瑠璃色のうた
二人でいたい。
いつしか思うようになったことだ。
微睡みに緩む顔やご飯を食べる幸せそうな顔、くしゃりと歪めて涙を流す顔、怒ってふいっと逸らした横顔、その後の悪戯に成功した子供のような笑顔。
日々の中で豊かに変わるその彼女の顔を見ていると不意にそう思うことがある。
少し前の僕ではとても考えられないことなのだが、どうやらそうらしいのだ。
いつまで一緒にいたいか、と聞かれれば「ずっと」なのだが、そう言葉にしてしまうことには少しの抵抗がある。
10年、20年、50年、100年、死ぬ時までずっと。言ってしまうのは何てことない。とても簡単なことだと思う。
ただ、実際にずっと一緒にいられるかなどわかるはずもなく、そんな先行きのわからないことを安易に、無責任に言葉にはしたくない。
そして何よりも、そういった所謂『期間』を前提として自分たちの関係に設けたくはないのだ。
「ずっと一緒」そう言うこと、言われることは本来であればとても喜ばれることなのだろう。とても前向きで、幸せな関係性なのだと思う。だから恐らくは僕の頭が固いのだろう。考え過ぎだと人は言うかもしれない。実際よく言われている。
けれど「ずっと」と言葉にしてしまうことによってお互いをお互いの人生に縛り付けてしまうように僕には思えるのだ。
本人の意思とは関係なく縛り付け、縫い付けられた関係。一緒にいることに対して素直な感情は徐々に濁っていき、代わりにある種の義務感や使命感のようなものに囚われていく。
あるかもしれない本心を綺麗とされるもので上から無理やりに塗り込み、固められたようなそんな二人の姿。
そんなものは、望まない。
そんな関係性はいらない。
一切の義務感も、使命感も、縛りもいらない。
「しなけらばいけない」「するべきだ」そういったものは一切いらない。
ただただ「したい」という純粋な願望。それだけがあればいい。それだけであって欲しい。
無理なく、抵抗なく、ただただ一緒に「いたくて」同じ時を重ねた結果、気づいたら死ぬその時まで一緒にいた。そんなのが僕には望ましい。僕たちには望ましい。
それは理想かもしれない。難しいことなのかもしれない。けれど望んでしまうのだからもう仕方がない。
そんなことを考えながら僕は苦笑をもらす。
まったく……本当に変わってしまった。
僕をこんなにしてしまった原因はやはり彼女にあるのだろう。人ひとりの価値観を例え一部とはいえ変えてしまったのだから大したものだ。
彼女はどうなのだろうか?
彼女は変わったのだろうか?
僕が彼女から影響を受けるように、彼女もまた僕から影響を受けているのだとしたら今の彼女は当時この関係性を望んだ彼女と同じままでいるのだろうか?
僕たちの関係を今の彼女はどう思っているだろうか?
そう思いながら前を行く彼女へと視線を向けた。けれどその後ろ姿からは当然そんな心情は推し量れなかった。
僕の視線を感じたのか彼女が僕に振り向いた。
僕がうすく微笑むと彼女もにへらと微笑む。
その笑顔を見て、やはり二人でいられたらいいと改めて思った。
僕たちは夜明けの街を歩いている。
時刻は午前四時頃。早朝だ。
夜明け前とはいえこの時期辺りはまだまだ薄暗い。住宅街は群青色に沈み、立ち込める青い空気は視覚的、体感的にこちらの身を震わせる。
物言わず静まり返っているその街の様はまるで眠りに落ちているかのようだ。
勿論全くの不動無音という訳でもなく、辺りには鳥のさえずりが飛び交い、早起きな人々がたてる生活音が聞こえてくる。どこだかわからないが遠くで犬が吠え、それに呼応するかのようにまた別の犬が吠え始める。数こそ少ないが自動車の往来もあり、たった今も僕たちが歩く横を新聞配達のバイクがすれ違い、ブロロロロロ……と音をたてて赤い光の尾を引きながら走り去っていった。
ただ、それでも日中の街と比較すると明らかに静かで落ち着いており、無駄な色、音が抑えられたこの時間帯の青い街の景色は正直日中のそれよりも僕の心には馴染む。少なくとも僕の心には……。
けれど、それも間もなく終わってしまう。
空を見れば群青色に沈んだ街とは異なり、うっすらと明るくなってきている。それが薄暗いなりにも街の輪郭を浮かび上がらせ、これ以上深く群青の空気に沈み溶け込むのを許さない。
ぼんやりと灯る街灯ももうそろそろその役目を終えるだろう。
未だ眠り続けている街だが、夜明けに伴い徐々に、けれど確実に目覚めていっているのを感じる。
もっとも、否が応にも……とも言えなくもないが。そんなところは人間と大差ないように感じる。
その半覚醒状態の微睡みの街に寝ぼけ眼の学生や社会人の姿が重なり、その様を内心滑稽に思っていると、不意に
「ふふっ…」
僕の前を行く彼女が小さく笑みをこぼした。
「……どうかした?」
何かと思い、そう声をかけると彼女は振り返りこちらを見上げながら「えっとね……」と口を開く。その表情と声は何か微笑ましいものを見て揶揄うような色を帯びている。
「街も朝は苦手なのかなって……さ」
そういって事実彼女は微笑んだ。
彼女の言葉を聞き、僕は初めキョトンとしてしまったが、やがて温かいものが胸の内より広がりだし自身を満たしていくのが分かった。それが心地良く僕も思わずクスッと笑みをこぼした。
まったく……こういうところは本当に気が合う。
「んん…?」
僕の笑みの意味が分からないのだろう、こちらを見上げながら今度は彼女の方がキョトンと首を傾げる。その表情を見るに少々訝しんでいるようだ。
なおも首を傾げ訝しがる彼女に、僕はうんうんと頷き返しうすく笑いながら
「嫌々でも寝坊せずちゃんと決まった時間に起きるだけ人間よりマシかもしれないねぇ……」
と少しの皮肉を込めて返すと、僕の言葉に彼女はぱちぱちと数回瞬きをし、次の瞬間プッと吹きだした。
「あははは…まったくだねー」
そうして僕たちは近所迷惑にならない程度にクスクスと笑った。
※ ※ ※ ※ ※
朝陽がみたいと彼女は言った。
僕は読んでいた本から顔を上げ彼女に振り向くと「ん?」と首を傾げた。
僕の隣に座る彼女は両手でマグカップを持ち、立ち上る湯気にふー……ふー……と息を吹きかけている。
お風呂上がりのため、うすいピンクのパジャマに身を包んだ彼女の身体はわずかに上気しており、その横顔もうっすらと紅潮しているように見える。軽く乾かしたミディアムの髪はまだ少ししっとりとしており、部屋を満たすコーヒーの香りの中に彼女の使用しているシャンプーの香りを感じた。
手に持ったマグカップに口をつけようとしたが思いとどまり、再度ふー……ふー……と冷まし始める。彼女は猫舌なのだ。
「どうしたの?突然」
僕は本を閉じ、改めて彼女に尋ねた。
彼女はこちらには振り向かず、マグカップに視線を落としたまま口を開く。
「なんとなくだよ。朝お散歩したいなーって思ったの」
前みたいにね。そう言って彼女は微笑んだ。
僕は一瞬だけ考えた後すぐに頷いた。
「ん、いいよ」
「…いいの?」
彼女がこちらを見上げてくる。僕が即答したのが意外だったのだろう、ほんの少しだけ驚いた顔をしている。
「言い出したのは君でしょ?」
「そうだけどさ…」
「断る理由はないかな」
そう言うと彼女は一瞬目を見開き僕を見上げていたが、やがて俯くと小声で「そっか…」と呟いた。
その表情はやはり少し驚いていて、どこか申し訳なさそうで、そしてとても嬉しそうだった。
