのよ……どうしてかしら、体の中が暖かくて……」
「頼むよ、あと少しで」
マッケンジー邸まであと数十mと言うところで、屋敷前の横道から急行してきた3台のパトカーがエイト達の行く手を塞いだ。
「そこの男、止まりなさい!!」
車から降りた四人の警官は銃を彼らに向け、足を止めるように要求する。
「……止まらねぇよ、バーカ」
だがエイトは既に覚悟を決めていた、キャロラインを必ずあの屋敷に届けると。
彼女の為に、この生命をかける事を。
「しっかり捕まってろよ、キャロライン」
「エイト……、何をする気なの?」
「何でもしてやるっていったろ?」
「……!」
「止まりなさい! 止まっ……、対象に抵抗の意思有り! 無力化する!!」
警官達はエイトに向けて銃弾を放った。
エイトは発砲される直前に力の限り地面を蹴り、15mもの高さまで跳躍して道を塞ぐ警官達とパトカーを飛び越える。しかし、問題は着地した後だ。どうやっても着地した瞬間は完全に無防備になってしまう。
彼らは決してその隙を逃さないだろう、だが今のエイトにはそんな事はどうでもよかった。
キャロラインが屋敷の中に辿り着ければ、それでいいのだから。
エイトはマッケンジー邸の庭に着地し、数秒の硬直の後走り出そうとするが、背後からは銃声が聞こえ────……
彼の背中に数発の銃弾がめり込んだ。
「……がっ!」
最初に感じたのは鈍い衝撃だった。
続いて伝わったのは仄かな熱。じわじわと、まるで水面に広がる波紋のように背中を伝い……頭がそれを痛みだと理解した途端に熱は苦痛へと変わった。
(これくらい何だ、こいつはもっと酷い目に遭ってきた)
(あと少しでいい、あのドアを蹴破って中に入るまで動ければいいんだ)
エイトは歯を食いしばり、痛みを堪えて駆け出す。
「エイトッ!」
「黙ってろ……ッ!」
エイトの背部に更に弾丸が二発命中する。
「っがぁ……ッ!!」
そしてエイトの左肩にもう一発、銃弾がめり込む。
(駄目だ、止まるな! 走るんだ……あと少し……)
両腕でキャロラインを抱える事ができなくなり、片腕で彼女の体重を支えようとするが右脇腹にめり込んだ銃弾は、それすらも許さなかった。
「く……っっそおあぁああああああ!!!!」
動きが鈍ったところで右大腿骨に銃弾が命中し、ついに彼は走る事もできなくなる。
(命を捨てても、届かねえのかよ……ッ)
屋敷のドアを目前にしてエイトは力尽き、キャロラインに覆いかぶさるように倒れ込んだ。
「エイトッ!!」
キャロラインは思わずエイトの名を叫び、血塗れになった彼の体を必死に揺する。
「エイト! エイト……ッ!!」
その男の命が脅かされた時、彼女はようやく自分の気持ちに気付いたのだ。
「何でよ、何で……ッ!!」
「悪い……、やっぱ命かけても無理だったわ……」
「駄目よ、死ななきゃいけないのは私なの……貴方は、貴方は!」
「……悪い、ちょっと……休ませてくれ」
「エイト────ッ!!」
警官達は銃を手にしたまま、動かなくなったエイトとキャロラインに近づく。
「あ……」
今からエイトを押しのけても、目の前のドアを開けて屋敷内に入るのは無理だろう。手を伸ばせばドアに手が届くというのに、その僅か数十cmの距離があまりにも遠すぎた。
(どうして、エイトが撃たれるの?)
キャロラインには再び周囲の時間の流れが遅く感じ取れるようになった。
(私を、助けたから? 私を助けたからエイトは撃たれたの? どうして……私を助けることがそんなに悪いことだったの??)
銃を構えた警官がゆっくりと時間をかけて近づく。
その間、キャロラインの脳裏には様々な感情が駆け巡った。
不意に思い出す、愛する家族達の顔。
病に冒されながらも大きな幸せを感じていたあの頃、病弱な自分を気遣い、いつも優しく接してくれたドロシーや大賢者の顔、その幸せな日々を打ち砕いた悪魔の顔……
(私は……ただ、生きたかっただけなのに)
そして、追われる自分に手を伸ばしてくれたエイトの顔。
(私は……、私はただ、もう少しだけこの人と……ッ!!)
一人の警官がキャロラインに向けて一発の銃弾を放った。
それは緩やかに速度を上げて彼女に向かう。逃れられない死が目前に迫った時、彼女は心の中で叫んだ。
(私は、私は……生きたい! 生きていたい!!)
キャロラインが心の中で生への渇望を吐露した瞬間、彼女の背部から数本の【黒い触手】が伸びた。
────ギュルンッ!
それは眼前に迫る弾丸を払い除けたあと、呆気にとられる警官達に襲いかかった。
「な、何……ぐあああっ!」
「うわああああああああっ!!」
「がはぁっ!」
「何だ! 何が……何が起きて……ッ!?」
触手はまるで漆黒の鞭のように彼らの身体を激しく打ち据え、後方に弾き飛ばす。
「う、うわっ……!」
四人目の警官を顔面への一撃で気絶させた後、黒い触手はキャロラインの背中に戻っていった。
「……何よ、これ」
キャロラインは戦慄する……目の前の出来事が現実だと信じられなかったからだ。
だが背中に感じる違和感、そして体の中で何かが這い回るような感覚から自分の体に決定的な変化が起きた事を理解した。
「……エイト!」
我に戻ったキャロラインは急いでエイトを起き上がらせようとする。
「ねぇエイト! エイト! 起きて!!」
「……」
しかしエイトは硬く目を閉ざし、項垂れたまま動かない。
「お願い、死なないで……ねぇ! お願い!!」
「……」
「エイト……ッ!」
「生きてるよ……」
エイトはキャロラインの叫びに か細い声で答えた。
重傷を負い、血が止めど無く流れ出ているが彼はまだ生きていた。しかしもう立ち上がるだけの力は残されていない。
(血が止まらない……まずは止血しなきゃ。とにかく傷を押さえて……血を……)
キャロラインは咄嗟に背中の触手を伸ばして彼の身体に巻きつけた。
「……なんだ、これ」
「私にも、わからないわ……多分、私の考えるとおりに動いてくれているんだと思う……」
「そっか……もう、何だっていいや。おら、早く屋敷の中に入れよ……」
「……」
キャロラインはエイトが失血死しないよう、触手で全身を包み込みながら優しく持ち上げる。
背中から生える触手は男一人を軽く持ち上げるだけの力があり、尚且つ彼女の体に負担は一切かかっていない。
「……ふふ、何よこれ……もう化け物じゃないの」
キャロラインは悲しげな顔で呟きながらドアを開け、エイトと共に屋敷に入って鍵を閉める。
「ぐ……、こちら第1班……無力化に失敗、至急応援を……」
辛うじて意識を保ち、その一部始終を見ていた警官の一人が無線機を手に連絡を取った。