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1・蒼い目の鴉

 高層のマンションの十五階の南側の端の区画にあるベランダの手すりに、一羽の鴉が止まった。中を窺うように首を上下させたその鴉は他の鴉とは違う特徴がある。その目が深い海のように蒼いのだ。


 しかし、違うのはそれだけじゃない……。



「とうとう、やっちゃった」

 俯瞰ふかんした構図で葵は、自分が死に行く様を他人のように眺めていた。浴槽の脇に崩れるように倒れているスウエット姿。左手はその浴槽の縁まで溜められている水の中にあった。そこから流れる朱赤の液体が水に溶けるのを拒むように浸けられた手の周りを縁取って広がっている。

 世界から拒絶されている、葵がそう感じ始めたのはいつの頃からだろうか。

 兄と同じ中学の受験に失敗して地元の公立中学に通うようになった時か……それともレベルが落ちる別の中学の合格通知を親の前でちぎって捨てたあの日からだったか。いや、もっと前からかもしれない。

 あれから三年、自分なりに見返してやろうと頑張ったはずだった。いや、頑張ったのだ。しかし、頑張れば夢は叶うなんて現実はそう甘くない。




 中学三年生の半分も過ぎると高校をどこにするのか、そろそろ本格的に決めようという頃だ。そして、何回目かの三者懇談の日。

「澤田、そこそこできるんだから公立を一つは受けないか。私立専願と言ったってここはレベルが高すぎるよ。先生は勧められない」

 担任が何枚もの書類を交互に見ながら口にした言葉に葵は苛立った。そこに入れない自分なんて存在価値がないのだ。

 ――応援してよ、先生。お前ならできるって言ってよ。

 葵は胸の内で先生に訴えるが、口は堅く引き結ばれていた。

「やはり、ここは無理ですか、そうですよね。私も主人も塾の先生もそう言うんですけどこの子聞かなくて」

 お母さん、そんな大きな溜息をつかないでよと葵はちらりと母親を見る。

「私もも主人も勉強だけは出来たんですよ、運動のほうはまあ見られたもんじゃないんですけど。この子の兄もねえ、わりとするっと希望の学校へ入れたものですから……。小さい頃から勉強しろと言わなくてもやるものだから安心して中身まで気を使わなかったつけがきたのでしょうか?」

「いやお母さん、決して成績が悪いわけじゃないんですよ。希望の学校のレベルが高過ぎるだけで」

 延々としゃべる母親の横で葵は口を両手で押えていた。この会話、この場所、すべてに吐き気を覚える。バカにしていると思った。お母さんはお兄ちゃんと違って頭が良くないと思ってる。困った子だとため息をついている。

 無理しなくていいなんて優しいふりをしないで欲しい。あなたのために言ってあげているとか恩着せがましい事を言わないで。そうやって言われる度に「お前には期待していない」と指を突きつけられているような気になる。

 どうして皆無理としか言わないのか。見返してやる。私は絶対ここに行くんだと葵は唇を噛んだ。それからは、もう起きている時間のほとんどを勉強に充てた。死ぬ気で、そうそのくらい必死で取り組んだ。気づけば学校で葵の周りには誰もいなくなったくらいに。

 それなのに、

 合格通知は来なかった。

 長い長い春休み。

 母親に泣かれ、受けた公立の二次募集の試験は合格したが、葵はそれきり部屋から出なくなった。





 初夏の爽やかな風が吹く季節が終わり、六月を前に葵は決めた。じめじめするのは自分だけでいい。それくらいの気持ちで日にちを決めた。

 それが今日だ。弁護士である母親の帰宅は、今日も遅いだろう。弁護士事務所を、共同経営している父親もたぶん同じ。二人が帰って来る前にすべて終わっているはずだ。

 風呂の水を目一杯溜めてからカッターナイフで左手首を切り浴槽に浸けると寄りかかるように座った。そうすれば、あっという間に意識が無くなると思っていたのに、傷口が浅いのかじくじくと痛い。

「死ぬのって結構時間がかかるんだ」と葵はため息をついた。

 何をやっても上手くいかない。きっとこのまままずっと上手くいかない人生が続くのだ。そんなのもう耐えられない。鬱々とそんなことを思っているとやっと意識が混濁してくる。

 ――やっと死ねる。

 そう思った葵は玄関を開ける音に気付く。

「あの書類どこに置いたかしら。出かける前だからリビングだわね、きっと」

 ぱたぱたとスリッパの音が近くなり、ぱたりと止まる。

「葵、シャワーでも浴びているの? 朝ご飯食べた?」

 母親の気遣うような声が聞こえる。

「葵、戸が開けっ放しよ、水が外に漏れるから母さん閉めていい?」

 浴室の折り戸を閉めようと扉に手をかけた母親の動きが止まり、掠れたような声が上がった。

「あ、葵、あおい、あおい、しっかりしなさい。た、大変だわ、お父さんに電話しなきゃあ。そうだ、圭にも連絡しなきゃあ」

 何で救急車じゃないんだ、この人は。葵は軽く溜息をついて慌てふためく母親を眺める。でもこんなに容易くパニックに陥る人だったっけと思う。



「母さん、葵がどうしたって?」

 しばらくして現れたのは大学生の兄だった。そして浴室を指差す母親を一瞥して中に入る。

「葵、大変だ。何やってるの母さん、救急車呼んで、早くっ。なんで葵をそのままにしとくんだよ、手からの出血を止めなきゃ」

 葵の体を抱いた圭が浴室の前に立っている母親を突き飛ばすようにしてリビングに運ぶ。辺りを見回して手近に適当な物がないと見るや、葵の履いていたスウエットのズボンから紐を引き抜いて傷口から心臓に近いほうを縛った。

「母さん、電話した?」

「ああ……今するとこ」

 息子の指図に茫然自失の沼から生還した母親は慌てて救急に電話する。

「どれぐらい経ってしまったんだろう。おい、葵目を開けろ」

「あたしのせいなんだわ、葵がこんな事になったのは。そうでしょ、ねえ、圭」

 縋りつく母親を引き剥がして圭がきびしい声を出す。

「今はそんな事どうだっていいよ、毛布持ってきて。体が濡れて冷たいんだ、わかる? 母さん、今は自分の気持ちなんて置いておけよ。葵が死ぬかもしれないんだぞ」

 大声で母親をしかりつける兄に内心驚いた。こんな頼りになる奴だったんだ、圭。いつもすましてて葵の事を見下してるか、それとも眼中に無い。そう思っていた出来の良い兄の姿にちくりと痛むのは体じゃなく心の方か。葵はそっと胸をおさえた。


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