そう断る理由なんてない。
明日は休日で幸い予定もない。自由に使えるまとまった時間があるのだ。
ここのところお互い忙しく、予定がないなんてことは滅多になかった。たまに休みが取れてもお互いの都合は中々噛み合わない。そのため二人でゆっくりと外出することも少なくなっており、お互いに程度の差こそあれそのことに気を揉んでいたように思う。
ならこの機会にその貴重な時間は二人で有意義に使うべきだろう。
忙しいとはいえ休日返上で片づけなければいけないこともないのだ。
それに何より
「ま、結局自分のためでもあるんだよね……」
「……何が?」
僕の呟きに首を傾げキョトンとしている彼女に僕は微笑みながらパタパタと手を振る。
「気にしないで。こっちの話だよ」
「えーーー!気になるじゃんかーーー!」
そう不満そうに彼女は言うと僕の体をガタガタと揺すってくる。「おーしーえーてー!」と彼女は食い下がってきたが僕は笑いながらそれをかわし、結局口を割らなかった。隠すようなことではないが、ここで彼女に言うようなことでもない。
その後も彼女は頬を膨らまし相変わらず不満そうではあったが、僕が頭をポンポンと撫でると納得はしないまでも取り敢えず落ち着いてくれた。
そしてそのまま頭を撫でながら彼女に笑いかける。
「楽しみだね」
「……うん」
彼女はそう頷くとマグカップに口をつけコクリと一口飲んだ。
「おいし」と呟いたその声色はとてもやわらかく温かなものだった。
※ ※ ※ ※ ※
そんな彼女の横顔と声を思い出しながら細い路地を抜け視界がひらけると、そこは大通りだ。
ここらのメイン街道なだけあって早朝ではあるが意外と車通りはある。勿論日中に比べたらガランとしているのは確かなのだが、少ないなりにも自動車は行き交い、ゴーストタウンのような寂寥とした様子はない。心なしか大型トラックが多いように感じる。それ以外のものは休日に出勤する社会人かどこかへ遊びに行く家族連れのものだろうか?何れにせよ早起きなものだ。
目の前を右から左へと横切って行った自動車を目で追っていくと、そのまま道なりに進んで行き、やがて道の先、線路を跨ぐ陸橋へと差し掛かった。緩やかな坂を上っていく自動車は徐々に小さくなっていき早朝の空気の中に消えていく。その自動車が消えていった先に見える空は大分白く明るくなってきており、そこに鎮座している陸橋や僅かばかりにある建物をシルエットとして浮かび上がらせている。
ここは地方都市だ。それも街の中心からは大分離れた地方も地方、田舎といっても何ら差し支えないそんなところ。それ故に高い建物はそれほどない。まったくとまでは言わないまでも、中心地に比べればやはり極端に少ない。都内とは比べようもない。
そして高い建物がない分自然と空が広く感じる。遮り邪魔をするものがないため空がよく見えるのだ。この広い空を僕は割と気に入っている。
都会だろうと田舎だろうと空は等しくそこにある。
けれど、その在り方によってその同じものの感じ方は大分違ってくる。もし今この場が唐突に高層ビル群に様変わりしてしまう様なことがあったとしたら、今見ているこの空も大分印象が変わってしまうのではないだろうか。
もっともそんなことは起こりようもないので比べようもないし、事実どちらがより良いかなどわからない。
案外ビル群の間に覗く空というのもなかなか馬鹿にできないかもしれない。
今度都内に出た時にでも改めて眺めてみようかと思う。
丁度よく信号が青だったため横断歩道を渡り、そのまま舗装された歩道を進む。
僅かばかり立ち並ぶ家や林、電柱の向こう、地平線付近の空は来る日の出に向かって黄色味を帯びていっている。
それに合わせて群青色に沈んでいた街がその輪郭をよりハッキリと浮かび上がらせていく。ただ、それらは皆シルエットとなり、まだその姿のすべてを見せてはくれない
目覚めきっていないのだ。そう感じた。
それでも群青色に沈んでいた街は増していく光によって徐々に瑠璃色に染まっていくように感じた。青く冷たい静謐な空気に街も人も僕たちも包まれている。
僕の前を行く彼女がぶるっと身体を震わせた。
「寒い?」
僕は尋ねながら彼女の顔を覗き込もうとしたが、前を行く彼女の表情は見えなかった。
暖かくなってきているとはいえ、今は三月の下旬。まだ肌寒さは残っている。明け方ともなれば尚更だ。そのことを見越して上着を羽織ってきたのだが、少々甘かったようだ。
「大丈夫だよ」
こちらは見ずにそう彼女は言うが、言葉とは裏腹に自身の腕をさすり、身体を縮こまらせている。
素直じゃない。
一瞬戻ろうかとも思ったが、そこまでの時間的余裕もないことから、結局自分のコートを脱ぐと彼女の肩にかけた。
驚いた彼女がそれに抵抗し不満げな視線を向けてくるが、僕は構わずそのままコートを羽織わせる。
「風邪ひいちゃうよ?」
そう言う彼女の表情は一見不機嫌そうであるが、その中に不安気な色が見え、僕のことを気遣ってくれているのが分かる。それに自然と口元が緩んだ。
「寒いのは得意なんだよ」
暑いのは苦手だけどね。と付け加えると、彼女は「何それー」と言ってどこか呆れたような顔をした。それはよく見る彼女の表情。
彼女は目を逸らし、前を向くと僕がかけたコートの前をかき合わせる。そして前を向いたまま小さな声で一言「ありがと」と呟いた。
それきり僕たちは黙り込んだ。
彼女が前を行き、僕が後ろをついていく。
これが歩く際の僕たちの定位置だ。
これはいつも変わらない。僕が先行することはない。隣り合うこともなければ、手をつなぐことも腕を組むこともない。あくまで彼女が前で僕が後ろ。これが僕たちにとっては一番自然で一番しっくりくる。少なくとも僕たちにとっては。
視線の先、信号と横断歩道の向こうにコンビニの光が見える。
一年中どの時期時間帯であっても変わらないその人工の光。しかし朝と夜の境にあるこの世界においてはどこか異質で、異世界じみたものに感じる。温かそうでもあり、うすら寒く不気味そうでもある。そんなどちらとも取れる光。
ただ、この寒気の中においてはやはり温かそうというのが勝った。
「何か飲む?」
「……そうしよっかな」
「ん……わかったよ」
まだ暫くはこの寒空の下にいるのだ、温かいコーヒーくらいあった方がいいだろう。
交差点に差し掛かると信号は丁度赤になったところだった。
車道から十分に距離を取り立ち止まる。
信号を待ちつつ周囲を眺める。
左手街路樹の立ち並ぶ道路の先には駅があり、その手前にはここら辺ではあまりない高いマンションがそびえ立つ。何階建てか少し気になったが数える気にはなれなかった。
その駅とマンションの間の空が薄いオレンジ色に染まっている。それは瑠璃の空とへと混ざり広がっていくようだ。
僕はこの瞬間の空の色が気に入っている。日の出の瞬間にも勝るかもしれない。
青い静謐な空気に満ち、どこか心を落ち着かせてくれ、一方で僅かばかりの熱をも感じさせてくれるこの空。
瑠璃色の時間。
心に浮かんだその言葉が何かのタイトルのように思え、さらにこの空の中を縦横に走る電線をまるで譜面のように感じたこともあり、この光景を音楽にしたらどのような曲になるだろうかと漠然と思った。
けれど曲作りなどしたことのない、音楽の経験もほぼない、そもそも音楽をロクに知らない僕には曲なんて作れない。
せめて頭の中でイメージするのが精一杯だ。ただそれも曖昧で不安定ですぐに霧散してしまう。
