2・生きたい
七分後、サイレンの音がマンションの下に響いて葵の体は救急病院へと運ばれた。だが処置室に入るまでに一騒動あった。母親がストレッチャーにしがみ付いて離れなかったのだ。ようやく看護士やら救急救命士やらが引き離したのだが中年の女一人にこんなに大の男がてこずるのかと思うほど母親は暴れた。
葵は他人を見るように自分の母親を見た。何事も合理的に考えて行動する人だった。人前で娘の救命が自分のせいで遅れるような馬鹿なまねをするなんて。いつもの母親からは信じられないことだった。
「何をしているんだ、由美子。いい加減にしないか」
息を切らせてやって来た父親が大声を出す。
「葵が……どうしたらいいの?」
「圭、一体なにがあった? お母さんからの電話では何もわからない」
「葵が、どうやら自殺を図ったらしい。風呂場で手首を切って倒れていた」
「――自殺?」
息子の言葉に、急にがっくりと父親は椅子に座りこんだ。両手で自分の頭を支えていないと落ちてしまうとでもいうように、しっかりと垂れた頭を抱える。
「あいつの気持ちをなぜ聞いてやろうとしなかったんだ」
しばらくの沈黙のあと、ぽつりと言うその顔は母親の方を向いていた。
「そうよ、全部私のせいよ。それでいいわよ」
「そんな事を言っているんじゃない、葵が何を思っていたのか聞いたことがあるのかを……」
「それじゃあ親父は聞いたことあんのかよ、葵の気持ち」
圭の一言に両親の言い争いのような会話が止まる。
「葵だけじゃ、ない。俺の気持ちだって一度も聞かれたことなんてない」
「圭、何を言って……」
「俺は確かにあんたらの思惑どおりに動いていたけど、だからっていつも幸せいっぱいだったわけじゃない。そりゃあ表立ってあんたらは勉強しろともなんとも言わなかった。物心つくころには聞かされる話は自分たちがいかに勉強して親の助けなしに大学を卒業し、貧乏に耐えながら司法試験に受かり、事務所を経営してきたか、そんな話ばかり。金のかかる私立の学校に行かせてもらえるおまえは幸せだと、いつも言われているようで苦しかった。頑張っていい成績を取っても当然のようにみられて息が詰まりそうだった。だから家を出たんだ」
圭が、出来のいい兄貴がこんなことを感じていたなんて知らなかった。自分だけがこの家族の中でつまはじきなのかと思っていた。圭が素っ気なかったんじゃない、私が避けていた。そう、だった。
葵は今までと違う目線で家族を見ている自分に気付く。
「圭、そんなつもりでお母さんたちは言っていたんじゃないのよ。でも、そう思わせていたのなら言っていたのと同じだわね、ごめんね、圭」
いつもの自信満々でスーツをきっちり着こなしている母親とは別人の、肩を落とした化粧の崩れた中年のおばさんがそこにいた。
「葵も苦しかったんだね、きっと」
「うん、俺自分のことでいっぱいで葵のこと、知っていたのに。壊れそうだと思っていたのに放っていた。ちゃんと聞いてやりたい、あいつの気持ち。受け止めてやりたいよ」
圭は堅く閉じられた扉に向かって両手を揃える。
「そうだな、助かるさ、こんなにみんな願ってるんだから」
父親の目からついっと涙がこぼれる。
――私、聞いて欲しい。私の気持ち。そしてお父さんの、お母さんの、圭の気持ちも聞きたい。だから生きたい。生きたいよ。
沸き上がる気持ちに葵は叫びたくなる。
葵は声をあげようとしたが、気道を確保するために入れられた管のためにそれは出来なかった。そして腕の傷が激しく痛む。
――ああ、自分の体に帰ってきたんだ。そうだ、生きるって痛いんだ。体も心も。だけど神様、私生きたいです。
葵は心からそう願った。
「ん――それは無理」
「ええっ?」
目は閉じているはずなのに、目の前にTシャツにデニム姿の少年が見える。自分と同じくらいの歳の痩せた体。少し長めの髪に一番目立つ、切れ長の蒼い瞳。
そしてこの発言……ありえないでしょう、普通。
「どういう事?」
「救急車呼ぶの遅すぎたみたいだぜ、あんた、もうこっち側に足つっこんでる。家族の話につい、うるっときて目を離した隙に体に戻っちゃたみたいですまん」
――す、すまんって。ところで何で私しゃべれるの?




