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16・ターゲット(巽 百合子)

「ここだ、行ってこいよ。見ててやるからさ」

 貫太郎は、輸入住宅が並ぶ新興住宅地の一角を指差して葵に魂を入れる容器を差し出す。

「巽 百合子さん、四十二歳だ」

「わかった、行ってくる」

 最後の仕事だ。拳をぐっと握ると、葵は思いを頭の隅に追いやって急いで瀟洒しょうしゃな家の前に立つ。外国風の家に見合うように庭はイングリッシュガーデンの装いで、それは雑誌にでも出てくるような代物だった。庭に立ててあるラティスの陰に隠れながら、葵は家の中を伺う。

 庭に面したリビングは、ベージュを主体とした色味で統一されていて上品にまとめられ、塵一つ落ちていない部屋の中のクッションが効いたソファーに座っている中年の女性も家と同化してしまいそうに上品だった。なんだか作り物めいて居心地が悪いと葵は思う。

「これで、これからの人生、わたしのことを忘れられなくしてやるわ。離婚なんてしたらあの人は、あっさりわたしのことなんて忘れて、あの下品な女と楽しく暮らすだけなんだから」

 目の前の睡眠薬に向かって、百合子は吐き出すように言った。文句を言ってやろうにも夫はもう何ヶ月も家に帰ってこず、電話にも出ない。会社に電話しても居留守を使われていた。だが、給料はそのまま手付かずで口座に入ってくる。

「わたしをばかにしてっ」

 大声でそう言うと百合子は薬の瓶を掴んで蓋を開ける。たくさんある薬を何回にも分けてすべて飲み干すと薬の瓶は空き瓶を溜めている袋に、コップはざっと洗って造り付けの食器洗い乾燥機の中に入れた。こんな時でもきっちりとしないと気がすまない自分に僅かに苦笑いして、百合子はくたりとソファーに倒れ込んだ。

 葵の見ている前で、一時間も経ってから彼女の胸がオレンジ色から暗い色に変わってきた。青というよりは茶色に見える。

 ―−何て濁った色なんだろう。どうして?

「あなた、誰?」

 いきなり目の前に立って険しい顔で問い詰める巽 百合子に、葵は慌ててラティスの陰から飛び出した。

「私はあなたを迎えに来たんです、巽 百合子さんですよね」

「迎えにきたですって? わたしはどこにも行かないわよ。ここにずっと居てうちの人とあの女を見てなきゃあいけないもの」

 きっぱりと言う百合子に葵は二の句が継げない。こういう場合はどうすればいいのか?

「だって百合子さん、もう死んじゃってるんですから。ここに留まったっていい事なんかないですよ。生まれ変わってまた戻って来たらいいじゃないですか」

「行かないと言ったら行かないのよ。第一、あなたなんかに名前を呼ばれる覚えなんてないんですからね」

 ヒステリックに言い募る百合子にどう、対処したものかと葵はため息をつく。ここに留まって何になるのだと葵は思うが深い嫉妬に凝り固まった百合子に、今何を言っても聞く耳を持たないだろう。

 自分の妄執に捕らわれている魂は、こんなにも濁った色なんだと葵は悲しくなる。自分もそうだったのだ。自分がかわいそうで他人が皆悪者だった。孤独な自分がかわいそうで不憫でその反動は自分以外を憎むことに向かっていく。

「百合子さん」

 おもわず葵は百合子を抱きしめていた。昔の自分を見ているようで、ただ、悲しかった。誰だって初めからこんなじゃなかったはずだ。小さいボタンの掛け違いなんだ。それは自分からでもあり、他からかもしれない。それが重なり、積み上げられていって、気付いた時にはその重みに潰されそうになっている。

「やめてよ、離しなさい」

 暴れる百合子にそれでも強く抱きしめて葵は何度もわかるよ、と呟いた。

「あなたなんかに何がわかるのよ……何が」

「私も自殺したんだよ、百合子さん。死ぬかどうかはまだわからないけど」

「え?」

 葵の腕の中の百合子は、暴れるのを止めて葵の顔を見る。

「だからさ、苦しい気持ち、ひとりぼっちの気持ち、見捨てられたような気持ち、全部わかる」

「わ、わたし……」

 がっくりと座り込む百合子に合わせて葵も腰を降ろす。

「家庭的な私が好きだって言ってたのよ。だから仕事を辞めていつ誰が来てもおかしくないように家を整えて手作りの料理を作っていたのに。会社の同僚と浮気していたの。私より年上のバツイチで子持ちの女よ」

 笑っちゃうわよねと百合子は拳を握った。

「この家より、あの女の家の方が自分の家だと思えるんですって。絶対離婚なんてしてやらないと思ってたけど、離婚なんかしなくったって主人はもう帰って来ないんだもの。思い知らせてやりたかったのよ」

 そうじゃないわねと百合子さんは首を傾げた。

「憎まれたっていいからわたしに意識を向けて欲しかったのかもね。だって完全に独り相撲だもの」

 寂しそうに言う百合子さんの手を葵は掴む。

「そんな気持ちのまま、この先ずっとここにいるなんて損だよ」

「損って?」

 不思議そうに見る百合子に、葵は笑顔を作ってみせる。

「そう、百合子さんはこれからやりなおせるんだよ。それも初めからね。今度はこんなことにならないようにもっと素敵な人と巡り会って楽しく暮らさなきゃあ」

「やり直す?」

 百合子は座ったまま長いことまったく身じろぎ一つしなかった。そしてぽつりともらす。

「そうね、やり直せるんだったら――行くわ」

 葵の方を向いた百合子は、何かつき物が落ちたように妙にさばさばと言って立ち上がる。そして、あっさりと姿を消して青い玉になって床に転がった。

「もう、最後まで自分勝手なんだから」

 そうは言いながら葵はにこりと笑って、玉を容器に入れて留め金をかけた。それをデニムのポケットにねじ込みながら後ろを振り返ると、貫太郎が手を振っていた。

 ――これで終わり、終わりなんだ。

 葵が戻って来るのを笑顔で迎えて、貫太郎は魂を葵から受け取ると歩き出した。

「さっきはどうなるかとひやひやしたよ。あのおばさんがもう少し粘ってたら悪霊たちに呑まれてたろうな。まあ、よくやったよ」

 葵は結構危ない橋を渡っていたのかと今更ながら怖くなった。貫太郎はそのまま川沿いに向かって歩いて行く。遅れないようについて行きながら葵は貫太郎の背中に声がかけられないでいた。

「俺の事、話すって言ってたよな」

「う、うん」

 河川敷に置いてあるベンチに座ると、貫太郎が川面に視線を移す。初夏の日差しを受けて川面はきらきらと輝いていた。

「俺が生きていた時代はちょうど明治時代に入る手前の混乱した時代だった。俺は親を亡くして、たった一人の姉と村長の家に引き取られて下働きをしながら暮らしていた。俺の本当の名は佐吉というんだ」



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