イメージと共にその漠然とした興味も霧散しかけたその時
「え……」
不意に曲が流れた。
曲と言ってもそんな大仰なものではない
視線を前へ向けると彼女が鼻歌を歌っていた。
知らない曲だ。そもそもそんなに知っている曲が多いわけでもないのだが、何れにせよ知らない曲だ。
ただ、どこか落ち着く、静かでゆったりとした曲調。
「何の曲?」
僕が彼女に尋ねると、彼女は歌うのを止め、振り返ることなく前を向いたまま「自作の曲」と答えた。
「どうしたの?…唐突に」
見上げた彼女の視線の先には僕が眺めていた景色。空。
「この景色を曲にしたらどんなかなって思ったんだ」
あんまり上手くないけどねーと言い、彼女はあははと笑うと再び歌いだした。
「あはは……」
まったく本当にこういうところは気が合う。それこそ恐ろしくなるくらいに。
そしてやはりこの子には敵わないということを実感する。
僕が想い描くだけで諦めてしまうものをこの子は諦めない。実際に挑戦し試そうとする。
例え実力や知識、経験が不足していたとしても、見切り発車でも、アドリブでも実行してしまう。
歌だって歌ってみせる。
時と場合によっては無謀ともとれるかもしれない彼女の生き方に、しかし僕は感心してしまっている。
本当に頭が上がらない。
そのため自分にしては幾分か素直に「なんか落ち着く曲だねぇ」と感想を述べたが、彼女は特に何も言わなかった。ただ前を向いて歌い続けている。
そこで信号が青に変わった。
僕たちは再び歩き出し横断歩道を渡っていく。
高くそびえるぼんやりと光るコンビニの看板を横目に、広い駐車場を斜めに横切ると、僕たちは店が放つその光に誘われるようにコンビニの中に入っていった。
扉が開く直前まで彼女は歌い続けていた。
※ ※ ※ ※ ※
自動扉が開き中に踏み入ると、ピロリロリロと入店を告げるチャイムが鳴った。
店のどこからか「いらっしゃいませー」という気だるげな男性の声がする。声はしたがレジを含め見える範囲に店員の姿は見当たらない。品出しでもしているのだろうか。
僕たちは無人のレジの前を素通りしホットドリンクのケースの前で立ち止まった。
「好きなの選んでね」
そう言って彼女に目を向けると、言われるまでもなくすでにそうしているようで、左手の中指を唇の下に当てて飲料ケースの中を熱心に眺めている。
その少々幼く見える仕草に口元をゆるめる。その際少し声が漏れてしまったようで、それに気づいて彼女がこちらを振り向き「何?」と問いかけてきた。
僕が手を振って「何でもないよ」と伝えると、彼女は不思議そうに小首を傾げていたが、僕が顔を前へ向けると彼女も同様に視線を戻した。
あまり迷うことなく缶コーヒーを手に取った僕に対して、彼女はまだ決めかねているようだったため「ちょっと他の棚を見てくるね」と一声残し、僕は店内を特に目的もなく歩いた。時折気になったものを手にとっては戻しながら回っていると、お菓子の棚の前で品出しをしている店員を見つけた。
随分と背の高いがっしりとした体格の男性だ。その長身の割にキビキビとした動作で棚にスナック菓子の袋を陳列していく。
その時丁度彼が手に持っていた菓子には見覚えがあった。
チョコのかかったポテトチップス。
いつだか彼女と食べたことがある。
甘いものが苦手な僕は甘いものは極力食べないようにしている。そのためそのような菓子は普段の僕であればまず口にするようなことはないのだが、あの時は彼女にせがまれて渋々買ったのだった。
嫌なら僕は食べなければいい、そう納得した。
結局「一口だけ、一口だけ」と言う彼女の強い勧めを断りきることもできず、気乗りしないまま一口食べてみると、やはり僕には甘過ぎた。
けれど目の前で幸せそうにポテトチップスを頬張る彼女を見ているとそんな甘さも気にならなくなったのを覚えている。
未だ甘いものは苦手なままであるが、当の僕自身は随分と甘くなってしまった。
品出しを終え店員が他所へ行ったのを見てその棚まで近づくと、その少し懐かしいスナック菓子を手に取り眺めた。そして少しだけ迷った後買い物カゴへと入れた。
彼女が喜ぶのであればたまには甘いものもいいだろう。
その他適当に物色しホットケースの前へと戻ると、彼女は何やら手を伸ばしていた。
どうやら目当ての缶を取ろうとしているが、あと少しのところで手が届かないようだ。これは…ホットココアだろうか?
手を上にピンと伸ばし身体をプルプルと震えさせている。頑張ってはいるがこれは取れそうにない。
まったく、無理をして……。
僕が彼女の背後から手を伸ばしそのココアを取ると、急に手が伸びてきたのに驚いたのか彼女の肩がビクッと震えた。
「無理しないで下さいよ?言ってくれれば取ってあげるから」
そのために僕はいるのだからと彼女に向けてココアを差し出した。
初め驚いた顔をしていた彼女は僕からココアを受け取ると、今度は一変して少し不機嫌そうな顔になった。……何故?
「自分で取れたのに……」
そう言ってぷうっと頬を膨らませ、ジトッとした目でこちらを見つめてくる。
「いやいや…無理だったでしょ」
「無理じゃない」
「手、全然届いてなかったよ?」
「あと少しで届いた」
「本当に?」
「うん本当」
「そうですか…」
「そうだよ」
そうらしい。
まず無理だったと思うのだが、こう言いだしてしまったら聞かないだろう。こういうところは全然変わらない。それこそ出会った頃からずっと。
そしてそんなところも嫌いではないのだが……。
「まったく…本当に負けず嫌いだねぇ」
そう言って僕が苦笑いすると彼女は頬を膨らませたままふいっと顔を逸らした。ミディアムの黒髪がさらりと揺れ、その際チラッと見えた彼女の耳は不自然に赤く染まっているように見えた。
そのままツーーーンと分かりやすく拗ねる。
その様がまた可笑しくてもう少し揶揄ってみたい衝動に駆られるが、このまま拗れてしまうとそれはそれで後々面倒なことになるため、早々に僕の方から折れることにした。
「はい。分かりましたよ。余計なことしてすみませんでした」
そう言って謝るが、彼女は未だ顔を逸らしたままだ。
「誠意が感じられない」
そしてボソッと呟いた。
僕は「なるほど……」と呟き、さてどうしたものかと顎の下に手を当ててしばし考えた後、手に下げたカゴの中から先ほど入れたポテトチップスの袋を取り出し彼女の前に差し出した。
「これなど如何でしょう?」
僕が差し出したポテトチップスを彼女は横目でチラリと見るとまたすぐに目を逸らした。そのまま顔を逸らしていたが、僕が「お納め下さい」と言うと、やがてゆっくりとこちらに向き直り無言でそれを受け取った。そして俯き気味にジッとその袋を見つめた後、顔を上げた。
「ん…!許してあげる」
そう言って彼女は悪戯っ子のように笑った。
人が誰も見当たらないレジに商品の入ったかごを置き店内を見回す。が、先ほどの店員はどこにも見当たらない。
奥に引っ込んでしまったのかと思い、レジ脇の通路の奥に向かって「すみませーん」と声をかける。すると「はーーい」という先ほどの店員と思われる若干気だるげな声が返ってきた。それと同時に入店を告げるチャイムが店内に鳴り響いた。
入口に視線を向けると、四十代くらいだろうか、スーツを着た中年の男性が店内へと入ってくるところだった。
そしてそのまま足早にこちらへと近づいてくる。
