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〈ヴォッ、ヴォッガッ!〉
〈ルルルルルルルルゥッ!!〉
「ひぅっ……!!」
魔猿の視線はアトリから離れない。
その鋭く生え揃った牙から察するにこの怪物は肉食。アトリの柔肌など触れた瞬間に引き裂いてしまう。
キキィィィ……
窓を掻く爪も大型獣を思わせる程に鋭利。特別製の窓ガラスを軽く引っ掻いただけで傷つけてしまうほどだ。
〈ヴッヴルルルッ!〉
〈ルルルルルルゥッ!!〉
恐らくこの怪物はこんなガラスなど簡単に壊せるだけの力がある。
それなのにガラスを突き破らないのは獲物であるアトリの怖がる反応を面白がっているからだ。
バンバンッ
「ひゃあっ!」
〈ヴルルルルルルルルッ!!〉
相手の恐怖を楽しむだけの高度な知能を持つ異界の魔猿。
普通の人間である彼女の手には負えない、正しく恐怖の権化と呼ぶべき化け物だった。
「ど、どうすれば……どうすれば……!」
「お菓子を寄越せぇぇぇぇー!」
「ひいっ!」
「お菓子だァァァァー!」
「ギブミィィィー! フレッシュ・キャンデェェェェェーッ!!」
「ホアアアアーッ!!」
「はうううっ!」
そんな彼女に追い打ちをかける店内のお菓子ゾンビ共。
正気を失ってハロウィンの落し子と化した彼らにはあの魔猿もお菓子を強請る対象にしか見えていない。
ついでにハロウィンを楽しめない可哀想な猿にしか見えていない。
〈ヴァッヴァッヴァッヴァッ!〉
〈ヴォッヴォッ! ヴォヴォッヴォヴォッ!!〉
魔猿達はハロウィン病人の反応を見て手を叩いて笑っている。
変な奴らだと思われているのか、それとも活きの良い肉だと思っているのかは定かではない。
「あう、あう……」
「ハロウィンになれぇぇぇぇー! ハロウィンだぁぁぁぁー!!」
「ハァァーリボォォォ────ゥ!!」
〈ヴァッヴァッ、ヴァヴァッ!〉
〈ルルルルルルルゥッ!!〉
「ひぃい、もうやめて……! 誰か助けて……!!」
怪物と狂人、その両方に追い詰められてついにアトリは頭を抱えて蹲る。
いつも助けてくれる愛する夫は既に病に侵され、助けてくれる相手はいない……
〈ヴォッヴォッヴォッヴォッ!〉
ついに丈夫な窓ガラスにヒビが入る。
もしもあの怪物が窓を破って中に入ってきたらこのお菓子ゾンビ達はあっという間に血祭りにあげられるだろう。
そしてその次に狙われるのは厨房に隠れている常連達だ。
「……ッ!!」
アトリにはもうたった一つしか選択肢が残されていなかった。
「……私が、行くしかないですね」
アトリはギュッと指を噛んで立ち上がる。
迷っている時間はない。そもそも怪物たちにとってこの窓も大した障害にはならないのだから。
「……タクロウさん」
「お前もハロウィンだぁぁぁー!!」
「……愛しています、いつまでも」
窓を叩いて猿二匹を威圧するハロウィンゴリラにそっと抱き着き、アトリは少しだけの勇気と……
「……ハッピーハロウィン」
恐怖に飲まれた体を無理やり動かす為の 狂気 を分けてもらった。
「ハッピーハロウィン?」
「ふふふ、ハロウィン……です。楽しんできますね」
「イエス・ハロウィン!」
「今日から少し、寂しくなっても泣かないでね? あなた」
そしてアトリはハロウィン病人に見守られてドアに近づく。
〈ヴァッヴァッ!〉
〈ヴォヴォヴォヴォーッ!!〉
狙った獲物が自分から餌箱を出ようとする様子を見て魔猿達も興奮し、両手をバンバンと叩いてアトリを待ち構える。
「……こう見えて、私は」
〈ルルルルルルルゥッ!〉
「逃げ足には自信あるんですからっ!!」
アトリは勢いよくドアを開けて走り出す。
〈キヤァァァァァァァァァーッ!!〉
〈ヴァヴァヴァヴァヴァッ!!〉
「私が欲しいなら捕まえてみなさい!」
彼女に残された選択肢、それは自分が囮になって魔猿達を引きつけてあの店から引き離すこと。
「……ッ!」
〈バルルルルルルゥッ!〉
〈ヴァオオオオーッ!!〉
恐らくアトリは魔猿からは逃げられない。
逃げ足が速いと言っても所詮は人間の範疇だ。
あの化け物たちと勝負をしても勝敗は最初から見えている。
〈ヴァアアアアアアアッ!!〉
「まだ、捕まりませんっ!」
アトリが勝っているのはその小柄な体を活かした攻撃の躱しやすさ、そして怪物が入りずらい狭い路地にも難なく逃げ込める小回りの良さ。
〈ヴァルルルッ!〉
〈ヴォヴォヴォッ!!〉
「来なさい! ほら、捕まえて! 私の体は柔らかくて……美味しいですよ!!」
そしてビッグバードの皆を救う為なら躊躇なく自分の身を危険に晒せる決断力だ。
〈ヴォオオオオオオッ!〉
「そう、追いかけてきなさい……!」
一匹の魔猿がアトリの挑発に乗って路地に入ってくる。
彼女はすぐに走り出して徐々に狭くなる奥へ奥へと怪物を誘う。
13番街区の地理をタクロウ達から教えられている彼女はこの狭い道をどう抜ければ外に出られるのか、何処に繋がっているのかを知っている。
〈ルルルルルルルゥゥーッ!!〉
(……怖い……けど! 私が頑張って逃げなきゃ……!!)
〈ヴォヴォヴォヴォヴォッ!〉
(この路地には……!!)
この狭い路地裏がどれだけ危険な場所であるのかも。
〈ヴォオオオーッ!!〉
「きゃあっ!」
ついに魔猿の長い腕がアトリを捕らえる。
怪物は嬉しそうな声を出して彼女を引き寄せ、二つもある醜悪な顔一面に笑みを浮かべた。
〈ヴルルルルッ!〉
「……ごめんなさい、あなた。約束破っちゃいました……」
〈ヴャアアアアアーッ!〉
「此処には絶対に来ちゃ駄目だって……教えられてたのに」
────ドスッ。
〈ヴァッ……!?〉
路地の奥。日も届かない闇の中から黒い槍のような無数の触手が伸びて魔猿の体を貫く。
〈ガ、ヴァッア……ッ!?〉
魔猿は思わずアトリを放し、血の泡を吹き出しながら闇の先に目を凝らした。
『くすくすくす……』
〈ヴァッ、ヴァッ……!?〉
『くすくすくすくすっ……』
聞こえてくる子供のような笑い声。闇の奥からは不気味な白い仮面のような顔がぼうっと浮かび上がり、アトリに小さく会釈した。
〈ヴァ、ヴァギャギャギャッ!〉
「騙して……ごめんなさい。食べられるのは私じゃないの……」
〈ヴォアアアアアアアア!!〉
「貴方なの」
『くす、くすくすくすっ』
魔猿はそのまま黒い触手に引きずり込まれ……
〈ギャァァァァァァァァァァァァアアア!!〉
悲痛な叫び声と、ナニカに貪り食われるような音を残して闇に消えていった。
こんなのが路地裏にいたら管理局の人も行きたくないですよね