02:飼い主と愛猫
由紀はそれほど霊感があるという訳ではない。だから霊とはいえ、よっぽど注意して見なければ見えることもない。古谷君の小さな猫の霊が見えるのは、きっと由紀自身が猫好きで、彼女の中の何かしらのレーダーが反応していたのかもしれない。
とはいっても、さすがに夜は違う。夜は様々な邪のものが横行し、活発になる時間。いくら霊感の少ない由紀とはいえ、夜には見たくもないのに霊を見てしまうことは多々ある。だから彼女の中では自分の門限は五時半と決めている。由紀の家は比較的緩く、門限など言い渡されたことは無いが、これは由紀の中でのお約束事だった。しかし母にはいつも心配されたものだ。由紀、あなたもしかして友達いないんじゃないの、と。
失敬な、と由紀の眉間に皺が寄るのは当然のことだった。
「じゃあわたし部活行ってくるね!」
「うん。頑張ってね」
「また明日―!!」
放課後、陸上部らしい純ちゃんを見送る。
もちろん由紀は部活は入ってない。中学から憧れは抱いていたが、あまり遅くなるようだと霊が活発化する時間になってしまうので潔く諦めた。気のせいかもしれないが、夜になればなるほど、霊たちの姿もおどろおどろしくなってくるような気がするから。
帰り支度を終えると、ふいっと古谷君の席の方を向いた。古谷君が猫を肩に乗せるようになってから、この行動はもはや日課になっている。
いや、古谷君を見ると言うよりは、彼の肩の猫を見ているというか……。
要するに、由紀は自分が自覚するよりも猫好きだということだ。
無自覚な彼女は、無自覚にペットショップへと向かった。小学生の頃からよく学校帰りに寄っていたものだ。すっかり顔見知りになった店員さんにはいつも心配されたものだ。由紀ちゃん、あなたもしかして友達いないんじゃないの、と。
失敬な、と由紀の眉間に皺が寄るのは当然のことだった。
高校になってから、このペットショップは大分学校から通いやすくなった。学校から徒歩数分のところにあるこの場所は、しかしそれほど賑やかなところにある訳ではなく、店員さんには申し訳ないが、正直あまり人気のあるところではないようだ。とはいえ、だからこそ由紀が長い時間ペットショップに入り浸ることができているのだから、有り難いと言えば有り難い。
……そしてその件のペットショップだが。
店のショーウィンドウの前で立ち尽くす男子生徒の姿があった。可愛らしい猫や犬、その他の動物たちがたむろすその場所には似ても似つかわしくない彼――まさかの、古谷君であった。
そろそろと遠巻きに由紀は近づいた。とは言ってもこの通りの道は狭いので、大して隠密行動できていない。しかしそれでも彼が彼女に気付かないのは、それほどショーウィンドウの向こう側に興味を示しているからだろうか。
何を見ているんだろう。
純粋に好奇心が沸き起こり、彼の数メートル後ろから覗き込んだ。
猫を可愛がっている彼のことだ、きっと同じ白猫でも懐かしくて眺めているんだろう。そう思っていた。
しかし違った。彼が見ているのは首輪だった。赤い首輪。彼の猫がしていた首輪によく似ているそれ。
古谷君は由紀に気付かないまペットショップの中に入って行った。特に考えることなく、由紀も後に続く。
「いらっしゃいませー」
店員さんの明るい声が二人を迎えたが、古谷君がそれを気にするわけもなく、一直線に首輪の元へと向かった。手に取るでもなく、ただじーっと眺めている。
「あら由紀ちゃん。いらっしゃい」
顔見知りの店員――井出さんだった。由紀は会釈する。
「久しぶりね。今日も猫を見に来たの?」
声に出さずにこくこくっと頷く。ついでにしーっというジェスチャーもする。さっぱり意味が分からなかっただろうに、井出さんは曖昧に微笑んでくれた。
「じゃあ、ゆっくりしていってね」
「はい」
古谷君の姿を視線の隅に捕らえながら、由紀は猫のコーナーの前で足を止めた。
いつもなら口元を緩ませながら猫に話しかけているはずだった。しかし今日は何故だかそんな気にはなれない。気づくといつも古谷君の姿をちらちら見ていた。
彼は思い詰めたような表情で首輪を眺めている。新しい客の入って来ない、時が止まったようなその世界で、彼はようやく動いた。まるで壊れ物でも扱うかのような優しい仕草で古谷君は首輪を手に取り、そしてレジへと歩き出そうとした――。
「買うの?」
気づけば声に出していた。
「は……?」
「それ、買うの?」
驚いたような瞳の彼と目が合う。
「べ……別に買わねえよ!」
瞬時にバッと乱暴に首輪を棚に置くと、古谷君は逃げる様に店を出た。バランスが悪かった首輪は音を立てて床に落ちる。すぐにパタパタと井出さんが駆けつけた。
「あーもう! 商品なんだから大切にして欲しいわ!」
「すみません。私が怒らせてしまったんです。買い取ります」
慌てて駆けよった。失敗した。つい純粋な好奇心と疑問が口を出ていたようだ、いつもの癖で。
「あーいいのいいの。ああいう人は結構いるから」
「でも――」
「本当にいいのよ、慣れてるから。鼻水だらけの手で商品に触ったり、店内でボロボロとお菓子を食べこぼしたり……。まあもっぱら小学生が多いんだけど」
ああいう、と一言で小学生と一括りにされた古谷君。
由紀は少し彼のことを不憫に思った。
「ほら、大した傷もついてない! どうせ形ある物は傷ついていく運命。この首輪もきっとペット飼い主との触れ合いの中で傷ついていくんだから誰がつけた傷でも大差ないわよ!」
……ペットとの大切な思い出の中に、古谷君がつけた傷が残る……?
それはそれで飼い主は喜ばないんじゃ……。
複雑な顔をしながら、しかし由紀は災いの口を開こうとはしなかった。
「でも由紀ちゃん、あの彼と知り合いなの?」
「え?」
「ほら、だって急にあの人に話しかけたでしょう? 知り合いなのかなって」
「あー……」
言葉を濁しながら由紀は考える。果たして知り合いと言えるのだろうか。彼と言葉を交わしたのは今日が初めてだと言うのに。
「知り合いって言うか、同じクラスの人です」
「へー。何だか複雑そうね」
井出さんはさっとその一言で終わらせると首輪を棚に戻した。こういうところは大人の女性を思わせる。
「そう言えば彼、数年前にもここに来たことあったわねえ」
「え!?」
思わず由紀は驚きの声を上げた。
「数年前って……まさか井出さん、お客さん一人一人のこと覚えてるんですか?」
「あはは~そのまさか」
おどけた調子で井出さんは手を振る。いつも軽い人だと思っていた由紀の中で、すっかりやる時はやる人という印象に――。
「だってこの店に来る人、全然いないんだもーん」
やっぱり覆されなかった。
「宣伝しないからですよ……」
「ま、人が来ないと私も楽だからねー」
「それじゃあ売り上げが……」
「まあまあ、で、話を戻すとね?」
井出さんは強引に由紀の小言を遮った。もはや呆れるのも面倒だ。
「彼、数年前に来たきりなんだけど、その時に首輪を買ってったのよ。ほら、さっきの赤い首輪」
「はあ……」
「無くしたのかしらねえ……。でも首輪ってなかなか外さないものだし」
なくした。
愛猫も、首輪もなくして、途方に暮れて古谷君はここへ来た。
せめて愛猫がつけていた形見を――と思ってきたのかもしれない。
そんな彼に、由紀は声をかけた。果たして、それは正しい行動だったのだろうか。