邪魔にならないようにと彼女共々通路をあけた。
そこで「いらっしゃいませー」と店員がレジに入ったため、再度そちらへと向き直り会計を始めたのだが、僕たちが会計をしてもらっている最中に不意にレジの台に手が置かれた。
何事かと横目で見るとそこには数枚の硬貨が置かれていた。120円ある。
「金置いとくから会計しといて」
そう不愛想な声で言うのは今しがた入店してきた中年男性である。手には缶コーヒー。どうやら僕たちの後ろに並んでいたようだが待てなくなったらしい。それとも初めからそのつもりだったのか。
恰好からして仕事着のようだし、そろそろ始発の電車も動き出す。乗り遅れないように急いでいるのかもしれない。
ただ、仮にそういう事情があるにせよ、いい歳した大人が順番の一つも守れないのかと不快に思いながらその男性に向き直ろうとしたその時
「きゃあっ!!」
歩き出した男性が僕の傍にいた彼女にぶつかった。
彼女は小さく悲鳴を上げてよろめく。
僕は咄嗟に彼女へと向き直り、その体を支えた。幸い転倒は免れた。
「大丈夫?」
状態を確認しながら彼女だけに聞こえる声で尋ねると、彼女は「う、うん。大丈夫」と小さく微笑んだので、僕も彼女に微笑みかけた。
「チッ………場所取りやがって、邪魔なんだよ」
背後から吐き捨てるような声が聞こえた。
その言葉の意味を理解した瞬間頭の中のどこかで何かが焼き切れるような嫌な音がした。それを合図にしたように全身の感覚が瞬時に遠のく。自分の身体だという気がまるでしない。
心は底冷えするように冷たくなっていき、感情はある一点に集中する。
気が付くと僕は足早に立ち去ろうとする男性の肩を掴んでいた。
突然のことに彼の身体はガクンとよろめき振り返った顔には少しの驚きと多分の不快感が滲み出ていた。僕は構わず彼の肩を強く握った。その肩を砕かんとするように、強く。
視界の色も荒れ始める。何かの障害でも起こったのかというほどに明度も彩度もバランスを崩し、狂っていく。
形の輪郭もぐにゃぐにゃと歪み、相手の顔はもはや人の顔には見えない。その様はもはや異形の何か、怪物。
怪物は排除しなければならない。そんな感情がノイズを伴いながら全身を支配し始めた、その時
やめて
自身の内にそんな声が響いた。
その声に、僕はハッとして目を見開く。
沸き起こり僕を強引に突き動かしていた衝動が弱まり、うるさいくらいに響いていたノイズも止む。
行きついてはいけないところに至る寸でのところで踏み留まった。そんな気がした。
この声は何だ?
やめて
再び声が響いた。
小さいけれど無視できない、こちらの心に直接触れてくるような強い声。
その声に徐々に冷静さを取り戻していく。まるで障害でも起こったかのようだった視界は辛うじて正常になり、身体にも徐々に感覚が戻ってきた。
そうだ感情的になってはいけない。
心は底冷えしたままであるが、頭も幾分か冷えたようで、相手を見て話ができるくらいには落ち着いてくれた。
僕は一度細く長く息を吐き、肩を掴んだままその男性の目を真っ直ぐに見た。
「謝ってください」
「あ…?」
僕の言葉に男性は不快感を隠さないざらざらした声で応えた。
「彼女に謝ってください」
構わずに再度言う。感情的になりそうなのを理性で無理やり抑え込み、努めて冷静にゆっくりと、毅然とした態度で彼に言葉を投げかける。
彼は鬱陶しそうに肩を掴んでいた僕の左手を払い除けたが、すかさず今度は右手で彼の肩を掴んだ。
「彼女に、謝ってください」
三度言いながら、真っ直ぐに彼の目を見ると、彼は僕の手首を乱暴に掴み引き剥がそうとしてきたが、手に力を籠めそれに抗う。それに対し彼はより忌々し気にこちらを睨み付けてくるが、まるで怖くない。
その睨みを、恐らく今の自身の心同様に冷めきっているであろう目で迎え撃ち、再び口を開こうとしたところで不意に僕の着ているシャツが何かによって引っ張られた。そちらに振り返る。
彼女が僕のシャツを引っ張っていた。
肘掛けにも掴まずに、転げ落ちてしまうのではないかというぐらいにシートから身をいっぱいに乗り出し、両の手で僕のシャツを握りこんでいる。その表情は必死そのものだ。
シャツを握りこんだ手は真っ白になっており、対して顔は赤く上気しうっすらと汗が浮かんでいる。彼女に引かれるシャツには大分しわが寄り、少し伸びてしまっている。
頭に血が上り気付かなかっただけで、最初から彼女は僕を止めに入っていたのではないか。
彼女の目が僕に訴えかけてくる。
やめて
内から聞こえたように感じたあの声も実は彼女のものだったのではないだろうか。声によって冷静になったつもりでいたがそれでもまだ彼女に気が付く余裕はなかったのかもしれない。
「大丈夫だから」
彼女が呟く。その声はまるで僕を安心させるかのようで。
「私は大丈夫だから」
静かに、けれど必死に僕に語りかけてくる。
「……ね?」
そう言って彼女は笑った。
無理やりに、泣き出してしまいそうな顔で。
こんな顔をさせたかったんじゃない。
その悲しい笑顔を見て、僕の中の荒れ狂うような感情が消えていくのを感じた。男性を掴んでいた手にも最早力はなく、ただそこに置かれているだけだ。
そんな僕の手を男性は再度払い除け、舌打ちを一つすると今度こそ店を出て行こうとする。
ところが
「お客様!!」
そこでそれを止める声が店内に響いた。
そのあまりにも大きな声に店を出て行こうとしていた男性だけでなく、僕と彼女も驚き肩を震わせた。
見るとその声の主である店員がレジから身を乗り出し、手を掲げている。その手には先ほど男性が支払った120円分の硬貨がのっている。
「お金が足りません。130円でございます」
店員はあくまで丁寧に穏やかにそう言った。
それを聞いた男性は忌々し気に顔を歪め財布を取り出すと、何やらブツブツと呟きながらそれを荒々しくあさる。が乱暴にし過ぎたのか焦って手元が狂ったのかそこで財布を取り落とし、床に硬貨が音をたてて散らばった。
怒りと羞恥からか男性は顔を真っ赤にし、これまた乱暴に硬貨をかき集めると、その中から10円を1枚取り出しレジ台に乱暴に叩きつけた。
「はい。130円丁度お預かりいたします」
店員は硬貨を受け取り、やはりあくまで丁寧にレジを操作する。
男性は赤い顔で口をパクつかせていたが、結局何も発することなく来た時よりも更に早足で店を出て行った。
ピロリロリロというチャイムに店員の「ありがとうございましたー」という声が重なった。
※ ※ ※ ※ ※
外に出ると辺りはまた少し明るくなったようだった。
シルエットだった街並みはその姿をより詳細に晒し始め、空には更に暖色が増していく。
日の出まではまだ少し時間があるが、間に合わなくなるのは避けたいし、後々になって焦るのも嫌なため、今のうちに少し急いだほうがいいかもしれない。
日の出をみるにあたってのベストスポットがあるのだ。
「行ける?」
「うん。行けるよ」
彼女に確認を取り一つ頷き合うと、僕は彼女の後ろに立ちハンドルのグリップをしっかりと握る。そして自らが歩くのに合わせて前に押すと、駆動輪は抵抗なくスムーズに回り出した。
シートに座った彼女はその背もたれに身体を預け、両手を肘掛けに置いている。
僕のコートは彼女が羽織ったままだ。コンビニを出た際に彼女は返そうとしてきたが、手でそれを制し再び彼女の身体に羽織わせた。特に抵抗はしなかった。
