10・冥府
開いた扉をくぐると空を飛んでいたはずの二人は、舗装された一本道を歩いていた。空はどんよりとした分厚い雲を持ちきれず、今にも雨が降りそうだった。そのせいか、纏わり付くようにねっとりした空気に葵は包まれている。そのくせ道の左右に広がっているのは、立ち枯れた低木の茂みが見渡す限り延々と続く荒涼とした風景だった。葵にはとてもじゃないが、ここが天国でもあるとは思えなかった。
「雨が降りそうだよね」
「雨?」
葵の声に不思議そうに、貫太郎は空を見上げる。
「ここはいつもこれだ。これ以外の天気なんて見たことないな。ああ、あれだよ目的地」
貫太郎の指差す方に顔を向けて、葵はあっと息を飲む。さっき通った門の扉と同じ材質の石造りの巨大な建物がいきなり葵の目の前にそびえていた。陰鬱な印象の建物の正面玄関の階段を貫太郎が、軽快に駆け上がる。そのようすになんとなく重い気持ちで葵も続く。そこは大きな城壁に囲まれた、一つの町ぐらいある建物だった。どこかで見たバベルの塔に似ている。中はまるで迷路か植物の根っこのように複雑に入り組んでいる通路の左右に、無数の部屋を繋ぐドアがあった。
「ここが冥府なの?」
「うん、俺にぴったり付いていろよ。迷子になってそのまま浮遊霊、ってことになるぜ」
言われなくても一人で出歩く気になれないほど、葵は心細くて貫太郎のシャツの裾をいつの間にかしっかりと握りしめていた。しばらく右に行ったり、左に行ったりしていた貫太郎は、高さが四メートルはありそうな観音開きのドアの前で止まった。
その扉の横に、警備員のような服装の二メートル近い男が左右に立っている。その男の一人に貫太郎が話しかけた。すると扉が人一人分くらい外側に開く。
「ちょっと、ここで待ってて」
ええーっと縋るような顔をみせる葵を残して、貫太郎は扉の中に入って行く。すると扉は音もなくぴたりと閉まってしまった。
ここで待てって言われても……と廊下の壁に背中を預けて葵はぼんやりと扉の前に立つ警備員を眺めた。地獄の警備に付いているのは、牛鬼とかじゃなかったかしらと思ってみる。だがここは、天国、地獄というものじゃなかったんだと改めてぐるりと頭をめぐらした。
「あれえ、一般の魂が紛れこんじゃったの? お嬢さん」
その声に横を向いた葵に、大学生風の若い男がこっちに向かって歩きながら声をかける。
「一般――じゃないみたいだな。同業者だよね、今日は。ぼくはギルっていうんだ。君は?」
「あ、葵です。澤田葵」
見た目はどこから見ても日本人なのに、ギルなんて本名なんだろうかと思っている葵にギルは素っ頓狂な声をあげる。
「澤田葵って、それ生前の名前だろう? 何君、ぼくをからかってんの?」
「生前の名前……? 私死んでないけど」
「死んでない?」
ギルは真面目な顔になって側まで来ると葵をじろじろと見まわした。そうして納得したように笑顔を見せた。
「ごめん、誤解してたみたい。君、臨時職員なんだ。で、誰についてるんだ?」
「えっと、指導教官は貫太郎だけど」
「貫太郎? そんな奴ここにいないけど」
ギルは不思議そうに首を傾げた。
一体、どういう事なのか。招魂士は死んでいる者なのか? じゃあ貫太郎も死んでいるの?
「葵、お待たせ。俺の部屋に行こうぜ」
部屋から出て来た貫太郎の姿を見た途端、ギルは目を大きく見開いて「じゃ、じゃあね」と慌てたように去って行った。
「聞きたいことがあるんだけど」
「後でな」
入り組んだ通路を、ひたすら歩かされ、文句の一つでも言ってやろうと葵が決心した頃、やっと貫太郎が一つのドアの前で立ち止まって、胸の高さにある艶のある金属プレートに何かを打ち込む。すると、かちりとロックが解除された軽い音がした。
「こういう時は、部屋散らかってるかもしれないけどって言うんだろ」
そう言ってドアを開けて入って行く貫太郎の後ろから、おずおずと葵も部屋に入る。部屋は八畳くらいの洋室で作りつけの平机が壁に付けてある。そして反対側の壁にベッドがあった。奥がクローゼットになっているようで、反対側は普通なら窓があるのだろうが、ここには窓らしきものは無い。散らかっているどころか何も無い、やけに生活の匂いのしない部屋だった。
「とりあえず、俺は床に寝るよ。じゃ、おやすみ」
クローゼットから毛布を取り出していきなり寝ようとする貫太郎に、葵は慌てて声をかける。
「ちょっと待ってよ。ご飯とか、おふろとか、洗濯とか、トイレの場所とかいろいろ言っとかないとだめなことがあるでしょう?」
葵の言葉に、貫太郎は弾かれたように起き上がって笑った。




