18
「余程走るのが好きなのか、ずっと走っているな」
ヴェントゥスはあれから休みなく草原を駆けている。
このグリーン・ダウン・パーク競馬場が有する敷地は保護区に隣接している事もあって広大だが、それでもヴェントゥスの健脚の前では少々狭苦しく感じられる。
「さて、そろそろ身体を洗ってやるか。汗もかいただろうし」
「おい、ちょっといいか!」
「む?」
「少し話がある!」
ベッカーがブリジットの所に駆け足で戻ってくる。
「私に話だと?」
「実は……その……」
「? どうした、私に話があるんじゃないのか?」
しかし彼女の目前に立ったところで言い淀む。
一度、ブリジットに騎手を頼んだがすぐに断られてしまったからだ。
「ハッキリと言わないか」
「実は……ヴェントゥスの騎手になってもらいたんだ」
「断る」
「だよね!」
案の定、即拒否されてベッカーは地団駄を踏む。
「だが、これはオーナーのお願いでもあるんだよ! 明後日にこの競馬場でレースが開催されるんだが、それにヴェントゥスを出馬させたいらしいんだ!!」
「そうか、だが他を当たってくれ……私はあの馬の騎手になるつもりはない」
「だから、お前にしか乗れないんだよ! それにレースにはヴェントゥスの親父と因縁のある相手の馬が出るんだ!!」
「ふむ?」
「そいつの馬にラディウスが負けてから、ヴェントゥスはああなっちまったんだよ!!」
ベッカーは感情の籠もった声で言う。
「……お前の言うあの時とはその事か?」
「……そうだ。フェッチャーっていう奴なんだがな、そいつの馬にラディウスは負けたんだ」
「ラディウスよりもその馬が」
「速くなんてなかった! むしろ他の馬よりも遅いくらいだ! そんな馬にアイツは完敗しちまったんだよ!!」
「……」
「そいつに負けてから……ラディウスは勝てなくなった。日に日に弱っていって、その勝負の一週間後には立つこともできなくなっちまったんだ」
ベッカーは悔しげに拳を握りながら話を続ける。
「それで、その馬はどうなった?」
「……処分されたよ。走れなくなった馬の面倒なんて、誰も見てくれねぇ」
「……そうか」
「明後日に、そのフェッチャーの馬が出るんだ。そいつがヴェントゥスと自分の馬を勝負させたいってよ! だから……」
ブリジットの肩を掴み、ベッカーは俯きながら言う。
「……頼むよ、ブリジットにしかできないんだ。アイツに、勝たせてやってくれ……!」
自分の言葉がどれほど無責任なものであるか。ベッカーには最初からわかっていた。
そもそもヴェントゥスがブリジットを『乗せたくない』と言っているのだ。
レースに出馬する以前に、彼が彼女を受け入れなければ話にならない。
それにあの馬が素直に競馬に出ることを承諾するとは思えない。
猿の親戚と唾棄する人間達の前に出るだけでなく、彼らの興じる賭け事のチップにされてしまうのだ。
「……」
あのヴェントゥスが許諾できる筈がない。
「……期待はしない方がいいぞ」
「……わかってる。どうしても無理なら、俺からオーナーに頭を下げてくる」
「……ふぅ」
ブリジットは小さく溜め息をついた後、唇に指を当ててピィーッと指笛を鳴らす。
〈ぶるるるっ!〉
その音を聞いたヴェントゥスが彼女の方に振り向いて戻ってくる。
「よしよし」
「な、何だ!?」
「馬というのは耳がとても良いからな。下手に声を出すよりもこういう音の方が寄ってくる……アイツは頭が良いので教えずと『私が呼んでいる』とわかるはずだ」
「……いつのまにそこまで仲良くなったんだ」
「別に仲良くはなれていないぞ」
〈ぶるるるるぅっ!〉
ブリジットのところまで戻ったところでヴェントゥスは挨拶とばかりに地面を蹴る。
〈ぶるああっ!〉
「あの音が気に入らないから文句を言いに来ただけらしい」
「……」
〈ぶるるうううっ!!〉
「さて、ヴェントゥス。少し話があるんだが聞いてもらえるか?」
〈ぶるっ!〉
「さぁ、お前から直接ヴェントゥスに伝えてやれ」
「えっ!?」
「私から言っても意味がないだろう」
「お、俺からコイツにか!?」
ブリジットにさっきの話をヴェントゥスに伝えるように言われ、ベッカーは尻込みする。
「あー……えーと、その」
〈ぶるぁああっ!〉
「ううっ!」
案の定、話しかけようとするとヴェントゥスは威圧する。
「ああ、クソッタレ! たまには俺の話を聞いてくれてもいいじゃねえか! 俺達、結構付き合い長いだろ!?」
しかし、いつもは怯えてばかりのベッカーも今日は負けじと声を張った。
〈ぶるあぁぁああっ!!〉
「あんだけ蹴られそうになって、追いかけ回されて、逃げ出したお前を毎回連れ帰る羽目になってもお前の世話をしてきたのは誰だ! お前の好きな干し草の比率とか! その立派な鬣の手入れとか! 俺以外の誰が出来たっていうんだ!?」
〈るるるるるぅっ!〉
「お、お前が俺が嫌いなのはわかってるけどな! 俺は! お前が嫌いだと思ったことは一度もねぇ!!」
ベッカーはヴェントゥスの目を見ながら今まで溜めてきた心情を吐露する。
「お前が、お前の親父を殺した人間をどれだけ憎んでるとか……そんなの痛いほど伝わってくるよ! 何回も蹴られたし、殺されかけたからな!!」
〈るるるるるっ!〉
「でも、それでも聞いてくれ! 俺は、俺はお前がレースで走る姿が見たいんだ! お前が全力で走る姿を見たいんだ! お前が勝つ所が見たいんだ! お前が、この世界で一番速い馬だっていうのを見せつけて貰いたいんだよ!!」
〈……〉
「わかってるよ! 俺の言ってることがどれだけ滅茶苦茶か……、俺が一番わかってるんだ!!」
ついにヴェントゥスと目を合わせられなくなったベッカーは思わず目を瞑る。
「でも……どうか一度だけ! 一度だけ、お前の本気の走りを見せてくれ! その後は俺を蹴り殺してくれてもいい!!」
ベッカーはそう言って頭を下げた。
〈……〉
「……!」
〈ぶるぁっ!〉
彼の思いの丈を受け止めたヴェントゥスは地面を蹴り、ぷいと背中を向けて厩舎へと戻っていく。
「よく言えたじゃないか」
「……断られたか?」
「ふふふっ」
ベッカーは恐る恐るブリジットに聞く。すると彼女は満足気に笑い……
「事が済んだら蹴りを一発叩き込むとさ。良かったな、蹴り一発で済んで」
あの荒馬相手に我儘を押し通したベッカーの肩を優しくポンと叩いた。
楽しんで頂ければ光栄です(〃´ω`〃)旦~
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どうか紅茶薫る畜生共を宜しくお願い致します。