駐車場を出ると、脇に街路樹と植え込みのある歩道を段差や荒れた路面を極力避けながら進む。急ぎ過ぎずゆっくりと。彼女に負担が掛からないようにするためだ。
僕たちが普段何気なく何の問題もなく通るような道も、彼女のような車椅子を必要とする人にとっては随分と勝手が違う。僅かな段差一つが大きな障害となる。
本来誰に対しても等しくあるはずのこの道は、そこを通る人の事情によってその見え方や感じ方は異なってくる。実際僕と彼女ではこの道に対する感じ方は大分違うはずだ。
そのことは元々頭では理解しているつもりだったが、それはあくまで知識と想像だ。彼女の車椅子を押すようになり、彼女の立場、目線、気持ちを意識するようになってようやく実感した。
初めの頃はそこら辺の勝手が分からず彼女には負担と迷惑を与えてしまったと思う。やらかすたびに謝る僕に対し、彼女は「気にするな」と笑っていたが、恐らく大分気を遣わせてしまっていたのではないだろうか。それがより一層僕に自分の不甲斐なさを感じさせた。
もっとも、それも昔の話。今では慣れたものだ。勿論何から何まで十分とは言い難いし、当時の申し訳ない気持ちを払拭するには至らないけれど、それでも事実彼女に過度な負担は与えずに済んでいると思う。
むしろ最近では逆に「慎重すぎ」「気にしすぎ」といった文句を聞くことの方が多いくらいである。
丁度いい加減というのは本当に難しい。
なかなか彼女には御満足いただけないようだ。
そうして彼女の様子を見て車椅子を押しながらも、しかし僕は全く異なることを考えていた。
頭に思い浮かぶのは先程の出来事。
自身の中で再び顔をもたげ始めた感情を無理やりに抑え込み、反芻する。
あの中年男性が僕たちに向けた視線、言葉、そこに込められた感情。
不快だ。不快極まりない。何度味わってもそこは変わらない。
初めてではない。初めてではないのだ。
これまであくまで『一人』で生きようとし、必要以上に他人と関わろうとしてこなかった僕だが、彼女と共にいるようになってからというものそれもずいぶんと変わってしまった。
やむを得ずというところも多分にあるが、以前に比べると大分他人と関わるようになったように思う。
この世界には様々な人間がいる。価値観もそれに伴う生き方も各々異なり、ひとりとして同じ人間はいない。
頭では分かっていたことだ。そしてそれをここにきて改めて実感した。
これまで彼女のような境遇の者に好意的に接してくれる人に多く出会ってきた。その差し伸べられた手にはもう感謝しかない。特定の『誰か』ではなく『人』というものそのものに初めて温かみを感じたように思う。
ただ、その一方でそうでない人というものもやはりいるのだ。
こちらに非があるときはそれを素直に認めよう。この境遇に胡坐をかき踏ん反り返るつもりなど僕にもそして彼女にもないのだ。
けれどそんなこととは関係なく心無い感情を向けられる理不尽というものはやはり確かにあるのだ。
皆が、という訳ではない。温かい人も多くいる。その温かさにこれまで散々助けられて来た。それは分かっている。分かっているのだが……。
これが僕一人であったのならいい。一人であれば耐えられる。これまでどおりに関わらず、交わらず、通わせず生きていけばいいだけだ。
何ということはない。
けれど今やそういう訳にはいかないのだ。
僕にはもはや自分のことだけを考えて生きて行くことはできないのだから。
そこに存在するだけで心を切りつけられるその理不尽、それに晒されながらもそれでも懸命に生きて行く彼女を想い、その背中を眺めていると、不意に彼女がチラッと後ろを振り向き目が合った。
その何かを伺うような視線に何事かと思い、首を傾げながら「ん?」と目で問いかけると、彼女はフルフルと首を振り前を向いてしまった。そしてその後も彼女はチラチラと何度も後ろを振り返ったが、やはり何も言わなかった。
どうしたのだろうか?寝癖でもついているのだろうか。
そう思い、自身の髪を手櫛で撫でつけていると、不意に前方から歌が流れ始めた。
目を向けると先ほど同様彼女が鼻歌を歌っている。やはり落ち着く曲だ。逆立った心に優しく沁み込んでいく。
その歌を聴きながら僕はゆっくりと息を吸うとやはりゆっくりと吐き出した。それに伴い段々と心が凪いでいく。
彼女と人の悪意に対しての想いは尽きないが、このまま引きずってしまっては折角の散歩が台無しになってしまう。今は純粋に彼女との時を楽しむべきだろう。
夜明けの街に目覚めの歌……………にしては大分バラード調の曲が流れる。
即興のはずなのに淀みなく、つっかえることもなく歌い続ける彼女に感心しながら僕は車椅子を押し、曲に聴き入った。
道に沿って電柱から電柱に渡される電線はやはり楽譜の線のように見え、それは僕たちの行く先まで長く伸びている。
その下を歌いながら歩く僕たちはまるでそこに描かれた譜面を辿り、奏でていくようだ。
当然音符も何の記号も見えやしないし、仮に見えたところで僕には読めない。
彼女は電線をそういう風には見ないかもしれない。……………いや、そこは案外同じことを考えているかもしれない。
いずれにせよ勝手な想像だ。「馬鹿げたことを」と思う人もいるのだろうと思う。けれどそんなことは気にしない。どう思われようとも僕はそう感じたのだ。だから勝手に想像し、ひたることくらいは許して欲しい。
明け方の瑠璃色の空気の中、僕には何が記されているかもまるで分らない譜面を道標とし、彼女の奏でる曲をこの特等席で鑑賞することくらいは。
道なりに進んで行くとやがて視界がひらけた。
目の前に広がるのは一面の田園風景。
正直何が植えられているのか僕には分からないが、それらは風によってさらさらと揺れ、大きな波となって暗く沈んだ青緑の海に広がっていく。
それを区切るように舗装された道が縦横に真っ直ぐ長くのびており、それに沿うようにその脇を用水路が流れている。
田畑の脇にはトタンでできた小屋が点々と建っているのだが、恐らく物置小屋だろう。さすがに人は住んでいないと思う。あんなところに住もうものなら夏は熱中症、冬は凍えることが必至だ。
周囲に高い建物が殆どない中、その巨大さを主張するかのように空高くそびえ立つ鈍く無骨な鉄塔が、まるで田畑を跨いでいくかのように立ち並ぶ。その連なりの先、田畑の向こうには青く染まった住宅街があり、遠くには小さく工場群が見える。空に向けて長く伸びる煙突はまだ煙を吐き出してはいない。
その更に先、彼方にはうっすらと横たわる青みがかった山々。
長く渡され伸びる電線により、電気だけでなくこの朝の光をも鉄塔から鉄塔へと伝播させ、街に、そこに住まう人々に、彼方の山々に運び届け、消えていく。
彼方の人々にこの光は届いているだろうか。
もう殆ど会うことのない、連絡すら取ることのない昔の友人知人は同じこの空を見ているだろうか。
僕の知らない、僕たちのことを知らない人々は同じこの空を見ているだろうか。
この世界は同じこの空を見ているだろうか。
微睡みに沈む街、広くひらけた田畑の真ん中、冷たい風と徐々に光度と赤みを増していく朝陽の予兆を身体に浴び、青緑の波の音と彼女が奏でる歌に包まれながら僕はゆっくりと彼女の座る車椅子を押していく。
「ねぇ」
自身を包む世界を感じながら彼方へと思いをはせていると、唐突に歌が止み、彼女の声がした。
意識と視線を前に戻すと、椅子に座ったまま彼女がこちらを振り返り、見上げてきていた。
