19
「……」
ふとエマリーは天井を見上げた。
壮大かつ壮麗な宗教画が描かれた天井は一部が大きく崩れ落ち、そこには青い空が広がっている。
今の彼女は青い空を見ても、何の感情も抱かない。その瞳は完全に光を失っていた。
「さぁ、お嬢様。こちらへ」
心が砕け、虚ろな表情を浮かべるエマリーの手を取り、ケインは手渡された腕輪を彼女に着けようとした……まさにその時だった。
朽ちた教会から覗く青空をある生き物がゆっくりと通り過ぎる。
「……ッ」
美しい半透明な鯨のような生き物が二頭、その生き物は互いに擦り寄りながら悠々と空を泳ぐ。
その姿を見た途端にエマリーの瞳は大きく開かれ、凍りついていた彼女の心に火が灯る。
〈クゥォオオオオオオ……ン〉
空を泳ぐ鯨の一頭が優しい歌のような声を上げた。
〈クオォォォォン……〉
〈クルルルルゥォォォ……ン〉
〈クォオオオオオオオオ……ンン〉
それに続くように、次々と鯨が鳴き声を上げる。
鯨たちの歌うような鳴き声が、失われていた彼女の声を呼び起こした。
「あ……」
「お目覚めですか? エマリーお嬢様」
「あっ……! あああああっ!!」
エマリーは必死に自分の腕を掴むケインの手を振りほどこうとするが、子供の力ではどうしようもない。
「お嬢様、暴れないでください」
ケインは煩わしそうに彼女を引き寄せ、顔を近づけて言う。
「この腕輪をつけたら、貴女を開放しますから」
「いっ……嫌っ!」
「お嬢様? お父様に会いたくはないのですか?」
「……いっあああっ!!」
ケインはエマリーの腕を骨が軋む程に強く握る。その痛みに彼女は思わず悲鳴を上げる。
「ね? だから大人しくしていてください」
「……お、お母様は」
「はい?」
「お母様は、私のせいで死んだの?」
「何を……」
エマリーはケインの目を涙ながらに見つめた。
「……!?」
エマリーの目を見て何かを感じたのか、ケインは思わず手を放してしまった。
「お母様は、私が生まれなかったら幸せだったの?」
「はい、エマリーお嬢様が生まれなければ彼女は死にませんでした。貴女が居なければ、恐らくは今も貴女のお父様と幸せに」
「それは違うわ、ケイン」
エマリーはケインを睨みつけて言う。
その目には涙が浮かんでいたが、先程までのような虚ろな瞳ではない。
強い意思が宿った瞳……
ローゼンシュタール家当主のカイザルと同じ、誇り高き眼差しだった。
「あの人が私に言ったの。女の人は、愛する人との子供が出来た時……その人の子供を産む時に大きな幸せを感じるんだって」
「……黙れ」
「私は、お父様とお母様の幸せの証なんだって……!」
「黙れ、黙れ」
「例え共に過ごす時間が短くても、お母様は私と過ごした時間が最高の幸せだったって……あの人は教えてくれた!!」
「黙れ! 彼女は死んだんだ! 貴女のせいで!!」
バイクを走らせるマリアは目的地の教会を見つける。
教会の正面入口前にはケインや誘拐屋達が乗ってきたと思われる数台の車が停められていた。
「着きましたわよ……さぁ、どうするの?」
「では、私の言うとおりに動いてください」
アーサーはマリアから手を離し、不敵に笑う。
「ふふん、今日だけですわよ」
マリアは彼が何をしようとしているのかはわからないが、今日だけは彼の指示通りに動くことにした。
「もういい、十分だ。乱暴は働きたくないが、貴女がその気なら仕方ありません」
ケインは腕輪を手に、後退るエマリーに近づく。
「……っ」
エマリーの足は震えてもう走れない、逃げたとしてもすぐに捕まってしまうだろう。
守ってくれる者はいない。助けてくれたあの強くて優しい執事は赤いコートの男に殺されてしまった……それでも、彼女は助けを求めた。
「……助けて」
それは、神に?
「……助けて!」
それとも、父親に?
「助けて……ッ!!」
震えながらもエマリーは、大声で彼の名を叫んだ。
「助けて……、 ア─サ────ッ!!!」
彼女の言葉と同時に、何者かが教会正面の大きなステンドグラスを突き破って現れる。
「!!?」
突然の出来事にケインや誘拐屋達、そして奥で傍観していたハンクスも驚きの表情を浮かべた。
突き破ったグラスの破片は光を反射し、まるで虹の破片のように燦めきながら外の光とともに教会の拝廊に降り注ぐ。
地面に落ちた破片は儚い音を立てながら砕け、更に細かな煌めく光の粒となって辺りに散っていく。
虹の破片が舞い降りる中、まるでそれらを身に纏う神の使徒のように、彼は静かに着地した。
破られたステンドグラスからは光が差し込み、朽ちた教会に現れた一人の男の周囲を照らす。
男はゆっくりと立ち上がり、エマリーに向かって歩を進める。
「あ……、ああ……」
その姿を目にしたエマリーは暫く硬直していたが、再び光を宿した瞳からはやがて止めどなく涙が溢れ、彼女は思わず膝をついて泣いてしまった。
「只今お迎えに参りました、エマリー様」
顔を手で覆って泣き崩れるエマリーの目の前で跪き、老執事は優しい声で呟いた。
「……ッ!」
「遅れて申し訳御座いません」
「アー……サー……ッ!!」
「はい、御身の前に」
エマリーは彼にどんな言葉をかければいいのかわからない。
一日の間にいろんな事が起こりすぎて、彼女の心は既に限界を超えていた。
しかし不思議と顔には笑顔が浮かんだ。
彼は死んでなどいなかった。
そして今、自分をまた助けに来てくれたのだ。
「少しの間、物陰に隠れてお待ちください」
「私……ッ、私は……ッ!」
「大丈夫、心配いりません。すぐに終わらせますから」
アーサーはエマリーの肩に優しく触れる。
「貴女に涙は似合いません。やはり、笑ったお顔が一番ですよ」
老執事は彼女の涙を指先でそっと拭い、優しい笑顔を浮かべて言い放った。
「……あっ」
エマリーはアーサーの顔を見て確信した。
やっぱり私は、この老人の事が好きなのだと。