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8・ターゲット(松島学)

「お、おれは死ぬんだ。先生、上がってくるなよぉ」

 上ずった声を上げる松島と書かれた名札を付けた体操服姿の高校生が、屋上の端っこから下から見上げる担任に向かって叫んでいる。

「えーと、君、松島学君ですか。歳は十七歳でいいんですよね」

「あ、あんた誰?」

 下にばかり気を取られていた松島学は、背後からいきなり話しかけられて驚愕に目を見開いた。鍵をかけていたはずだ。何でこんなところに女の子がいるんだ? しかもちょっと可愛い子だ。

 前髪から耳の後ろまで入れているシャギーのせいで前から見るとわからないが、今みたいに横を向くと背中まで届く長い髪なのがわかる。黒い体の線に沿った長袖のTシャツ。ぴったりしたデニムが、少年ぽい中にもほんのり女の子らしさを醸し出して……ああ、おれ死のうと思ってんのに何で女の子の服を解説しているんだと思う。がっくりとする松島学にお構いなくその女の子は話しかけてきた。

「で、どうなの? 君は松島君でいいんだよね?」

「あ、はい。でもどうして知ってるの?」

 松島学の質問に女の子は初めて狼狽した様子で、いやあとか何とか言いながら横を向いた。

「うちの学校じゃあないよね」

「ああ、わたし高校生じゃないから」

「え? 中学生なの?」

「じゃ、なくて私高校浪人なんだ」

 びっくりして松島学は目の前の女の子を見た。勉強嫌いで遊んでいる風にはとても見えない。それともよっぽど入りたい学校なのか。いずれにしても高校浪人とは珍しいし、親も良く許したもんだと松島学は自分の母親を思い浮かべる。

 口うるさいし、晩飯はいつも帰りに寄るスーパーのお惣菜売り場の残り物だ。だけど一日も休むこともせずに朝から晩まで働いていた。それでもパート勤めでは毎月十五万そこそこくらいしか稼げない。

 父親が亡くなった後、専業主婦だった母は嫌も応も無く働くことになった。しかし四十を過ぎて、何の資格もなくパソコンのキーボードすら触ったことがない女性に、なかなか時給のいい仕事があるはずもない。ただ、日々の暮らしの為に働く毎日だった。

 なのに俺はバスケットの強化選手から漏れてしまった。今まで推薦で入れるだろうと、ろくに勉強もしていなかった。今更どうしようもないが、高卒で働くなんてばからしいと変なプライドが苦しくて、発作的に屋上に上がってしまったのだ。

「だから死ぬの? 松島君」

「え?」

「あ、ごめん。今、心の中ちょっとのぞいちゃったみたい」

 そう、言ってから葵は自分でびっくりしている。人の心を死神は覗けるのか? でもそれは、対人間だけなのか。

 貫太郎は私の心を読んでいたけど、私は貫太郎の心なんて分からなかった。そして、葵は今更ながら人って自分の殻に閉じこもっている間は、周りが、いや自分のことも見えてないんだと知った。

 どうして、そんなことで死んじゃうのか? 

「だったら今から勉強すればいいじゃない。まだ一年もあるのにあきらめるの早くない? でさあ、推薦じゃだめなら夜学だって何だってあるじゃない。学生向けのローンだって何だって……道は途切れているわけじゃないじゃん」

 自分で言いながら葵はそうだ、と思う。

 今までこれしかないと他のドアを開けなかっただけで、実は自分の前には無数のドアがあったんじゃないのか。ばかなのは自分も同じだ。

「お、おれ生きるよ。君さ、天使なんだろ? おれを助けるために来てくれたんだ」

 松島君の目が輝いている。

 ――えっ? 私何しに来たんだっけ? あ、そうだ。この人の魂を招魂するために来たんだった。でももう死なないって……。ま、まあ人助けってことでいいよね。

「天使じゃないけど……頑張ってね松島君」

 この場合帰りは階段から下りるのは流石にまずいと、屋上の手すりに葵はよじ登る。くるりと松島学に手を振って笑顔を見せると必死の形相で飛び降りた。激しい風の中、貫太郎のように飛ぶ、ことは出来なかったが体が叩きつけられることも無く葵は足から着地した。

「おまえ、何やってんだよっ」

 そこへかかる厳しい声に、葵が声の主の方へゆっくり顔を向けると、いきなり平手が飛んできて葵は尻餅をついてしまった。

「何するのよ、しょうがないじゃない。死ぬの止めるって言うんだから」

「ばかやろう、青く変わるまで待てって言ったじゃないか。何でオレンジ色の時に話しかけたりしたんだ。滅茶苦茶だ」

「それは悪いとは思っているけど、何にしろ死ぬのを止められたんだからいいでしょ」

 葵の最後の言葉に貫太郎は冷たく答える。

「俺たちは人助けが仕事じゃない。招魂するのが仕事なんだ。余計なことは止めろ」

「はあ?」

 貫太郎の返事に葵は怒り狂って、貫太郎の頬をグーでなぐりつけた。

「ばかはあんたよ、この腐れ死神」

 そう言いながら葵は自分が泣いているのに驚いた。

 ――すぐ泣く女なんて最低だと思っていたのに。だって貫太郎があんな酷いことを言うなんて思わなかったのだ。悔しくて泣ける。

 一方、大人しく殴られた貫太郎は、唇をかみ締めながらしばらくその場に立っていた。

「俺は行くところができた。あんたは自分家のマンションの屋上で待ってろ」

 そう言い放つと、葵の返事を待たずに貫太郎は鴉になると北の方角へ鋭い弧を描いて飛んで行った。


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