僕は歩みを止め、それに合わせて彼女も進むのを止めた。彼女の髪がさらっと揺れる。
彼女はその大きな瞳でジッと僕のことを見つめてくる。
その表情から彼女の心情を正確には推し量れない。ただ、以前どこかで見たことのある表情な気がし、どうにも心がざわついた。
「どうかした?」
僕は小さく微笑み、出来る限り優しく穏やかな声音で語りかける。彼女を安心させようと思ったからなのは確かだが、同時に自分自身も安心させたかったのだと思う。
「あの…ね」そう言って彼女は再び押し黙った。普段の彼女の印象から考えるとやはりどうにも歯切れが悪い。彼女は不安そうな表情のまま視線を彷徨わせ、口を開いては閉じを繰り返している。
そのらしくない様子に心のざわつきはますます大きくなっていき、僕は自然と身構えた。努めて冷静であろうとするが、それに反して内心不安が大きくなっていく。
確かに大きくなっていくその不安を飲み込もうとし、けれど失敗しつつも僕は「ん?」と首を傾げながら彼女の言葉の先を待つ。決して急かしたり焦らせたりすることはせず、あくまで彼女が自ら話し出すのをじっと待った。
何度か逡巡した後、彼女は意を決したように僕を視界に捉える。
その表情はやはり不安そうであるが、その見つめてくる瞳には強い光が宿っているように感じた。
「自由になってもいいんだよ?」
彼女の口から出た言葉に息をのんだ。
ビキッッ
と心臓が痛いくらいに鋭く跳ねる。
鼓動が速くなり、その一方身体の感覚がとても遠くなる。まるで自分の身体が消えかけているようなそんな錯覚に陥る。
微笑んでいるつもりだが、引き攣っていないか心配だ。
対して彼女の表情は笑顔だ。
自嘲するような、けれどこちらを気遣うような、ぎこちない歪んだ笑顔。
それが余計に僕の心をざわつかせる。
それでもどうにか呼吸を落ち着けてこちらの心中を、動揺を悟られないように極力平静を装いながら彼女に問いかけた
「どういうことかな?」
「分かってるんでしょ?」
すぐに返され僕は再び押し黙る。
僕のすっとぼけた言葉にも彼女は取り合わない。目の前の彼女にはすべてお見通しなのだろう。
当然だ。
なぜならこのやり取りは決して初めてではないのだから。
そう……分かっていることだ。
「無理して一緒にいることなんてないんだよ?」
そう言う彼女の言葉はより僕の身体の感覚を奪っていく。ただ喧しいほどの鼓動の速さ、それに伴う痛みだけは鮮明に感じさせられる。
僕は黙って彼女を見つめることしか出来ない。彼女はそんな僕から視線を逸らし、前を向いた。
「私こんなだからさ…。誰かの手助けなしじゃ、きっともう生きられない」
そう言うと彼女は自分の足に、もう動かすことの出来ない足に手を置き、優しく愛おしそうに撫でた。
「別にね?今の自分の人生を悲観している訳じゃないんだよ?楽観もしてないけどね。やっぱり自分の足で歩けた方が良いし……。けど今となってはもうそれは仕方がないって、今更言っても仕方がないって、受け止めて前向きに生きて行こうと思っているの。だから悲観はしてないんだよ」
「少なくともあの頃よりはねー」そう言って彼女は笑った。前を向いているためわからないが、笑ったように見えた。
「でもね、それにあなたまで付き合うことはないんだよ?」
その声色は諭すよう。まるで母親が自分の子供に語りかけるような、どこか母性に似た優しさを感じさせる。
しかし本来温かさで満ち溢れているはずのその優しさがなぜか今はとても切ない。
「あなたには感謝している。すごく、すごく感謝している。いくらお礼を言ってもとても足りないってくらい感謝してるんだぁ。……………けどね」
彼女の声がワントーン低くなったような気がした。同時に周囲の温度も下がったように感じる。
「私がいることであなたにはすごく迷惑かけてる。きっと…ううん、絶対に。面倒かけて、負担をかけて、疲弊させて、傷つけてる。さっきのコンビニの時だって……」
先程の中年男性とのいざこざのことを言っているのだろう。あの事で非があるとすればあの中年男性もしくは僕だ。彼女に非はない。だから気に病むことなど何もない。
「君が気に病むことじゃない…………とか思っているでしょ?」
まるで僕の心を読んだかのように言って彼女がチラリと振り返った。僕は内心驚きながらも顔には出さなかったつもりだが、彼女は僕の顔を見ながら目を細めフヒヒと悪戯っぽく笑って前を向いた。
「そう思ってくれているのだとしたら有り難いんだけどね、でもね、それでも私はやっぱりそうは思えないんだよ。こんな私がいなかったらって思っちゃうんだ」
再び発した彼女の声色は今の悪戯っぽい笑顔が嘘であったかのように寂しそうなものだった。
立ち込める冷気が外側から僕を冷やし、彼女の言葉が内側から僕を冷やす。三月末の早朝とはいえこんなにも凍えそうなものだったろうか?
「だからね?もし無理しているなら、私といるのが辛いなら、私を…」
そこで言葉を切った彼女の顔は見えない。彼女は前を見続けている。
けれど今彼女がどのような顔をしているのか僕には容易に想像できた。それが分かるくらいには一緒の時を過ごしてきたのだ。
彼女はきっと…
そこで彼女がゆっくりと振り返る。
時間にしたらほんの数秒程度のこと。にもかかわらずそれはあり得ないほどに長く感じた。
ミディアムの髪がさらりと流れ、肩にかかっていたコートが静かに地面に落ちた。
振り返った彼女が僕を見上げる。
ああ…やっぱり……。
彼女は、笑顔だった。
大きな目を細め、眉を寄せ、無理やり口角を上げた、胸を締め付けるような、悲しい笑顔。
「私を、捨てて?」
その瞬間世界から音が消えた。
風の音、草花の擦れる音、鳥のさえずり、遠くこだまする電車の警笛、自身の息遣い、鼓動その全てがかき消えた。
その中で唯一彼女の声だけが繰り返し波紋のように広がり、響く。決して大きくはなかったその声はしかし鮮明にハッキリと僕の全身に、脳に、心に嫌な響きを与えてくる。響いて、沁み込んで、冷たくなっていく。この微かな身体の震えは寒気だけが原因ではないかもしれない。
彼女は僕を見上げ続ける。その瞳を絶対に放さないというように。
僕は彼女を見下ろし続ける。その瞳を絶対に逸らせないというように。
どれくらいそうやって見つめ続けていたか。一分か、一時間か、随分と長いことそうしていたような気持ちだったが、実際はやはり数秒だろう。
僕は息を大きく長く吸うとそのままゆっくりと細く長く吐いた。恐らく強張っているであろう身体の力を抜ければいいと思ったが実際上手くいったか分からない。少なくとも身体の冷たさは相変わらずだ。
ただ、それでも頭は幾分か冷静になれている。冷静であること、あろうとすること、それが僕の数少ない長所の一つだ。
僕は未だ見上げ続ける彼女のその顔に手を伸ばすと
「ほふぇっ!!」
「…………」
無言で彼女の両の頬を摘み左右に引っ張った。
みょーん…みょーん…
突然頬を引っ張られた彼女は初め驚きで可笑しな声を上げていたが、やがて事態が飲み込めるとその大きく見開いていた瞳をゆっくりと細めていった。
その表情はそれはそれは不機嫌そうだ。
彼女は摘ままれた頬を引き攣らせながらジトォォォ……とした目で見上げてくるが、僕はそれを無視しみょーん…みょーん…とその綺麗な頬を引っ張り続ける。
おお…思ったよりもよく伸びる。
