03:二人と噂
昨日、あれから数十分ほど井出さんと世間話をしていたが、結局古谷君が戻ってくることは無かった。となると、今日顔を合わせるのが不安なような、そうでもないような……。
しかし優等生な由紀に学校に行かないという選択肢はない。いつも通りに家を出て、学校へ向かった。
記憶では、少々素行の悪い古谷君は遅刻ギリギリにいつも来ていた。どうせ朝は顔を合わせることもないし、休み時間だって彼は寝るか携帯を弄っているかのどちらかだ。せめて今日だけでも面と向かって顔を合わせなければ彼も忘れてくれるだろう。そう思っていた。
しかしそうは問屋が卸さない。
どんな心境の変化があったのか、今日に限って古谷君は朝早くに学校に来ていた。下駄箱で靴を履き替え、さあ教室に向かおうとしたその時、古谷君がやって来たのである。いつ通り不機嫌そうな――いや、今日はいつもの倍不機嫌そうに見えた。もしかしたら目の下のクマがそうさせたのかもしれない。
愛猫のことを想って眠れなかったのかな……。
そんなことを考えているうちに、古谷君はすぐそこまで迫っていた。背の高い彼がぬっと目の前に現れてようやく由紀はハッとする。
また邪魔だって文句言われる……。
そう思って退こうとした由紀の瞳に、古谷君の目が映った。
バチン、と目が合って、一呼吸。
バレたかな……そう思った次の瞬間にようやく睨まれた。すぐに由紀は察した。
あ、この人、私のこと知らなかったんだ……。
同じクラスにもかかわらず、である。
しかし残念ながら、彼に睨まれても全然怖くない。肩に可愛らしい猫を乗せたまま睨まれても、所詮粋がっている様にしか見えないのである。本当に何とも残念だ。
「て……めえ」
ちょっとどもった。可愛い。
「昨日の……」
「あ、昨日はごめんね? 急に声かけて」
古谷君が絞り出した言葉を遮るようにして由紀は話し出した。同時に歩き出す。しばらく古谷君は戸惑ったような様子だったが、どちらにせよ教室は同じだ。すぐに後ろについてくる気配がした。
「古谷君、猫好きなの?」
「はあっ!?」
無言でいるのもおかしいので、共通の話題を出してみる。古谷君は面白いくらいに慌てふためいていた。何だか珍しい。驚いた顔をする彼も、話題を提供する由紀自身も。
昔から、なぜか彼女の周りにはお喋りな子が良く集まった。由紀自身が聞き上手なせいもあるのかもしれない。そんな自分が、自ら話題を提供することは少なかった。だから今、少しだけ緊張していた。
「私も好きだよ。よく学校帰りにあのペットショップに寄るの」
「…………」
「私もね、猫飼いたいんだけど、お母さんがアレルギーだから飼えないんだ。だから独り立ちしたら買いたいなーって思ってる。でもそれはそれで、一人部屋の中に取り残される猫も可哀想だなって思うと、なかなか踏ん切りがつかないんだけどね」
一方的に話している由紀は、周りから見ればどれほど滑稽に見えるだろうか。
想像通り、通り過ぎる生徒たちは彼女を奇妙な者を見る目で見――すぐにバッと目を逸らす。当然だ、その後ろに荒々しい雰囲気を醸し出す古谷君がいるのだから。
彼がずっと無言でも、別に気まずくなかった。いつもと違う日常に、少しだけ興奮していたのかもしれない。
ガラッと教室の扉を開けた。静かな教室に案外その音は響いて、一斉に中にいた生徒たちはこちらを見やった。そして目を丸くする。由紀の後ろにいる古谷君を見て。
「あ、古谷君!」
気づいたら、彼はこちらに背を向け、すっかり教室を通り越していた。てっきり教室に行くつもりだと思っていたのだが、彼にはそんなつもりはないようだった。
「ねえ古谷君、もうあそこには行かないの?」
何となく追いかけたくなって由紀は再び古谷君に走り寄った。彼の歩みは止まることは無い。
「うっせえな」
