5
「え、待って? もう少し俺の」
「断る」
「もう少し話を聞けや!」
三度目の断固拒否宣言を叩きつけ、ブリジットはベッカーに背を向けた。
「約束通りこの馬の面倒は私が見よう。だが、私は騎手になるつもりはない」
「な、何でだよ! お前ならそいつに乗れるだろう!? それに金ならオーナーに頼んで他の騎手よりも多めに」
「そういう問題ではない」
ヴェントゥスに触れてブリジットは言う。
「コイツが走りたくない、私を乗せたくないと言っているのだ」
「……は?」
〈ぶるるるるるっ!〉
ブリジットの言葉の意味がわからずにベッカーは首を傾げた。
「お前達の娯楽の為に走るなど御免だ。考えただけでも反吐が出る。死んだほうがマシだ」
「な、何を言ってるんだ?」
「俺をあの駄馬共と一緒にするな。俺は誰の為にも走らない。もう誰も背に乗せない……この女もだ」
「お前……」
「コイツがそう言っている」
〈ぶるるるるるぅっ!〉
不機嫌そうに鼻を鳴らすヴェントゥスを指してブリジットは溜め息を吐いた。
「まさか、ヴェントゥスの言葉がわかるのか!?」
「私は耳が良いんだ、お前達には聞こえない声や音もよく聞き取れるくらいにな」
自慢気に長い耳のピアスをピンと弾くブリジットにベッカーは驚愕した。
〈ぶるるるるっ!〉
「言っておくがあの時の俺はこの女があまりにもしつこいから仕方なく乗せてやっただけで、背中に乗るのを許したわけでは断じて無い。勘違いするなよ、猿」
「さ、猿って……」
〈ぶるるるるるるるっ!!〉
「次にこの女が背中に乗ろうとしたら容赦無く振り落とす。俺が貴様らのような猿の末裔を乗せて走ることは決して無い。死んだほうがマシだ」
「い、いやいや……せめてもう少し俺の話を聞いてから」
〈ぶるぁああああああっ!〉
「黙れ、蹴り殺すぞ猿。先祖よろしく群れてキーキー喚くしか能のない下衆が気安く口を聞くな。失せろ、とくと失せろ……」
「……ひでぇ」
ブリジットが代弁する歯に衣着せぬ容赦ない罵倒の数々にベッカーは消沈する。
嫌われている事は知っていたが、まさかここまでとは。流石の彼もヴェントゥスに対する認識を改めた。
「……まぁ、こんな調子だ。実際はもっと口汚いが」
「もっと汚いの!?」
「正に恨み骨髄に徹するといった様子でな。お前達への恨みは相当深いようだ」
「……いや、何でそこまで……? 別に俺達はヴェントゥスに何もしてないんだが……」
〈ぶるるるるるるっ!!〉
「やはりお前は此処で蹴り殺す。このクソッタレ猿の突然変異が……」
ヴェントゥスは突然、激昂して地面を激しく蹴りながらベッカーを睨みつけた。
「……落ち着け、ヴェントゥス」
〈ぶるぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!〉
「な、ななな何だよっ!?」
〈るぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!〉
「うわぁぁぁぁぁっ!?」
「落ち着けと言っている」
ヴェントゥスの身体を指でそっと撫で、ブリジットは静かな声で彼を宥める。
「お前の脚は彼を蹴るためのものではないだろう」
〈ぶるるっ……!!〉
「その立派な脚は生い茂る草原を風のように駆けるために在る。お前は奴の血で脚を穢したいのか? その穢れた脚で草原を走るつもりか??」
〈るるるぅっ……!〉
「まぁ、どうしてもと言うなら止めはしない。私はお前の主人ではないからな」
そう言ってヴェントゥスから離れ、ブリジットは腕を組んで彼をジッと見据えた。
〈……ぶるんっ!〉
するとヴェントゥスは忌々しげに鼻を鳴らした後、ベッカーに背を向けて厩舎へと戻っていった。
「……アンタ、何者だ?」
「そう言えば自己紹介はまだだったか。私の名前はブリジット。ブリジット・エルル・アグラリエルだ」
「いや、名前じゃなくて……ああ、名前も聞きたかったけどさ」
「む?」
「アイツの言葉がわかったり、怒ったアイツを軽く撫でただけで大人しくしたり……何者なんだよ。アンタは動物を操れる異能力者なのか?」
「さぁ、わからないな。私の種族は当たり前のようにそうしていたから……」
ブリジットはふと空を見上げ、今は遠き故郷を懐かしむような素振りを見せた。
────ズキン。
「……うっ!」
突然、ブリジットを鋭い頭痛が襲う。
「お、おい、どうした!?」
「ぐぅ……っ!」
「大丈夫か!?」
「……だい、じょうぶだ。問題ない……」
痛む頭を抑えながら地面に膝をつく。
何度か深呼吸し、激しい動悸で軋む胸を落ち着かせてからブリジットはぐっと立ち上がった。
「……大丈夫だ、すまない。少し昔のことを思い出しかけてな」
「昔のこと……?」
「昔を思い出しそうになるといつも頭が痛む。何故かはわからない、この世界の医者は脳に異常なしと言っていたが……」
「……!!」
ほんの一瞬だけ目の光を失い、瞳からゾッとするような昏い闇の底を覗かせたブリジットにベッカーはたじろいだ。
「……む、どうかしたか?」
「い、いや。何でも無い……それよりもう休憩の時間だぞ」
「そうなのか、知らなかった」
「休憩所まで案内してやるよ。そこで昼飯でも食って少し休め」
ベッカーはブリジットを連れて休憩所に向かう。
この街出身の人間である彼は異世界出身の異人種への偏見はあまりない。
ただ『外からやってきた異邦人』で、元の世界に帰還する方法が確立されていない為、仕方なくこの街で生活しているといった程度の認識だ。
異世界の独自技術や知識を使って楽に儲けられるのに、どうして異人の娼婦や犯罪者が多いのだろうといつも不思議に思っていた。
(……なんて目をするんだ。あれが人間の目かよ)
(お前の世界で何があったんだよ……)
この歳になるまで碌な目に遭って来なかったベッカーだが、ブリジットが一瞬見せた絶望の瞳を目の当たりにして自分はまだマシな方だったと初めて思えるようになった。