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「ど、どういう意味……」
ドロシーは頬に手を当てて動揺するスコットの膝の上に座る。
「んー……と」
「ホアッ!?」
「それは僕より君のほうが詳しいんじゃない?」
ドロシーはうっすらと頬を染めながらジッとスコットの青い瞳を見つめる。
物欲しそうな顔で彼の紅潮した頬を撫で、コツンと火照った額を合わせた。
「あ、あのっ……」
「……不思議だね、お義母様にはこうすると気持ちが落ち着くって教えられたけど」
「……」
「どうしよう、落ち着かないよ」
スコットは自分の膝上に伝わる柔らかいお尻の感触と、額を合わせたまま少し息を荒げるドロシーに不本意ながら興奮した。
(く、くそ……! 本当に、本当にこの人は……!!)
そして改めて思った。やはり彼女はとても美しいと。
「……君が相手だからかな」
「こ、紅茶を飲んだからじゃないですかね……」
「ふふっ、そうかもね」
ここでようやくドロシーは額を離す。
「ねぇ、スコット君」
「は、はい」
「……」
「な、何ですか?」
「ううん、何でもないよ」
ドロシーはそう言ってスコットから離れ、高鳴りが治まらない胸に手を当てながらキッチンを出ていく。
(……うん、やっぱり僕にはまだ無理ね)
(僕にそんな勇気はないもの)
ドロシーはスコットに言おうとした言葉を胸に秘めたまま彼の部屋を出ていこうとした。
今日の彼女にはそこまでが限界だった。
「あ、あの! ドロシーさん!?」
ドロシーをスコットは呼び止める。
「一旦、あの家に戻るわ。お昼をまだ食べてないから」
「え、あっ……はい」
「スコット君も来る?」
\ピンポーン/
ドロシーが逃げるように家に戻ろうとした時、空気を読まないインターホンが再び鳴り響いた……
「……出ないわね」
スコットの住む205号室のドアの前には老執事とルナが立っていた。
「二人共、お出かけ中なのでは?」
「それなら良いのだけど」
インターホンを押し続けているのにスコットが顔を出さない事に胸騒ぎを覚え、ルナはそっとドアノブに触る。
「あら……?」
そのドアに鍵はかかっていなかった。
「おや、鍵がかかっていませんね」
「不用心な子ね。駄目よ、戸締まりはちゃんとしなきゃ」
ルナは鍵のかかっていないドアを開ける。
そしてドアを開けた瞬間に鼻を突いた匂いに彼女は表情を変え、同じ匂いを感じ取った老執事が咄嗟に彼女の手を押さえる。
「ルナ様、お下がりください」
直様ルナを退かせて老執事がドアを開いた。
「……これはやられましたな」
彼の目に飛び込んできたのは血。玄関に、壁に、天井に、誰かの赤い血が飛び散っていた。
「……アーサー?」
「……少しここでお待ちを」
玄関先に残されたドロシーの乗り物鞄にも血がこびり付いている。
老執事は気配を殺しながら血塗れの玄関に足を踏み入れ、鞄に手を触れながら二人の名前を呼ぶ。
「そこに居られるのですか、お嬢様? スコット様?」
勿論、返事が返ってくるとは思っていない。
この声掛けは部屋に誰かが居るかどうかを確かめる為のものだ。
その声に反応する何者かの気配を感じ取ろうと老執事は数秒ほど神経を研ぎ澄ませる。
「……ルナ様、此方へ」
この部屋には誰もいない事を確認してからルナを呼んだ。
「……酷いわね。この血は」
「恐らく、スコット様の血です。かなりの深手を負っているようですな」
玄関からリビングにかけて血の跡が続いている。
恐らくは老執事とルナがこの部屋に来る前に訪れた何者かの襲撃を受けてしまった。
二人共攫われたか、もしくはドロシーだけが攫われてスコットがその後を追ったのだと思われる。
「いやはや、この展開は予想外でしたな」
老執事の表情に小さな笑みが浮かぶ。
「笑い事じゃないわよ、アーサー?」
「はて、私は笑っているのですか?」
「ええ、素敵な笑顔よ」
「困りましたな。笑ったつもりは全く無いのですが……」
この非常事態を前にして無意識に笑う老執事に少しだけ呆れながらルナは部屋に入る。
リビングの窓はまるで大きな化け物に突き破られたかのようにフレームごと歪んでしまっている。
散乱したガラスには血の跡が残り、ベランダに出ると誰かが飛び降りたような痕跡と血の足跡が点々と続いていた。
「この出血ではあまり派手に動かない方が良いのですが、彼にそれを言うのは野暮ですな」
「……先にウィーリーの店に寄ったのが間違いだったかしら」
「あの方の店は反対側でしたからな」
「アーサー、マリアに連絡して。すぐに後を追うわよ」
「かしこまりました、奥様」
老執事は急ぎ携帯を取り出してマリアに連絡する。
昨日のインレ戦に続いて息をつく暇もないトラブルの連続にルナは大きなため息を吐いた。
「……ふふふ、本当に。誰に似たのかしらね」
本人が望んでトラブルに首を突っ込む。
本人が望まずともトラブルに巻き込まれる。
そんな困った体質のドロシーに亡き夫の姿を思い出しながらルナは困った笑みを浮かばせる。
「やっぱりあの子を一人にしちゃ駄目ね」
「はっはっ、全くですな」
「さぁ、あの子を迎えに行きましょう。スコット君も心配よ」
「かしこまりました、奥様」
「奥様はやめなさい」
「申し訳ございません、ルナ様」
血が付かないように裾を上げて部屋を出るルナの後を追って老執事もその場を離れる。
「……まぁ、恐らくはルナ様に似たのだと思いますよ。お嬢様のお転婆ぶりは」
ルナに聞こえないように老執事はボソッと呟いた。