「はふぃ、ふふほ…?」
「はい?」
「ふぁーふぁーふぇーーー!!」
彼女の、恐らくは抗議の声に惚けた態度で返すと、彼女はより語気を強め、身体を後ろに捻った体勢で僕の腕をバシバシと叩いてきた。
彼女の抵抗が思いのほか痛かったことと、彼女の身体に負担はかけられないという思いから僕は彼女の頬を放した。そして摘まれて赤くなった個所を優しく摩ると「やめろ」と彼女に手を振り払われた。まぁ当然かもしれない。
彼女は自分の手で頬を摩りながら僕を不機嫌そうに見上げてくる。
「何でこういうことするかなぁ!?」
「なかなか気持ち良かったよ?」
「っ……感想なんて訊いてないよ!」
「今言われてちょっと満更でもなかったでしょう?」
「バーーカ!!」
そして彼女は再びバシバシと叩いてくる。
僕はそれを片手でいなしながら、けれどもう片方の手は車椅子のハンドルから放さない。彼女がバランスを崩して転倒でもしたら大変だ。
「やっぱりそういう方が君らしいねぇ」
「何が!」
「沈んだ顔は似合わないと言っている」
「え……あ…」
うすく微笑みながらそう言うと彼女は僕を叩いていた手をピタリと止め、僕をおずおずと見上げてくる。その表情からは彼女の困惑が見て取れる。摘まんだことによる赤みはすでに引いたようだが、今度は別の赤みが彼女の頬を染めている。
手はゆっくりと下ろされ、身体と顔の向きも前へと戻った。少し前かがみでその背は丸まっている。
僕はコートを拾い上げると手で汚れを叩き落とし、再び彼女の肩へと掛けた。
「君が馬鹿なこと言うからだよー」
「…馬鹿なことじゃないでしょ。大事なことだよ。私はあなたを私に、私の人生に縛りたくはないよ……」
そうポツリと言う彼女には先ほどの覇気はもうない。
「ほら、そうやってまた沈む」
彼女の視線の先、地面から突き出した水道の蛇口にはビニールテープのようなものが何重にも巻き付いており、その端が風に煽られて揺れているのが見える。
僕はふぅ…と細く溜め息をつく。そして車椅子のハンドルから手を放すと、彼女に背を向けてしゃがみ込み、背もたれの裏に車椅子が動かない程度に軽く寄り掛かった。
それに合わせて彼女も寄り掛かってきたようで、僕たちは背中合わせでその場に座り込むかたちになる。幾分彼女の方が上にいるのを感じる。
夜明けの冷気の立ち込める静かな青い田んぼの真ん中、車椅子越しに背中合わせで座り込む一組の男女。
傍から見れば奇怪で、滑稽で、不審であろう自分たちだが全く気にならない。どうせ誰もいやしないのだ。仮にいたところで僕たちのことを気にし、記憶する人間がどれだけいるだろうか?
いやしない。
いやしない誰かのことなど気にはしない。
「正直なことを言うよ?」
僕は後頭部で背もたれ越しに彼女の背をトントンと軽く叩きながら言う。
「正直ね、なかなか大変なものだよ」
そう言った瞬間彼女の身体がピクンと震えたのが分かった。
「だってそうでしょう?君は日常生活における全てのこと………とまでは言わないけれど多くのことにサポートを必要とする人だよね。歩くのは勿論、着替えるのも、お手洗いも、お風呂に入るのも、夜眠るのだってそうだね」
僕は指折り数えながら例を挙げていく。
「一人でこなせることも勿論あるけれど、それにもどうしたって限界がある。やはり誰かのサポートが必要になる。これは誰よりも君自身が一番よく分かっていることだよね?」
目の前にある車椅子のハンドルに手を伸ばすとグリップを握り、意味もなくブレーキを押した。
「外出したらしたで、極力荒れていない段差のない幅のある道を探し、スロープを探し、エレベーターを探し、どうしようもない時は助けを乞い、人に気を遣い、それでもどこか不躾な不快な目を向けられる。一回一回は大したことなくても積み重なると、まぁ…結構堪えることもあるかな」
彼女は何も言わない。けれど背中には微かな震えが伝わってくる。
「この世の中自分のことだけで、自分が生きていくので精一杯だよ。そこに自分以外の人の人生まで考えて、抱えて大変でない訳がない。頭では分かっていたことだけれど、実際に手を差し伸べて痛感したよ」
「だったらっ…!!」
「でも、だから何だって話だよねぇ」
「…………………え」
僕の言葉に耐え切れなくなったのだろう、彼女は声を荒げ何かを言おうとしたが、続く僕の言葉を聞いて再び押し黙った。勢いよく振り返ったのが振動と雰囲気で伝わってくる。その顔はさぞ困惑に染まっているだろう。
彼女の表情を想像し、僕はクスクスと笑う。
「だから何だと言ったんだよ。僕はそのことをちっとも嫌だとは思っていないんだよね。むしろ喜ばしくさえ思っているかな」
「……変態なの?」
「ここでよくそれが言えたものだねぇ……」
どこか慄いた様子の彼女に今度は苦笑で返す。
名誉のために言わせてもらうが僕は断じて変態などではない。あくまで紳士のつもりだ。
「面倒は確かに面倒だよ。そこは否定しない。ただ、その面倒が君と一緒に生きているということを実感させてくれるように思うんだよ。今の僕はね」
言いながら先程とは違う意味での苦笑が自然ともれた。あれほど面倒を嫌っていた自分が、何かを抱えることを恐れていた自分がえらい変わりようだと思う。当時の僕が今の僕を見たらさぞ驚くことだろう。「誰だ、お前は?」そう言ってさぞ苦い顔をすることだろう。
そんな昔の自分を今の自分として少し見てみたいと思った。恐らく僕は今しているように苦笑を浮かべながら昔の自分を見ているのではないだろうか。
「信じられない?けどね、本当のことなんだよ?君と共に生きていることを実感させてくれるこの面倒を尊いものに思っているんだよ。だからね…」
そこで僕は彼女に振り向く。同じく振り向いていた彼女と目が合った。
「縛っているなんて言わないで?そんなこと思っていないから」
その顔は湿り気を帯び潤んでいる。
「もっと僕に頼って?それで我儘を言って。面倒をかけて困らせてよ。僕は全て受け止めてみせるよ?他の誰でもない、君のために……ね?」
僕の言葉を受け彼女はその大きな瞳を更に大きく見開いた。そのまま僕の目を見つめ返していたが、やがてその顔をくしゃりと歪めるとそれを隠すように前を向き俯いてしまった。
僕は立ち上がり彼女の後ろに立つとその微かに震えているに彼女の頭に優しく手をのせた。
「これからもよろしくね」
そう言って彼女の頭をぽんぽんと撫でる。
俯き肩を震わす彼女は何も言葉を発することはなかった。ただ、コクンと、小さくけれど確かに頷いてくれた。
表情は見えないが今は良い。ここで覗き込むのも振り向かせるのも無粋というものだ。今は前を向き、頷いてくれるだけで良い。
僕も「ん」と言いうすく笑いながら彼女に対して頷いた。そして再びぽんぽんと彼女の頭を優しく撫でた。
今度は振り払われることはなかった。
※ ※ ※ ※ ※
朝陽の気配が増し辺りが明るくなっていくにしたがって、街には青白い空気が満ちていく。
相変わらず住宅街は静まり返っており何一つ物言わないままだが、先程のような溜まり、染まり、沈み込んでいるような様子は見受けられなくなっていた。青白い澄んだ空気が隅々までいきわたっている。
そこに起きるのを愚図るような印象はなく、今なら一声かければ、もしくはその肩を少し揺すってやればすんなりと目を覚ましてくれそうだ。
いずれそう待たずに全てのものたちが動き出すだろう。
