〈1〉
"Memento Mori"――汝はやがて死すべきことを記憶せよ――
深い森の中で。蔓の如きしなやかな体をくねらせてそれは草の中を滑るように這い進んでいく。それは空腹であった。しばらく食べ物にありついていない。かつての世界でそれは人間に飼われていた。毎日餌が与えられ出されたものを食べるだけで生きていくことができた。しかしどうだろうか、今では世界は変転しそれは失った本能を研ぎ澄まして自ら狩りをしなければならない。かつてマンニと呼ばれ愛でられたその蛇は先が二股に割れている赤い舌をちょろちょろ覗かせながら大地を滑りやがて目的のもの――哀れな小さなネズミ――を見つけた。その汚れたネズミはマンニにはまだ気づいていないようだった。マンニは影のように静かに近づく、そしてマンニがその凶悪な牙を剥き出しにして――
その刹那、マンニの頭蓋に刃物が突き立てられた。稲妻の発する閃光の如き一瞬の早業である。ネズミは背後を振り向き事態を察するとそそくさと逃げて行った。
少女は蛇の頭蓋からナイフを引き抜いた。亡骸を掴み腰のベルトにしっかり結いつけてある巾着袋に放り込む。
「ごめんね」
彼女はそっと呟くと立ち上がり、深い森の中を再び歩き始めた。これまでしてきたように。
それから数時間後、日が暮れ始め虫たちの鳴き声もそれに応じて違う種類のそれへと変わっていった。少女は歩みを不意に止め、林の茂みの奥から聞こえる音に耳を澄ませた。少女の表情は今日一日中――それとももっと幾日かもしれないが――固いままだったが初めてその表情が和らいだ。彼女がその片方しかない耳で聴き取ったのは川のせせらぎだった。まだまだ前方にあるようだが完全に日が落ちるまでにはたどり着けそうだ。片耳の少女は歩みを早めて音の源に向かっていった。
夕闇の森のオアシス。辺りはほとんど暗くなっていたが少女は川にたどり着いた。その川は彼女の前方にまっすぐ横切るように流れていて彼女の旅路をさえぎっている。向こう岸までの距離はかなりあり、泳いで渡るには今の時期は寒すぎた。だが少なくとも一晩を過ごすにはうってつけの場所だと彼女は思った。ここのところ毎日彼女は木に登り太い幹に背中を預けるようにして休息をとっていたのでそろそろ横になって眠りたかった。この場所ならば向こう岸から“奴ら”がやってきて囲まれる心配はない。少女は満足げな笑みを一瞬浮かべた後に背負っていたリュックを降ろし、その場に座り込んだ。先ほど仕留めた蛇を腰の巾着袋から取り出すとナイフで皮を剥ぎはじめる。月は出ておらず明かりは何もなかったがそれでも少女は手早く効率的に皮を剥いでいった。火をおこすことも考えたがここでは危険だ。万が一川の向こう岸に誰かがいたらここでは目立ちすぎてしまう。少女はかつてマンニと呼ばれ愛玩生物として飼育されていた蛇の皮を全て剥ぐなりその腹にかぶりついた。少女の口にマンニの血が、まるで小さな子供がその口をチョコレートで汚すようにべったりとついたがそれでも少女は気にすることなく貪り続けた。どうせそこの川ですぐに洗えるのだから問題はない。たとえもし洗い流すことができなくても、問題があるだろうか? 今の世界で。
翌朝、少女は太陽の光を感じて目を覚ました。リュックにひっかけてあったベースボールキャップ――彼女はこの帽子を寝るとき以外にはほとんど身に着けている――を手に取り表面に施されている刺繍を見つめた。そこには"Near again(もう一度近くに)"とあった。少女は母の形見であるその帽子を今一度深く被った。また一日が始まるわけだ。
川面の水を手ですくい、勢いよく顔に浴びせた。冷たく気持ちいい。少女は川面に写る自分の顔を見た。目には隈ができ、頬はげっそりとやせ細りそして右の耳は無残に切り取られた痛々しい跡が残っている。少女は忌まわしい記憶を今ひとたび思い起こした。仕方のないことだった。彼女にはそれしか選択肢がなかったのだから。
しばらく彼女は遠い過去の記憶を封じ込めるべく正面対決をすることを決意し川面を見つめていた。そして川面に写る少女の顔の後ろに風のようにすっと死者が写りこんだ。少女は驚きに目を見開き背後を振り向きながら自分の愚かさを呪った。まったくなんて馬鹿なことをしたの? 寝起きで聞こえづらい右後方から迫ってきたにしてもここまで接近されるまで気がつかなかったなんて!
それは今やこの新世界を支配する死者だった。その輝きを失った瞳は重度の白内障患者のように白く濁り、そして虚ろだった。だらりと片耳の少女に向かってのばしている右腕は奇妙な方向を向いている。というのも腕から橈骨が飛び出しており手首はそのまま放置しておくと尺骨だけでは支えきれずいずれ閉めたばかりの蛇口の先から滴る水のように地に落ちていくだろう。左腕は健在で腐った筋肉が一部剥き出しになっておりそこに蛆虫がびっしり湧いている程度である。彼女を引っ掴もうとしているのは主にこの部分だった。少女には腕力はない、掴まれれば死者はもう一度死ぬまでその腐った口で少女に食らいつこうとするだろう。
少女には腕力はない、しかし素早かった。彼女は死者に振り向くのと同時に腰からナイフを引き抜いていた。そのまま目にも止まらぬ芸術的な素早さでそれを死者の腐って柔らかくなった脳梁の奥深くまで一気に突き立てる。死者の動きが動作を停止したロボットのようにぴたりと止まった。彼女は死者の蛆だらけの肩に手を置いて突き刺した時と同じように素早く刃物を引き抜いた。脳を潰された死者はそのまま仰向けに倒れた。
死者が歩いてきた方を見るなり彼女は急いでリュックを背負いなおし、川に沿って歩き始めた。しばらく何も考えないことに意識を集中するように歩いていたが結局少女はもう一度振り返った。
そこでは死者たちが行進していた。彼女が先ほどまで横になっていた地面に今や何体もの死者が生者を求めてさまよっている。今や見慣れた地獄の光景だ。世界は変わり、地獄が日常となった。二度と元には戻らない。
少女はそのことをよく理解していたので再び前を向き歩き出した。もう振り返らなかった。