「ねえ、行かないの?」
「行かねえよ」
「ね、それってもしかして私のせい?」
「しつけえな。もうついてくんなよ!」
「ごめんね」
唐突に由紀は一言告げた。当然古谷君は訝しげな顔をする。
「はあ? 意味分かんねえ」
「あの時、声かけてごめんね。古谷君、悩んでたみたいだったのに、急に声かけちゃって」
「べ……別にいいし。もともと買うつもりなんてなかったし、ってかお前――」
「うん? 何?」
「……何でもない」
ふいっと背を向けると、再び古谷君は歩き出した。なおも由紀がついて行こうとすると、その気配を察知したのか、彼はついてくんな!と叫んで走って行った。
*****
「聞いたよ、由紀ちゃん!」
休み時間、またいつものように純ちゃんが背中をつついてきた。椅子ごと後ろの席に近寄る。
「今朝、古谷君と一緒に学校に来たんだって?」
「話が飛躍しすぎだよ……」
呆れかえって由紀はため息をつく。
「ただ教室にまで一緒に行っただけだよ」
「同じことだよ!」
バッと純ちゃんは言い切った。
「だってあの古谷君だよ? それだけでもうすっごい噂だよ!」
小声で純ちゃんは捲し立てる。自然と視線は話の渦中、古谷君の元へと向かう。――眠たいのか、彼は机にうつ伏せになっていた。
「つ……つつ、付き合ってるの……?」
「何で一緒に教室に行くくらいで付き合ってることになるの?」
「だよねえ……!」
ホッと息をつかれた。そんなに心配するほどのことなのだろうか。
「私もね、そうじゃないかと思ってたんだよ。でもね、噂では由紀ちゃんが古谷君を手懐けちゃったとか、尻に轢いてるとか、弱みを握ってるとか色んなのが飛び交っててね」
「ちょっと待って」
聞き捨てならない言葉がいくつかあった。
「え、何で私が全部悪者みたいな噂ばっかりなの? 普通逆じゃない?」
「え……何でだろう。でも二人を見かけた人によると、まさに手下を率いている様に見えたんだって、由紀ちゃんが」
「どうにも失礼な話だね……」
呆れてものも言えない。
「じゃあ、もしかして由紀ちゃんの方が弱み握られてるの……?」
心配そうに純ちゃんが覗き込む。思わず長いため息をついた。
「別に私はもちろん、古谷君の方だって弱みなんか握ってないよ。全部ただの噂」
「よ……良かったー!」
「うん。心配かけてごめんね」
「何か古谷君のことで悩みがあるなら相談してね!」
悩みがあるのは古谷君の方なんだけどな……多分。
そう思ったが当然由紀は口に出さない。うん、と頷くと、純ちゃんも嬉しそうに頷いた。
その後、放課後まで古谷君と由紀が関わり合うことは無かった。もともと接点がある二人ではなかったし、何より今日は一段と教室中の視線が自分と彼に集まっているような気がして、いまいち何かしようという気にはなれなかったのだ。たまたま今朝下駄箱で古谷君と顔を合わせたというだけなのだが。
チラッと古谷君の方を見ると、猫を肩に乗せたまま教室を出るところだった。相変わらず彼の放課後は早い。まだ先生すら教室から出ていないというのに。
「やっぱり古谷君のことが気になるの?」
「別に、そんなんじゃないよ」
「でも――」
「ほら、早く部活行かないと。遅れちゃうよ」
「うん……」
後ろ髪を引かれるような面持ちで純ちゃんは教室を出て行った。
いつの間に立場が逆転してしまったのだろうか。もっぱら二人の間では、純ちゃんの方が悩み事を相談して、それに由紀がアドバイスを贈るという形式だったはずだったのだが。何だか今の状況が少しくすぐったく思う。
さて、私も帰るか。
そう思ってリュックを背負うと、視線の隅――自身の机の上に、白いものがあることに気付いた。何か仕舞い忘れたのか、と再び視線を戻すと、由紀はビクッと肩を揺らした。
「……!」
にゃあ、と目の前で白猫が鳴いた。