目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、雨戸が開け放たれる。ポストから新聞を取り出し、テレビでは朝の情報番組が流される。フライパンに油を垂らし、卵を割る。食器同士が擦れ、トースターでパンが焼きあがり、コーヒーのカップからは湯気が立ち上る。扉は開け放たれ、その太陽の光を直接身体に浴び、肺いっぱいに空気を吸い込む。自動車のエンジンがかかるとそれは熱を帯び排気ガスを吐き出し、走りだせば風を生む。
始まりを高らかに告げるような列車の警笛が遠く高く空にこだまする。
そうして熱を帯び、空気を振動させながら街は目覚めていく。
世界が目覚めていく。
「間に合うかなぁ?」
「んーー……微妙だねぇ」
そんな世界が目覚める直前の最後の静かな時を僕たちは少々の焦りをもって歩いていく。
日の出は間もなくだ。しかしその時を前にして僕たちは間に合うか、間に合わないかの瀬戸際に立たされていた。
日の出を見るためのベストポイントまではもうそう遠くない。子供であっても走れば十分に間に合うくらいだろう。
けれど僕たちの歩みは遅いのだ。
正直その瞬間までにその場にたどり着けるかはかなり微妙である。大分甘く見積もってもギリギリといったところだろう。
時間に余裕をもたして家を出たはずなのだが、寄り道したり話し込んだりしていた結果大分時間が経ってしまい、気づけばこの様である。
本当に僕たちは計画通りにいかない。いったためしがない。
どれだけ先を見越して行動しても結局僕たちは焦ることになる。いつも切羽詰まりギリギリでバタバタと足掻いている。
「ごめんね……」
彼女がしゅんとしながら謝ってくる。自分が凹んでいたため時間をくってしまったとそう思っているのだろう。
「まったく、世話の焼ける子ですよ」
特に取り繕うこともフォローすることもなくそう言うと、彼女は「うぐっ…」と声を詰まらせる。
「……その通りなんだけどさ、ホントその通りなんだけどさ、そこは『そんなことないですよ』とか言って気を遣って慰めてくれるところなんじゃないのかな」
「なぜ?」
「なぜって……えぇー…」
「君に対してそういう気の遣い方はしないよ………そんなヌルイ関係ではないと思っているのだけど?」
呆れた様子の彼女にそう言ってやると、彼女は少し驚いた様子を見せた。そして「そっか…」と一言呟くとそれっきり黙ってしまった。前を向いているため表情は見えないが何となく笑っているように思う。そうだったら良いと思う。
「君こそ先程の謝罪は表面上の取り繕いだったのかな?」
僕があえて少し意地悪な声で言うと彼女は背もたれに深く寄り掛かり、そしてわざとらしく大きく溜息を吐いた。その様は呆れているようで、僕に対して「何を馬鹿なことを」と言っているかのようだ
「あなたに対してそういう気の遣い方はしないよ。そんなヌルイ関係じゃないからねー」
お返しのつもりなのか、彼女はそう言うとクスクスと笑った。
「言われる方は結構恥ずかしいものだねぇ……」
そして今更ながらに先程の自分の言葉が堪らなく恥ずかしいものに思えてきた。平然と何を口走ってしまったのだろうか。そしてそれをきっかけにその更に前、田んぼの中での自分の言動も思い出し、重ねて羞恥に包まれていく。何一つ嘘はない紛れもない本心なのだが、それを言葉にするのはやはり恥ずかしいものだ。
顔が熱い。赤くなっていなければいいが恐らく叶わぬことだろう。彼女が前を向いてくれていて本当に助かった。おかげで今の顔を見られずにすむ。
そう思って彼女を見ていると、髪の毛の隙間から覗く彼女の耳が不自然に赤くなっているのが見えた。
どうやらお互い様のようだ。恥ずかしいのであれば言わなければいいのにと思ったが、自分のことを棚に上げて人のことは言えないと、苦笑がもれた。
この様子では彼女も後ろを振り返れないだろう。今の彼女の顔を見てみたいという気もしたが、僕自身今は自分の顔を見られたくないのでここは我慢することにした。
二人して何をやっているのか若干呆れてしまうが、その一方でこの感情を、やり取りを、今在る関係性をとても尊いものにも感じている。
もう過ぎ去ったあの日々にもしかしたら潰えてしまっていたかもしれないものを、今の僕たちは確かに手にしている。そしてそれを決して手放したくはないとそう思っている。
どれだけ恥ずかしくてもそれは自分が望むものなのだ
そんなやり取りをする間にもその瞬間は刻一刻と迫ってくる。
急がないといけないのだがここら辺の道は随分と荒れていて思うように進めない。しっかりと綺麗に舗装し直してほしいものだが、それを今言ったところでどうしようもない。
構わず進もうものなら彼女から抗議の声が上がるだろう。
いや……案外何も言わないかもしれない。仕方がないと言って笑うかもしれない。
ただ例えそうだとしても僕自身がそれをしたくないのだ。
そのため歩みは慎重にならざるを得ない。
時間のない中はやく進みたいのに進めない。その状況に焦りそうになるが僕はそれを堪え、努めて冷静であろうと心がける。経験上焦って良いことはない。
ただ、頭では分かっていても冷静であることは難しいのだ。僕の長所とはいえ決して容易なことではない。どうしたって逸る気持ちが出てくる。何とか落ち着けないものかと考えを巡らせ、そして思いついた。
「歌」
「え?」
唐突に呟いた僕に彼女が反応する。
「歌を歌ってよ。さっきの。あれ落ち着くんだよ」
「鼻歌?」
「そう」
「落ち着くんだ」
「うん、落ち着く。……君もそのつもりで歌ってくれていたのでしょう?」
「………」
彼女は無言だったが、それが答えだった。僕は「ああ…やっぱり」と確信し、苦笑をもらす。やはり彼女は人に気を遣う子だと思う。
夜明けの街。目覚めていく世界で。
青白い空気の中僕たちはまるでプレリュードのようにその曲を奏でていく。
歌い手は彼女一人。
観客は僕一人。
たった二人だけの音楽会。
豪華なステージはいらない。
整った音響設備もいらない。
大勢の観客もいらない。
彼女と僕の二人だけがいればいい。
長く伸びる電線を譜面に、想像の音符を書き込み、この世に二つと存在しない、恐らくもう二度と同じようには奏でることの出来ない僕たちだけの曲を奏でていく。
なかなか成長できない僕たちはこの先何度も同じ過ちを繰り返すのだろうと思う。立ち止まることも、振り返ることも、後退してしまうことだってあるだろう。世界に見放され見限られ、たった二人取り残されることもあるかもしれない。
けれど、二人だ。
一人ではない。二人、一緒。
僕たちは僕たち二人が信じる道を、僕たちのペースで歩んでいくのだと思う。
僕たちはそうすることしか出来ないし、そうしたい。
そしてもし本当に世界に見放されたった二人きりになったとしても、お互い顔を寄せ合い笑い合えたならそれ以上はもう何も望まないだろう。
彼女が前で、僕が後ろ。
彼女が引っ張り、僕が押す。
それが僕たちの定位置。
そうやって二人で歩んでいけたらいい。
瑠璃色の歌を奏でながら。
朝陽の気配がした。
読んでいただきありがとうございます。
どうかこの時間があなた様にとって有意義なものでありますように。
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それではまたどこかでお会いしましょう。