22
翌々日の午前8時、グリーン・ダウン・チェイス当日。
「ようこそおいでくださいました、それでは良い一日を」
「ありがとう。楽しませてもらうよ」
白いスーツを着こなす痩せ型の男が入界審査も受けずに検問所を通される。
「あれー? あの人の荷物審査は良いんですかー??」
審査も無しに男を通した同僚に角の生えた受付嬢が問う。
「……あの人は良いんだよ」
「そうなんですかー、ふーん」
「ほら、交代だぞ。後は頼む」
「あ、はいはーい。おまかせをー」
同僚は彼女に交代し、いそいそと検問所を出ていった。
「……ふぅん、まぁいいでしょう」
角の生えた受付嬢はぐっと背伸びをしてから席に付き、気怠げに次の番号を呼ぶ。
「えーと、番号札1022の方ー。1022の方ー、いらっしゃいませんかー?」
「今日はいい天気になって本当に良かった。素晴らしいレースが見れそうだ」
検問所を抜け、旅行者用の白い門【太陽の扉】から街に入ったスーツの男は楽しそうに言う。
「お待ちしておりました、フェッチャー様」
「ああ、今日もよろしく頼むよ」
スーツの男、フェッチャーの迎えに来た競馬場のガイドが車に案内する。
「私の馬はちゃんと来ているだろうね?」
「はい、既に手配は済ませております」
「それは良かった、あの馬がいないとお話にならないからね」
フェッチャーを乗せた車はグリーン・ダウン・パーク競馬場に向けて発進した。
「ああ、ちゃんとご飯はあげてるね? あの子は好みにうるさいんだ」
「……ご要望どおり餌として生きた異人を数人ほど用意しています」
「良かった。この前はご飯が届かなくて大荒れしてね、仕方なくうちの使用人をあげたんだ。でも人間の肉は食い飽きたようでね」
「……」
「ははは、そんな顔しないでくれ。君を餌にしたりはしないさ、あの子は異人の肉が好きなんだ」
まるで可愛いペットの偏食ぶりを自慢しているかのように話すフェッチャーにガイドは目を曇らせる。
「しかし、本当に宜しいのですか? その……」
「ああ、今回は薬は無しだ。私の馬と真っ向から戦わせてみたい」
「……」
「楽しみだな、私の可愛いリームスとあのラディウスの子供……どちらが速いだろうか」
フェッチャーは子供のように目を輝かせながら窓の外を見つめる。
同席するガイドと運転手は紳士的な外観に見合わぬ悍ましい闇を覗かせる彼に背筋を凍らせ、早く競馬場に着かないかと切に願った。
◇◇◇◇
「どうだ、ブリジット。勝てそうか?」
「愚問だな」
場所は変わってグリーン・ダウン・パーク競馬場のジョッキールーム。
準備を終えたブリジットは心配そうに声をかけるベッカーに自信満々で言う。
「私が乗るヴェントゥスが負けるはずがないだろう」
ふふんと鼻を鳴らすブリジットにベッカーは小さく溜め息を吐いた。
「……全く、騎士様ってのは凄いんだなぁ」
「当然だ」
「他の騎手に因縁つけられないかとヒヤヒヤさせられたが、逆にアイツらを黙らせるんだもんな。お前、本当に女か? 何で屈強な男に集られてビビらないんだよ」
「男に囲まれるのは慣れているからな。手を出さずに言葉だけで威圧しようとする相手など物の数ではない」
サラリと凄いことを言うブリジット。
相変わらずな大物ぶりを発揮する彼女にベッカーは今日も感服させられる。
『騎手番号4番のブリジットさん。特別検量室にいらしてください』
「むっ」
「呼ばれてるぞ、行って来い」
「わかった、行ってくる」
ブリジットはすっくと立ち上がる。
「……まぁ、その……なんだ」
「何だ?」
「……いいや、レースが終わってから言うよ」
ベッカーは照れくさそうにそっと手を差し出す。
「アイツを頼むぞ、ブリジット」
「任せろ、ベッカー」
ブリジットはベッカーと握手を交わし、彼女のために特別に用意された検量室へと向かった。
「……何だよ、ちゃんとしたらイイ女じゃねえか」
出会ってから数日。最初は『コイツはやべえ』とか『女として見たら負け』だの散々な評価を下していた彼だが、彼女と過ごす内にその評価はアッサリと改められた。
そして確信していた。彼女を乗せたヴェントゥスは父親を越える名馬になると。
今日のレースを見た観客達にヴェントゥスの名は深く刻まれるだろう。
負けるはずがない。一昨日と昨日と二人の走りを間近で見ていた彼は心の底からそう信じていた。
「ははっ、他の騎手と馬には悪いけど。今日の主役はアイツらだな」
ベッカーが上機嫌に控室を出ると、ちょうど此処に到着したフェッチャーがスカマーと楽しそうに会話していた。
「はははっ、本当に今日を楽しみにしていたんだよ。君に会いたくて会いたくてねぇ」
「会いたかったのは私じゃなくて馬だろう? 顔を見ればわかるぞ」
「……あの野郎」
彼の顔を見た途端にベッカーの表情は険しくなる。
「まぁ、いいさ。今は精々いい気分に浸っておけよ、後でそのムカつく顔がだらしねぇ泣き顔に変わるんだからな」
忌々しいフェッチャーにそう吐き捨て、足早にその場から去ろうとした瞬間……
「ところで、約束通りヴェントゥスという馬にだけは薬を打っていないだろうね?」
楽しげに笑う彼の口から信じられない言葉が飛び出した。